彼氏と喧嘩でもした?
有給を取りやめた私に、同僚が給湯室で話しかけてくるのを去なしながら、コーヒーを注ぐ。
フリーアドレスの弊社はこうやって休憩を摂るのもお昼にするのもほぼ自由で、毎日同じ場所にパソコンを置いている人はほぼ居ない。だからこそプライベートな雑談も平気で始まるから怖い。

「喧嘩とかはしてない。これあげる」
「えっ、これあのチョコじゃん」
「うん、あげそびれたから」
「いや全然まだ食べれるでしょ、ちゃんとあげなよ。めっちゃ真剣に選んでたじゃん」
「ううん、もういいの。明日からしばらく名古屋だから、わたし」
「あのプロジェクト、担当名前ちゃんだったの?」
「そうなっちゃって。先輩ちょっと別件で立て込んでてね」
「2週間だっけ?」
「予定ではね〜でも怪しいよ。あのお客さんなかなかOK出ないから」
「しばらく遠距離じゃん〜彼氏寂しいね」
「まぁ向こうも仕事で会えないのはしょっちゅうだし」
「自営業なんだっけ?」
「あーうん、そんな感じ」
「大人な感じだよね、付き合い方が」
「そうでもないよ。あ、呼ばれてるよ」
「やば、会議だったわ。またランチで!」

風のように去っていく同僚を見送って、自分もデスクへと戻る。今日は有給のつもりだったから、明日からの出張に備えて既に準備の終わっている。資料を改めて整理しているとファイルの間からチョコレートを買った店で貰ったチラシ状のカードが出てきた。
内側がチョコレートの紹介になっているこれを見て考えながら並んだなぁなんて思い出す。

まぁでも、大我は多分バレンタインなんて覚えていないだろうな。
同僚の"寂しいね"を反芻する。彼はきっと、寂しくはないだろう。恋人として、蔑ろにされているとは思わない。少ない休日を私に割いてくれているのも分かっている。

ただ、特別必要でもないだろうな、とも思う。ここ最近、自分の休みを見つけては大我の家に行って生活状況を確認する。荒れ果てた部屋を片付けて、つまみやすいものを作り置きして。私じゃなくてもいいだろうと分かりながら、でも辞められないのは、大我が好きだから。大我に大事にされたいから。

私にしてあげられることはこれしかないのだ。

シンプルにただ応援する。それすら出来なくなってしまった彼女など、彼にとって必要ないのに。











『は?明日からずっといないの?』
「うん、早くて2週間くらいかな」
『いつから決まってたの?早く言ってよ』
「ごめん、先週くらいかな」

珍しく夜の早い時間にかかってきた電話。送られてきたオフの予定に対してしばらく名古屋出張で東京にいないことを伝えると、すぐに着信があった。
そういえば言ってなかったなぁ。
案の定、開口一番その話で少し怒っているようだ。

『じゃあとうぶん会えないじゃん。え、ずっとホテル?』
「笠寺にウィークリー借り上げてるの」
『そうなんだ…週末戻ってきたりもしないの?』
「週末ってものがあるのかも謎…」

そっか、と短く呟いて、大我は何か考えているようだった。オフの日に行きたいところがあったのかもしれない。申し訳ないなぁと思いながら、次の言葉を待った。

『仕事なら、しょうがないけど』
「ごめんね、結構オフあったんだね」
『ツアーの合間だからね。仕事はあるけど、当分は新曲のプロモとドームの練習くらいなんだよね』
「そっか」
『あ、名前さ、名古屋観に来る?25と26で俺らも名古屋行くよ。てか笠寺ってガイシホールの最寄りじゃん』
「そうだったね、そういえば。でもライブはいいよ、行かない」
『名前、最近全然来ないじゃん』
「まぁ、ほら。チケットは大事にして」
『どのみち販売される席じゃないよ』
「それは分かってるけどさ」

話しながら、何となく部屋を片づける。大我がくれたワイヤレスイヤホンはこういう時便利だ。洗濯物を畳みながら残りの山を見て、大我の部屋よりよっぽど片付いてないななんて。

「3月入ったくらいでは戻れてると思うから」
『なんかちょっと寂しくない?2週間会えないって言われると長く感じる』
「んは、そうかな。でも結果的に2週間会えなかったことは結構ある気がするけど」
『そっか』
「そうだよ」
『それはごめん』
「謝ることじゃないでしょ、仕事だもん」

寂しいって。付き合いたての頃、私もちょうど新人教育を任されるようになった時。大我もデビューして仕事が立て続いている時期で、その頃も何度か寂しいって聞いたなぁと嬉しくなる。

寂しいと、素直に言ってくれるのが嬉しかった。この仕事をしている彼に、私からは言っちゃいけない言葉のような気がしていたから。今でもそう思ってくれるんだ。

私がひとりで満足していると、それを沈黙と捉えた大我がどうかした?と聞いてくれた。なんでもないよ〜なんて言いながら、最後の1枚を畳み終わる。

「洗濯物終わった〜タオルが充実したよ」
『洗ってなかったの?』
「乾燥までして積んであった」
『俺じゃん』
「大我より散らかってるかも」
『俺の部屋片付ける前に名前の部屋やりなよ』
「あはは、確かにね」

電話の向こうで呆れたように笑う声がしたあと、あのさ、と少しトーンの落ちた大我が話し始めた。

『昨日なんで帰ったの?待っててくれればよかったのに』
「あー…うん、仕事、早かったから」
『そうなんだ』

全くの嘘だけど。なんなら有給もとってたけど。そんなこと言える訳もなく、何とか誤魔化そうとする。

『最近、名前そういうの多くない?』
「なにが?」
『…俺が帰る前に、名前が帰っちゃうこと。名前のご飯めっちゃ食べてるのに、全然顔みてない気がする』
「そんなことないよ」
『あるよ、絶対ある…俺なんかした?』
「……別に何も無いよ?」
『ある"間"じゃん』
「ごめん片付けてただけ。何も無いよ」
『俺に会いたくない?』
「…そんなことないよ」
『もしかして、別れたい?』
「…え?」

唐突に出てきた別れという言葉に、少し動揺する。会っていないことを気付いてくれた嬉しさと、理由を聞かれたくない気持ちの間で言葉に詰まってしまったせいだろうか。何も無いよ、というのは信じて貰えていないみたい。

それはそうか。明らかに不自然なほど、顔を合わせていないのだから、大我じゃなくても気付くだろう。

別れた方が良いのではないかとずっと思っている。どうしても切り出せなかっただけで、ズルズルと先延ばしにしていたことだ。
その言葉が大我の声で耳に届いた時、何だかすっと、心に落ちた。

ザワザワしたり、モヤモヤしたり、そういうのではなくて。どこか安心するような、落ち着いた気持ちになる。

『俺、名前に避けられてるのかなって』
「気付いてたんだね」
『やっぱり、そうなんだ』
「大我が嫌いで、その、避けてたとかじゃないんだけど」
『じゃあなんで?』
「それは…その…」
『他に男でもできた?』
「…そんなわけないじゃん」
『じゃあなんで?変じゃん、こんなに会わないの。わざとなんでしょ?なんで?』
「……今度、落ち着いて話そうよ」
『ヤダよ、暫く会えないんでしょ。それまでに俺が納得しちゃうような言い訳考えてくるじゃん絶対』
「言い訳って…」
『俺がオフだよって呼んだ日に来てくれる以外、全然顔見てないし、名前の休みも教えてくれてないのはなんで?俺の事嫌いになったんじゃないなら、他に好きな人が出来たとかじゃないなら…ちゃんと教えてよ』

喧嘩をした時、大我はいつもよりも少しゆっくり話す。捲し立てるように言葉を続けてこないところも、大好きだった。
直ぐに言いたいことを言えない私に合わせてくれいるんだろうなと分かって、この人は私が話すことに向き合ってくれる人なんだなと思えた。

でも今日は少し様子が違う。多分、本当に怒ってるんだろう。このまま大我に、自分の気持ちを伝えるのは違う気がした。

違う気がしたんじゃない、嫌だと思った。
私の心の中の、この汚い気持ちを今伝えたくなかった。はぁ?と思われるのが嫌だった。嫌われてしまうのが、怖かった。

大我に会って、ぶちまけてしまいそうになる自分が嫌で。だから会わないようにして、この気持ちが落ち着くのを待った。待ったのに全然落ち着かなくて、あの仕事も、この仕事も、全部全部。気になって仕方がなくなってしまった。

私の知らない大我が増えていくのが嫌だった。
私しか知らない大我の優しい笑顔が、次のドラマの中で現れた時、ああもうダメだって。もう私はダメだって、本当は気付いていた。

「もう…会いたくないの」
『は?』
「大我に、会いたくないの、もう」
『意味わかんないんだけど。それ別れたいってことじゃん』
「そうなのかな、わかんない」
『俺の方がわかんねえよ!』
「っ、ごめんなさい。そうだよね。別れよう、わたしたち。今までありがとう」



いつまでも、あなたを1番近くで応援したかった。いつまでも、ずっと。
でももう、私のキャパシティでは、足りなくなってしまった。ごめんなさい、大好きな人。

これからもずっと、あなたが活躍できますように。これだけは、本当に願っているよ。