長編「THE ANIMA(銀の冠)」
上記小説と同一主人公で、卒業後のお話です。
原作に存在しない学校名とキャラが出ています。

 ■ ■

 卒業式を終えた女学院生は、華やかに飾られた学び舎と晴れ空の下で別れを惜しんでいた。
 異性を排した学校では上下の繋がりが密接になりやすい。性別の違う相手と折り合いつけながら生活する必要がなく、女の天下になるからだ。ノクス女学院は他に比べ自由な校風を売りにしているが、それでもその特徴は随所に現れた。繋がりが強い分、惜別のときに湿っぽくなる生徒も多い。こういう水っけのある感情ばかり長引くのは女の生まれ持った性かしらと思う。かく言う私は涙と花のメインストリートを抜け出して、中庭の小道を花壇沿いに歩いていた。さっきまで後輩のイヴが泣きに泣くのを宥めていたけれど、連れのルイーズが他の生徒と打って変わってサッパリ笑っているものだから、私の切なさもなりを潜めてしまっていた。

「ナマエは卒業したらどうすんの」
「進路のお話ですか? それなら私は魔法大学に入ります。ルイーズは警察官を目指すんだっけ」

 ルイーズ・サリヴァンがすっかり着崩した式典服を肩に引っ掛けて言う。私は結局、四年間このヘビクイワシと一番仲がよかった。サリヴァン家は夕焼けの草原では歴史ある官僚一家だけれど、一人娘のルイーズは良くも悪くもそれを感じさせない蓮っ葉な女の子だ。こんな子と馬が合うとは自分だって想像していなかった。私は思ったより砕けた人間のほうが好きなのかもしれない。

「うん。まあ女には狭き門だけどねー。で、進路もそうだけどさ。ホラ、いたじゃん、あんたの彼氏。あの人と婚約とかはしてないの?」
「こっ……き、気が早い! まだ十代なんですよ!」

 あけすけな物言いにカッと頬が熱くなる。その手の免疫はついたほうだと思うのに、あの人を脳裏に浮かべると勝手にこうなる。ルイーズのからかいは嫌ではなかった。

「そう? 名家の間じゃ生まれたときから許嫁がいるなんて珍しかないし、親にも話したんでしょ。あたしも結婚式に呼んでほしいんだけど」
「それはもちろん、ルイーズがよろしいなら呼びますけど……まだそんな話はしてないっていうか……」
「えっ。してないんだ? 意外」

 これにはルイーズもなぜか驚いたようで、パチパチ瞬きするだけの時間が数秒挟まった。なんて長い睫毛なの。ヘビクイワシは水滴が乗るほど睫毛が長く、美しい鳥として知られている。ルイーズもご多分に漏れず、強気で美人な顔だ。私は自分の高飛車で性悪そうな女顔より、彼女の中性的な美貌を羨ましいと思ったことが何度かあった。

「ちなみにバイパーは卒業後どこに行くわけ」
「魔法大学に進むことも考えたそうだけど、結局故郷に戻って従者を続けるって」
「あ、そう。遠距離恋愛なんだ。そしたらまあ、あんたらはなるようになるか」
「なあに。どういうこと」
「なんもない。あたしお腹空いた」

 ルイーズはそれきり話題を変えて、これから美味しいご飯を食べに行こうと誘ってきた。それがまた、女学院生が行くとはとうてい考えつかない男らしい店なので、あんまり面白くって快諾してしまった。彼女の家柄に囚われない大づかみな人柄を愛していた。そうして十三の夜、ノクス女学院を選んだ自分をたっぷり褒めてあげたい気持ちになったのだった。

    ■ ■

 構内のカフェテラスでレジュメを整理しながら、四限の講義室はどこだったかなと考える。リフォームしたての魔法大学は新しく、近代的な円い天窓から太陽光が差す設計になっていた。ガラスは紫外線をカットする素材のため、日焼けの心配もない。人の少ない時分は随分快適な場所だ。学業は充実しているけれど、どこか空虚な疲れが尾を引くときがある。だから、こうして何も考えず作業をする時間が生活の一部になっていた。しかし今日ばかりは微睡む間もなかった。スマホが着信に震え、停滞した気分が薙ぎ払われたからだ。ジャミルくんだ。人のいないカフェテリアは静かなので「来月の頭、時間あるか?」という声がよく通って聞こえた。

「大丈夫です。どうして?」
「熱砂の国で花火大会があるのは知ってるだろ。今年はアジームの担当じゃないから俺も休暇を取ったんだ。一緒にどうかと思って電話した」

 ジャミルくんは卒業後故郷に戻り、アジームの従者として働いている。魔法大学の進学を諦めたのだと寂しく思っていたら「勉強は合間の時間にやればいい。何なら君が教えてくれ」と言われたときの驚きといったらない。あとから家に帰って、それが気遣いだったのだと思い直した。以来、魔法鏡を使って会いに行ったり、そうでなくても定期的な連絡が続いていた。しかし考えてみれば彼の故郷を訪れたのは幼少期の旅行きりだ。私は自分の期待が膨らんでいくのを自覚した。

「行きたい! ヤーサミーナ河のですよね」
「うん。故郷の言い伝えになぞらえた年中行事だ。といっても、堅苦しいモンじゃないし単なるお祭だから身構えなくていい。当日鏡まで迎えに行くよ」
「忙しいでしょうに、いいの?」
「大したことじゃないさ」
「ありがとう」

 私は早速、何を持っていこうか、どんな服を着ていこうかと考えをめぐらせた。思えばユニバーシティに入ってからは穏やかな日々だった。不満はなかったし、周りから「続くのか」と心配された遠距離の関係だっておおむね順調だ。けれど、カレッジに通っていた頃のような目まぐるしさと熱さがなかった。それがなおさら私の期待に火をつけた。私は思ったよりも寂しがり屋みたい。窓の外でポーチュラカが夏風に揺れている。輝く昼下がりだった。

 七月の第三週になった。その日は輝石の国のユニバーシティと交流会があって、キャンパスの案内役を引き当ててしまった私は一日仕事に追われていた。ヤンチャ盛りのカレッジ生を相手にして、夕方になる頃には疲労困憊のありさまだった。

「長いこと付き合わせちゃってごめんなさい」
「あ、いいえ。案内係なんだから遠慮なく頼っていいんですよ。私のほうこそ疲れててごめんね。実は案内するのはあなたたちが最後なの」

 見学生のユージェニーとアンヌがテラスで足を休ませながらすまなそうに言った。今日相手した中で一番大人しい二人で、あろうことか疲れきった私を気遣って休憩にとテラスに誘ってくれた。思慮深い彼女らが志望校に無事合格できることを願う。

「先輩、残り時間はここでお話しましょう。私も歩き疲れちゃったんで」
「うん。何の話にしようか?」
「ソサイティについて聞きたいです。何かスポーツをやろうと思うんですけど、具体的には決まってなくて。雰囲気の良さで選びたくて、どのソサイティがおすすめですか?」
「雰囲気の良さって、たとえばどういう感じかな。上下関係に厳しくないかとか、まじめに練習できるかどうかとか?」
「いや、ソサイティ内恋愛が許されるかどうかです」

 私はちょっと面食らった。ユージェニーはベリーショートが似合うボーイッシュな雰囲気で、アンヌは小麦色の肌が眩しい活発そうな子だ。てっきりユニバーシティでもスポーツに打ち込みたいのかと思っていた。自分の勝手な思い込みを恥じた。

「内部でカップルができるとたまに雰囲気が悪くなったりするじゃないですか。だから、そういうのが許されて、なおかつ和気あいあいと練習できるところがいいんです。大学デビュー目指すんで」
「そうなんです! 私ら、部活ばっかりでオシャレしてないし、色気のかけらもないでしょ?」
「そうかな? それも爽やかでいいと思うけど。でも二人とも輪郭が綺麗だから、どんな髪型でも似合いそうですね」
「ありがとうございます。来月の引退試合が終わったら髪を伸ばします。ナマエ先輩みたいな女の子らしい雰囲気に憧れちゃって。綺麗だし、きっと彼氏がいらっしゃるんでしょう?」

 そこからあれよあれよと話題が恋バナに移った。落ち着いてスポーティな雰囲気の二人だけど、この手の話になると年相応に目が輝く。こんなふうに詰め寄られるのはルイーズ以来かもしれない。ちょっと恥ずかしくなりながら彼氏のことを話していると、遠距離恋愛の話になるや二人は身を乗り出した。

「えっ! じゃあ彼氏さんとはしばらく会ってないってことですか?」
「そうですね。連絡はしてるけど実際に顔を合わせるのはひと月に一度くらいかな」
「そ、それは……それだと、向こうで女を作ってても気づけないですよ」

 思いもよらない考えに私は目をみはった。あの女っ気のないジャミルくんに浮いた話だなんて想像もしなかった。けれど私のような取り柄のなさそうな女を隣に置いてくれたわけだし、見慣れた故郷の女性なら尚更……。あ、敵わないかも。自信がなくなってきた。

「……やばいかな? 硬派な人だと思うけど」
「やばい! いくらナマエ先輩が可愛くても、手出せないんじゃ生殺しじゃないですか」
「手っ……そ、そういうもの……? でも、来月の頭に会うんです。ヤーサミーナ河花火大会に誘われてて」
「それってチャンスですよ、先輩。史上最強に粧し込むんです。そんで『あんたには私しかいないでしょ』って分からす。この際ガツンと行きましょ!」
「そ、そんな強気な……」

 なんだかあらぬ疑いを掛けてしまっている気がしてならない。というか、そうであってほしい。あのとき聞いた「君以外はありえない」の殺し文句が頭の中でリフレインする。だとしても、例えば使用人仲間の綺麗な女性がいたなら? 私のようなさして冴えない女に飽きたなら? ……。

「……強気に出てもいいのかなあ」
「オッ」
「今までで一番、綺麗になったらいいのかな」
「その調子です!」

 アンヌが日焼けした手で私の肩を軽く叩いた。綺麗なストレートのブロンドヘアだ。セットするとなったら苦労しないだろう。時間になると二人は元気に手を振って送迎バスまで帰って行った。きっと志望校に受かりますようにとお守り程度に触れた二人の手は無垢で柔らかい。可愛い女の子たちだった。カレッジの間はあれでよかったのだ。背伸びのし過ぎは若さを殺すから、可愛いくらいが一番いい。けれど私はもう二十歳だった。綺麗になりたい──差し当たって。私はカレッジから変わらない長髪を軽く梳いた。

    ■ ■

「パスポート、着替え、化粧品、サイフ、スマホ、充電器……」

 魔法鏡の前で、家を出る前の荷造りの記憶を掘り起こしている。この作業をかれこれ三回は繰り返したので、きっともう大丈夫だ。例え何か忘れたとして、もう絹の街に来てしまったので戻りようはないのだけど。乾いた熱い風が肩上程度の髪を揺らした。
 先日の一件から美容院に駆け込んだ私は、心機一転長い髪を切り落とした。失敗したら魔法で戻せばいいので、思い切ってボブヘアにしてもらった。顎下から毛先を外に跳ねさせて、少し小顔に見えたなら儲けものだ。シンプルなロングイヤリングが隠れないよう(男の人は潜在的に揺れるものに惹かれるらしい)横髪は両方耳にかけた。おかげで視界がクリアだ。アラベスク柄のロングラップワンピースを着て、首にはシルバーのチョーカーをつける。総柄の服を着るのはなかなかの挑戦だが、アイデクセの異国情緒な雰囲気は熱砂旅行にピッタリだろう。化粧はいつもより濃く、ピンクのアイシャドウに強めのグリッターを乗せた。私はよくも悪くも人を寄せ付けない高飛車な顔立ちだから、今回はそれを生かして目立ちたかった。なんとも月並みなことに、花火より私を見てくれればいいと思う。ささやかで強欲な望みだ。ところがいざ絹の街に到着したとき、まず胸にあるのは旅愁にも似た切なさだった。実に十数年ぶりだ。私はここであの人に出会った。カラッと晴れた運命の街だ。

「ナマエ。悪いな、待ったか──」

 平常心! 私はハッと我に返った。実に数週間ぶりに聞く声に、しっかり表情を作って振り向く。ジャミルくんはアジームの従者らしく上品な装いだった。頬の肉が削げて、学生時分より成熟した顔。昔もよかったけれど、今はもっとカッコイイ気がする。私は密かに安堵した。自分ばかりが張り切っていたらさすがに意気消沈を免れなかっただろうから。

「ごきげんよう、会いたかったです。私も今来たところだから気にしないで」

 ジャミルくんは意外そうな顔で私の肩の当たりを見、顔を見、また肩を見てパチパチ瞬く。次にジッと息を詰めてこちらを見据えた。片眉だけが持ち上がっている。ちょっと素っ頓狂だけど見覚えがある。プロムで私のドレスを褒めてくれたときと同じ顔だ。

「髪。長かったのに、切ったのか」
「はい。野暮ったくて邪魔だったの。変かな?」
「変じゃない。……少し驚いたんだ」

 驚いたですって! まだ褒められたわけでもないのに、私は勝手に胸をよくした。そのままジャミルくんに連なって、今日いっぱいは観光で時間を潰すことにする。ラクダバザールやザハブ市場で学友へのお土産を探しながら、歩くときはまっすぐ前を向いた。露天商と親しげに話すジャミルくんの顔を見て、まだまだ私も知らないことが多いなと思う。途中、何度か知り合いと思しき女の人に話しかけられたけれど、今日ばかりは眉を下げて笑わなかった。ちょっと勝ち気に口の端を持ち上げるだけだ。
 炎天下を歩いて疲れたので、後半はほとんどカフェで休憩していた。乾燥していて不快な暑さではないけれど、故郷は温暖で雨が多い国のため、なかなかこの気候に慣れるには時間が必要そうだ。これが街の発展していない古代だったら、きっと過酷な環境に違いない。雑談の途中、ジャミルくんが観光案内さながらに解説してくれた。

「君は歴史が好きだろう」
「好きです。大学で魔法史を専攻しているの」
「うん。熱砂の国は今でこそ技術革新によって夜も明るいが、昔は月明かりを頼りに砂漠を旅するのが普通だったんだ。砂漠は風ひとつで景色が様変わりするから、方角を見失うのは旅において命取りだ。多くの旅人が道に迷い飢え死にする時代があった。そこで」

 ジャミルくんは空を指さした。雲ひとつない快晴だ。これなら今夜の花火大会も心配ないだろう。

「古代の民は空を見たんだ。星の位置によって方角を特定できると気づいた奴がいた。科学的論拠の乏しい時代、民はそれを神の賜す叡智だと思った。なんたって、星の位置を見れば全てが分かる。明日己の向かうべき道が見える、未来が見える……グレート・セブンが一、砂漠の魔術師もそうだ」
「もしかして、雷を作る機械のこと?」
「そうだ。彼は空の叡智を自らの技術を用いて人工的な機械の上に再現してみせた。これはとんでもない偉業だ。とにかく、そうして古代に開発された星見の術が今日の占星術の原点。スカラビアの連中が占星術を得意とするのはそういうわけだ。この国の人間は空を見るのが好きなのさ」

 私は「あっ」と思った。だからこの国の花火大会はこうして続いているわけだ。ジャミルくんは故郷の古い慣習とかしきたりを好まない一方で、こういう美しい文化に関しては一概に嫌いでもないらしい。

「君はどうだ?」
「と、言うと」
「この文化をどう思う」
「素敵です。私たちが女王の庭園を愛するのと同じ」
「そうか。嬉しいよ」

 ジャミルくんは片頬だけで笑う。長年の付き合いのおかげでそれが本当に嬉しい顔なのだと分かった。花火より美しくとは無謀な試みだったかもしれない。けれど私がこの国を好きでいてくれることが彼の喜びになっているのなら、勝てなくてもいいかな。
 夜になると、いよいよ人出が多くなってきた。花火の見える場所には観光客や地元の住民がズラッと並び、打ち上げの時間を今か今かと待っている。熱砂の国は太陽が沈むと一気に気温が下がって寒くなる。スカラビアに通っていただけあって、対策に抜かりはない。ショールを羽織ってジャミルくんについていくと、一際見晴らしのいい場所に出た。

「こんなにいい場所なのに人がいないだなんて」
「穴場ってやつだ。学生時分はよく寄り道してたから、そのときに見つけた」
「昔はヤンチャしてたんですものね」
「その話は二度と蒸し返すな。返事はハイか ْنَعَمナアムだ」
「なーむ」

 そのとき、ドンと地響きがした。空を見ると花火が上がってバラバラ弾けている。雨粒が傘にぶち当たる音に似ているかもしれない。河辺にほど近いほうでは見物客たちが賑やかに踊っていた。

「熱砂の国の人って踊るのが好きなの?」
「かもな。一緒に踊るか?」
「いえ、遠慮します」
「賢明だ。俺と一緒に踊ったら誰もが霞んでしまうからな。君を引き立て役にしてしまうのは俺としても本意じゃない。クソッ! 自分の才能が憎い……才能で誰かが傷つくなんて、この世界は狂ってやがる……」
「アッハッハッハ」

 ジャミルくんは少年漫画の主人公みたいに心底悔しそうな顔で近くの壁を軽く殴る。これには私も流石に口を開けて笑った。学生のころに比べ、こういう発言に冗談っぽさが混じるようになってきて、ああ丸くなったんだなと思う。尖ってようが丸かろうが中身は変わっちゃいないけれど。冗談めかしても、嘘はついていないのだから。

「なんだ、そんな顔できたのか。今日は機嫌が悪い日なのかと思ってた」
「えっ、そうなの。どうして」
「あんまり笑わなかっただろう」
「あ……それはまあ、イメチェンの影響みたいなもので。不機嫌だったわけじゃないんです。ごめんね」

 そんなふうに思われていたのかと驚く。しかし、それでも今日一日ご機嫌取りに走らなかったあたりジャミルくんらしいなと思った。

「そのイメチェンってのも気になってたんだ。少し言いづらいんだが……男でもできたのか?」
「えっ!?」

 ジャミルくんが薄氷を踏むような顔でとんでもないことを言うので、飲み物を取り落としそうになった。私なんてなんにも腹に抱えていやしないのに。

「お、男。それって、私の不義を疑っているの」
「いや! 女性はよく失恋をきっかけに髪を切るだろ。君はずっと髪を伸ばしていたから、なおさら珍しいと思って。もし俺がもたついている間に気が移ったっていうなら……」
「なら?」
「──寂しい。こんなにやり切れないことはない」

 ジャミルくんはさっきまでの自信と余裕をどこかに落としてしまったらしい。花火がなくなって、空が前より暗く見える静かな瞬間に似ている。孤独の風に吹かれたような、花火と賑やかな喧騒が遠くなるような幼く頼りない顔をしていた。──弱った男の人って、どうしてこんなに可愛いの。私はこれにどうしようもなくときめいてしまって、しかし、同時に物足りないと思った。

「フッ。うふふ、あはは!」
「おい、なに笑ってんだよ」
「奪い返してよ」

 ジャミルくんはハッとして「まさか本当に」と言った。この人ったら、急にポンコツになって! みんなの言う通り、要領がいいのか悪いのか分からない。自信のない顔なんて初めて見た。おかげで彼はもはや花火どころじゃないみたい。おかしくて堪らなかった。

「わ、私だってね。ジャミルくんが自分より素敵な人に出会ってたらどうしようって思って、どうしても目を引きたくてイメチェンしたんですから。気移りだなんてバカな話あるわけないけど、たといそうなったって『俺が奪い返す』って言ってよ」
「な」
「そしたら私、何度だってあなたを好きになる」

 ちょっと涙が出るほど笑った。さっきの冗談なんか比ではない。お腹が痛くなってきてヒイヒイ呼吸していると、ジャミルくんは正反対にみるみる不貞腐れていく。やがてフーッと長い溜息をつくと、右手で顔を覆ってしまった。

「カッ──コ悪……」
「そんなこと思いません。不安にさせてごめんね」
「いや本当に。全くだ」

 ジャミルくんは俯いたままジトッと横目にこちらを見る。どうやら開き直ることに決めたようだ。

「あんまり綺麗だから、最初に見たとき言葉を失ったよ。それじゃ他の男が放っておくはずがない。知らない男に恋してそうなったのかと思うと、切なくて堪らなかった。今だって思い返すだけで涙が出てきそうだ」
「そ、そんな。涙だなんて大袈裟です」
「大袈裟なもんか。心臓が軋むほど不安だったんだぞ。この俺の悲しそうな顔を見てみろよ」
「悲しそうな? ……あっ!」

 言われるがままにジャミルくんの顔を覗き込もうとすると、寂しくて拗ねているなんて思わせないような手際の良さで頭を引き寄せられた。そうしてアッという間に角度を変えて二回口付けられた。

「フ、馬鹿め。俺の目を見たな! 目が合ったからにはただじゃ帰さない。ク、ハハ、洗脳して俺を忘れられなくなるまでキスしてやる」
「まあ! ジャミル様。私、今日は高いリップを使ったのに、そんなのって酷いです」
「俺のために粧し込んで来たんだからいいだろ!」

 それまで私はキスされたことに照れ照れしていたのだが、この横暴には流石に耐えかねてまたも笑い出してしまった。ジャミルくんもつられて辺り憚らずに笑う。何がおかしいのやら、その理由を見失っても発作は治まらない。箸が転げて可笑しくなる学生みたいだった。ドオンと花火が上がると一気に明るくなって、ジャミルくんの顔がよく見える。ハッとするほど幼い表情だった。ひとしきり二人で笑い転げたあと、ジャミルくんは花火が間もなく終わるのを見て、

「帰るぞ。あんまり外にいると寒いだろう」

 とあっさり言った。元より花火大会は夜なので泊まっていく予定だったのだが、それがいかにも亭主っぽくて不意にドキドキした。結婚したらこんな感じかしらと思う。

「折角の観光だからアジーム御殿に泊まらせてやろうかと思ったんだが。お前、こっちに来るか?」
「ジャミルくんのおうち?」
「そうだ。ア、でもやっぱりダメだ。今日は寝かさないから、実家じゃ俺が恥ずかしい」
「ちょっと! ふしだらですよ。そんなのどこだって恥ずかしいじゃないですか」
「言ってろ。俺はこれ以上待たされたらアスモデウスになる」
「じょ、情欲の悪魔に……」

 ユージェニーの「手出せないんじゃ生殺し」という言葉を思い出した。男の人ってそういうものなの? 相手が私だからそう思ってくれてるの? 正直、私は未だに恥ずかしい。けれど、ここまで言われてしまうと恥で誤魔化すのはナンセンスだと思い始めた。何より、こんな思春期の子どもみたいなことを面白半分に言われては、こちらも思春期ふうで応えるほかない。

「ジャミルくんっ」
「え、ウワッ! バカ、危ない」

 私は思い切って腕に飛びつくと、ジャミルくんはさすがに驚いてバランスを崩す。そうしていたずらっ子の目で文句を言ってくるので、いっそう体重をかけてやる。二人絡まり合って転びそうになりながら御殿までの道を歩いた。帰路は夜の空気に静まり返って誰もいやしない。……今だ、打ち上げてやれ! ドオンという花火の地響きを頭に思い浮かべながら、私は声を出す。ジャミルくんはそれを聞いて満足そうに鼻を鳴らした。

「好きにしてよね。私、あなたの目を見ちゃったんだから!」
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