人として正しいことは何か、だけでは人生上手く乗り切れないことだってある。狡くても、卑怯でも、成し遂げたいことがある時はそうせざるを得ないのがこの業界だ。

だからこそ、プライベートの時間ではできるだけ正しく、出来るだけ無理をせず、自分の立ち位置なんて考えずに過ごしたかった。

名前はそんな俺をいつも包み込んでくれたし、両親ともに芸能人だった俺にとって、彼女はただひとつ仕事を忘れて安らげる存在だった。

「おつかれー、どしたのきょも。疲れてんね」
「おつかれ」
「今日軽く通してリハだっけ?」
「ダバダバ〜おつかれおつかれ〜」
「ダバダバって何?」
「おつかれ樹、疲れてないよ」

集合時間が近付きわらわらと楽屋に集まるメンバーたちは、今日も賑やかだ。少し早くついて名前のことばかり考えていたせいかどうやらため息がかなり大きかったらしい。

「もしかしてだけど、失敗した?」
「大失敗通り越して崩壊した」

樹の後に続いて入室した北斗が、こそりと話しかけてくる。入ってきた瞬間にバレてるあたり、よっぽど顔に出ているのかもしれない。

1週間前、北斗に話してみなよと言われた日の夜、名前に電話でフラれた。フラれたのか、もうとっくにフラれていたのに気が付かなかったのかはわからないけど。

「え、ちょっとまって崩壊って何、別れたの?」
「そうっぽい」
「ぽいて」
「上手く聞けなかったわ、残念ながら」

話しながら、うっかり涙が出そうになって声が震えた。慌てて取り繕ってその場を離れ、トイレに逃げ込む。

大きくため息をひとつついて、少し急ぎすぎたな、と思う。北斗に言われて話す決心をつけて連絡したものの、ここからまた数週間会えないと言われてしまった。そうなると決心が鈍りそうで、焦って電話をかけたのが良くなかったんだろう。

会えないことは寂しかったけど、最初の会話では、いつもの俺たちだったと思う。特別なことも無く、変な波風もなかった。
その声が聞きたくて、ちゃんと聞けて。それで満足出来たら良かったのに。

"もしかして別れたい?"と聞いた時、明らかに名前は動揺していた。その間の取り方には癖があって、肯定しているのと同じ。
そこでさらに焦ってしまった。畳み掛けるように詰めてしまって、どんどん名前が引いていくのがわかっていたのに、止められなかった。

詰めるように話されるのが苦手だと、付き合う前によく言っていた。だから名前が付き合うようになってからは、何か話したいことがある度に、それを1番気をつけていたはずだった。

避けていると、会わないようにしていると認められて、思わずカッとなったのは確かで。どうして?と、やっぱり、が綯い交ぜになって、少しパニックになってしまった。

もう会いたくない。
絞り出すように発されたそれは、"別れたい"ではなかった。あの言葉を"別れたい"に変えさせたのは、多分俺。
いつから、会いたくないなんて思っていたの。どうしてそんなふうに思ってしまったの。
俺がそこをきちんと落ち着いて聞いてあげられたら、きっとはこうはならなかったのに。

来週に控えた名古屋公演のリハがもうすぐ始まる。心を落ち着かせたくて、もう一度大きく息を吐いた。










「北斗なんか知ってんの?」
「うーん、うん、まぁなんとなく」
「別れたって聞こえたけど、名前ちゃんの話だよね?」
「そうみたいね」
「お互いベタ惚れっぽかったけど、なんかあったの?」
「詳しいことは全然わかんないのよ」
「そっか。大丈夫かな、きょも」
「最初から樹が相談聞いてあげた方が良かったかも。俺大したこと言えなかったし」
「いや俺でも変わんないでしょ、きっと」
「喧嘩で済めばいいけど…別れって言葉出したんなら、どっちから言い出したにしろ本気かもね」
「確かにねぇ」


リハ場の楽屋に入ってすぐ、すごい顔色のきょもが目に入った。明らかに疲れた顔をしていて、ドラマで体重を落としていた時と同じようなゲッソリ感がある。

あれ?と思った瞬間、先に駆け寄ったのは北斗で、それ自体が珍しい事だった。
数言交わしたあとに慌てたように楽屋から出たきょもの声は震えていたように思えて、後ろでわちゃわちゃしていた3人に聞こえたかはわからないけど、俺と北斗は目を合わせる。

きょもが彼女と別れた、かもしれない、らしい。
なんとも曖昧な情報だが先程の表情と照らし合わせれば事実なのは明らかだった。

もう告白しちゃおうと思う!と、きょもが言い出したのは2021年ツアーの振り替え日程が決まった頃だった。誰しもが出歩くのを控え、会える時間が限られてしまっていたとき、会えないことが増えたせいできょもが痺れを切らして名前ちゃんに告白することを決めたあの日を、何故か俺は鮮明に覚えている。

出会って約10年、同じグループだと改めて手を握りあってから約6年。きょもがあんなにしっかりと、異性と向き合う姿を初めて見た。

"仲良いんだよね"が"好きかも"になって、いつしか"好きだわ〜"に変わって。告白すると言った時のきょもは、めちゃくちゃかっこよかった。
なんでか嬉しくなって、振られたらヤケ酒しようななんて茶化して。上手くいったわとLINEをもらったときは思わず声が出た。

友人だった時代に2回、たぶん恋人になってからは1回しかライブに来たことはなくて、そこでしか会ったことが無いけれど。

大人しそうだったけど、清純ぶってる感じもなくて、とてもかっこよかったです!と6人分のうちわを持って楽しそうにしていた顔が印象的だった。

俺らと話す名前ちゃんを横から見つめるきょもも、めちゃくちゃ優しそうな顔をしていて。俺以外と喋んないで!みたいな感じもなくて、余裕があって、落ち着いてた。

信頼しあって付き合ってるんだろうなって、応援してたんだけどなぁ。

「あ、きょも帰ってきた」
「おかえり〜お腹痛いの?」
「あは、ごめん。昨日ちょっと辛いの食べすぎた」
「そっか、まぁ無理すんなよ」

多分、俺と北斗が気付いてることに気付いているはずのきょもは、それでもヘラっと笑って3人の輪に入って行く。

公演まであと一週間を切った。近いうちにガス抜きが必要かな、と思いながらきょものプロ意識の高さならそんな必要も無いか、と何も無かった振りをして俺も輪に入って行った。