北斗の言う通り、俺は心の奥では今の関係性というか、温度感に対して不満を持っている。

本音をいえば名前にもうちょっと心の内をさらけ出して欲しいし、甘えて欲しい。
俺はそんなに頼りない男じゃないと思って欲しい。

甘えたことも言わない代わりに、甘い言葉も欲しない名前に、してやれる精一杯の愛情表現がプレゼント。
けれどいつしかそれも、どこかで負担になっているんじゃないかと怖気付くようになり、頻度は少し減っている。

だからこそバレンタインに来てたのかと思った時は嬉しかったし、実はかなり気合を入れてお返しを選んだ。
そうすれば、もうちょっと素直になっていいんだよと言える気がしたから。


『別に貰ってないからあげられないなんてことはないんだし。今どき男からのバレンタインだってアリよ』


宅配ボックスから回収したダンボールを片手にエレベーターに乗る。帰り際、北斗に言われた言葉を思い出した。

別に貰ってなくても、あげればいいもんな。ついでにバレンタインの事も聞いてしまおうかな。
スマホでスケジュールを見ながら、次いつ会えそうかを確認する。バレンタインデーまであと4日、あいにく当日は終日仕事だったので、その前日か次の日しか空いてなさそうだ。

そんなことを考えながら、玄関を開けてカードキーを財布に戻していると、唐突にカレーの香りがした。
一瞬で腹が減る、あれ。


「名前きてんの?」
「あれ、おかえり。早かったね」
「今日来る日だった?」
「ううん、今日仕事がこの辺で終わって、直帰してもよかったから来てみた」
「そうなのね。カレーまじで破壊力ある。もう食べたい」
「先シャワー浴びてきたら?出来たてだからまだちょっと味整ってない」
「わかった〜泊まってくの?」
「悩み中」
「うぃ」


思いがけない来訪に頬が緩む反面、今手元に持っているダンボールをさりげなく隠す。
ダンボールにブランド名が記載されてしまっているから、明らかに女性物のハイブランドだとわかるそれは、今見つかるのは具合が悪い。

まだ話の持っていき方を考えていないのだ。
脱いだジャケットを被せるようにして、寝室に放り込む。洗い上がりのスウェットを掴んでシャワーへと向かった。



「らっきょと福神漬けどっちにする?」

風呂から上がった俺に、名前が声をかけてくる。
どっちにしようかなと返しながらそちらを向くと、エプロンが解けているのが見えた。


「後ろ取れてる」
「え、ありがとう。なんか最近クタクタになってて緩んでくるんだよね」
「新しいやつ買う?」
「えっ……あ、いいや…」


後ろに立って結び直してやると、いつもより少し間のある返事。
ぼーっとしているというか、考え込んでいるというか。仕事でなにかあったのだろうか。

そんな心配をしながら、はいこれどうぞ、と渡されたカレー皿を受け取った。

食事中も名前は心做しか暗いまま、何を返しても生返事で返される。本人は気付いているのかいないのか、こちらを見ようともしない。


「あーうまかった。ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
「ねぇ、明日仕事なの?」
「そう、いつも通り」
「泊まるか決めた?ちょっと話したいことあんだけど」

席をたち、2人分の食器を下げる。作ってもらった日は、大抵こうして俺が洗うのを担当している。
調理に使ったものたちは食べる前に名前が片付けてくれていることが多いので俺は文字通り食べた分だけを洗うだけ。だからたかが知れているけど。

「樹も明日早いんでしょ?そろそろ帰ろうかな。話は今度じゃダメ?」

話の切り出し方を考えていた。こまっしゃくれた言い方も思いつかないし、もう回りくどいのはやめだと話を切り出すと、名前はどこか焦った様子で帰り支度を始めた。

「ちょ、待って待って、そんな急に帰る?」
「なんか気付いたらこんな時間だったから。電車無くなると思って」
「いやまだ21時よ、言い訳下手すぎでしょ」

洗い物の手を止めて、適当に水を切って名前の腕を捕る。ほぼ濡れたままの手のひらから、名前の手首へとしずくが伝って落ちていった。
意味不明な言い訳を放って、そのままこちらに目を向けようとしない。


「なに?話したいって言ったの嫌だった?」
「いやべつに、長くなったら嫌と思ったけど」
「絶対違うでしょ」
「違くない」
「今日ずっと変じゃない?どうしたの?」
「いつも通りだけど」
「悩みでもあんの?」
「ないけど」
「じゃあ聞いてよ俺の話」
「今度にしようよ」
「なんで今聞けないの、そんな難しい話しないよ」
「とにかく今日じゃなくても」
「いま、今日がいい」

こちらが粘る様子を見せると、名前は一層嫌そうな顔をする。頑なに会話を拒む姿が理解不能すぎて、こちらもこちらでイライラしてきた。

思えば、バレンタインからこっち、ずっと消化不良だった思いを、またここで中途半端なまま終わらせたくない焦りもあった。


「そんなに大事な話なら、もっとちゃんとした時に」
「ちゃんとした時って何」
「いや…なんだろう…」
「とにかく座れよ、すぐ話し終わってやるから」
「え、ほんとにいや。もう帰る」
「お前なんの話すると思ってんの?」
「え…いや、わかんないけど…」
「わかんないならまず聞けよ、マジで意味わかんねーな」

少し語気が荒くなる。それを受けて、名前は更に怪訝そうな顔をする。あまり二人の間では流れたことの無い空気感が、ものすごく居心地悪い。

「せっかく早く帰れて会えたのに、ずっと暗いし、ちょっと話したいって言ったら嫌そうな顔で帰ろうとされるこっちの身になれって」

いいからとにかく座れと、少し強引に腕を引いてソファに落ち着かせる。
眉間にギュッと力を入れる名前から、持っていたコートとカバンを取り上げてテーブルに置いた。

名前とテーブルの間に入るように床に座って向き直り、改めて手を取った。

「なぁ、マジでどうしたの」
「…いいたくない」
「言わなきゃわかんないでしょ」
「別に言うことない」
「お前さぁ…そんな泣きそうな顔して何もないって言われても…いやてかマジでなんの話し?俺の話がし辛くなるんですけど」
「じゃあ今度に」
「なぁ、マジでなんでもいいから話してみてって。さすがの俺もちょっと怒るよ」
「もう怒ってる」
「怒ってないって…」

俯く顔を覗くようにして見上げるものの、何ともつかない泣きそうな表情が見えるだけで、その真意が分からない。

「………樹と、」
「俺と?」
「わ…わか、別れたく、ない、なと思って…」
「…はぁ?」

かなり長い沈黙のあと、絞り出すように言ったその言葉に、思わず固まる。その一言のあとまた俯いて、さらに顔が見えなくなった。

「別れるなんてひとことも言ってないけど…」
「ジュエリーの箱、持ってたから…」
「さっきの箱?見えてた?」
「サッと隠したから、見られたくないのかなって…他の女の子へのプレゼントかもとか、思って…」
「ここ数年で1番の呆れ声出そう、いま」
「だって……」
「あのさ、バレンタインの日うち来なかった?来たかなと思ったんだけど、その後も特に何も言ってこないから、何しに来たのか気になってるんだけど」
「…気付いてたの?」
「やっぱそうじゃん。無かったことにしようとしてたでしょ、なんで?」

バレンタインのことを切り出すと驚いた表情に変わって、ようやくこちらに向いた。
荷物が見られていたことは計算外だったが、結果それをきっかけに話が始められたから良しとしよう。

「彼女らしく、バレンタイン、しようと思って…」
「うん」
「でも、地くんからのチョコ、見て…」
「写真送ったやつ?」
「それで、先越されちゃったし…そういえば色んな人からたくさん貰うだろうなと思ったら、なんか恥ずかしくなって…帰った…」

目を泳がせながら話す姿は、きっと言いたくない事だったんだろうと思わせる。名前が地のチョコレートに敗北感を感じたのは、意外だ。

「なんでよ、そりゃ貰うけど、お前のは別じゃん。俺欲しかったよ、名前からのチョコレート」
「ごめん…」
「恥ずかしいってなによ、ちょっとまってて……俺の方が恥ずかしいよ」
「さっきのやつ?」
「そうこれ、はい。あげる」
「えっわたし?」
「名前がバレンタインくれると思って、ホワイトデー買っちゃったの。めっちゃ恥ずかしいからね」
「ちゃんとしたやつじゃん…」
「めっちゃちゃんとしてるやつ」

包みを開けて、名前が中身を確認する。ダンボールのガムテープ1つ丁寧に開ける姿にやっぱり好きだなと思う。
垂れる前髪をかきあげながら、名前の表情がようやく明るくなった。

「かわいい…え、これ入るかな?何指用?」
「絶対入る。嵌めてみ、左の中指ね」
「こまか」

ピンクゴールドのエタニティ。
キラキラと輝く石が横並びにいっぱい付いたそれは、華奢な名前の指でもかなり存在感を発揮する。

「その色の6号がなくて、お取り寄せしたんだからな。大事にしてくれ」
「めっちゃ大事にする…」

予想通り、ぴったり。名前はしばらく指輪を眺めた後に、逆の手のひらでぎゅっと握りしめて優しそうに笑った。

「わたしも1時間並んで買ったの、チョコ。自分で食べたけど、写真みる?」
「マジで食べたかった、それ」
「来年はちゃんとするね」
「…ま、いいよ。バレンタインにこだわんなくて。これからもちゃんと俺の横にいて」
「樹ってそういうこと言うんだね」
「たまにはね。誰かさんにも素直になって欲しいんだけど」
「……なろうと思ってチョコ買いに行ったんだけどね…」

名前はバツが悪そうにこちらを見上げた。
ああ、もう分かってるんだよ、お前の考えてる事は。そうだろうなと思ったよ。言わないけど。
言わない代わりに、頭を撫でた。そのままこちらに顔を寄せれば、名前は反射的に目を瞑る。

「めんどくさいことでもいいからさ、もうちょっとちゃんと言えよ、いろいろ」
「がんばります」
「わざわざこんなことすんの、マジでお前だけだかんな」

もういちど、もういちどと唇を重ねる。静か部屋に響くリップ音だけが、今俺たちが世界一愛し合ってると証明していた。