2月15日になってしまった今、悩みに悩んで名前ちゃんに電話をかけたけど、通話は繋がらなかった。

平日だから仕事かなと思いつつ、追撃でLINEを送ろうと文面を考えていると、案の定《仕事中です》とsorryと謝るうさぎのスタンプとともに名前ちゃんからLINEが届いた。

《仕事中だよね、ごめん。昨日来てくれてたのかな?と思って。良かったら今日また来てくれない?今日はもう何も無いから。明日もゆっくりだし》

即既読が付いたそれは、OKというスタンプひとつ返ってきて以降返事は来なかった。









何度も文面を読み返して、これでよかったんだろうかと思いつつ、名前ちゃんが来るのを待った。
部屋を片付けたり、ちょっと香りを炊いてみたり、夕飯を作ったり。
ひとつのスタンプに大きな罪悪感と小さな期待が行ったり来たりして、気持ちが落ち着かない。

そんな俺の気持ちに反して、仕事が終わっただろう18時を過ぎても一向に連絡がなく、大体いつも到着する19時半もとっくに過ぎた。

名前ちゃんがやってきたのは、20時半を回る頃だった。
ほぼ不貞腐れたスタイルでソファでごろついていた俺は、インターホンの音に飛び起きて玄関に向かう。

「ごめんね、遅くなった」
「おかえり。残業だったの?」
「いや、一回帰ってて、今日外回り多かったからシャワー浴びてきてた」
「連絡くれても…」
「そうだよね、ごめん」
「ご飯は?」
「北斗くん作ってくれてるかなと思って、食べてない」
「うん作ってた。食べよ、腹減った」
「待たせたよね、ごめん…」

名前ちゃんがごめんばかり言っていることに、テーブルについたくらいで思い至った。
仕事の後にわざわざ来てくれてるのに、俺は責めるような言動ばかりだったのではないかと、また自省する。

なんだかんだで忙しくさせてもらっているおかげで、名前ちゃんに会えたのは実は1ヶ月ぶりだった。
本当はもっと会いたいけれど、こちらの都合がつけにくい以上なかなか言えない。
合鍵を渡しているのだから、可能な限りうちにいて欲しいなと思っては言えずに2年経っているのだから、もう一生言えない気すらする。

「名前ちゃんさ、昨日来てたよね?」

食後のまったりとした時間を過ごしているうちに、すっかり忘れかけていたことを思い出す。
昨日来てくれたのは、そのためだよね?と言いかけて、さすがに自惚れだったら辛いので言葉を噤んだ。

「あー、うん。そう」
「なんで帰っちゃったの?」
「なんとなく…?」
「なんとなく…?」
「うーん、うそ。うそついた。バレンタインのチョコ、持ってきたの」
「やっぱりそうだよね、ありがとう」
「でも、今日は持ってない」
「え!なんで?」
「もうなんか、過ぎちゃったなって…だから来る時置いてきちゃった」

名前ちゃんはそう曖昧な笑顔を作って、両手を上げてヒラヒラとさせる。予想が当たっていた喜びと、結果貰えていない悲しみが交互に押し寄せる。

既に部屋着でうちにやってきた彼女に、取りに行ってとは言えないが、でもやっぱり欲しい。欲しかった。

「持ってきてよ…」
「地くんのもらってたじゃん、充分でしょ。あれ手作りだし。わたしのはその辺で買っただけ」
「それでも良かった、欲しかった」

食い下がる俺に、名前ちゃんは少し面倒くさそうな顔をする。指にくるくると髪をまきつけて、口を結んだ。何を言うか考えてる時の名前ちゃんの癖。

「だって、いなかったじゃん」
「仕事だったんだもん!」
「だったら言っといてよ。バレンタインの日に欲しいって言ったのは北斗くんでしょ」
「当日にこだわらなくても…今日なんてほぼバレンタインだよ」
「それは北斗くんの都合でしょ、わたしのバレンタインは昨日終わったの」

ピシャリと扉を閉めるように、名前ちゃんが吐き捨てる。それがめちゃくちゃ悲しくて、今度は俺が黙ってしまった。

「別にチョコにそんなにこだわらなくても良くない?」

沈黙が嫌だったのか、小さな声で名前ちゃんが呟く。チョコにこだわる必要は確かにない。ないんだけど。
昨日は本当に大変で、疲れて帰ってきて、名前ちゃんが来たかもって嬉しくて、でもチョコは貰えなくて。

自分でも何にこんなにモヤついているのか、正直よく分からなかった。

「…でもリベンジって書いてあったから、手紙に。やっぱりして欲しかった」
「え?それどこにあったの?」
「冷蔵庫の下に落ちてた」

拾った小さな手紙を差し出すと、バツが悪そうにそれを取ろうとする。

「だめ、これは俺の」
「いやわたしの」
「だって俺のうちに落ちてたんだから、俺の。そもそも俺宛じゃん」
「本体がないのにそれだけあったってしょうがないでしょ」
「しょうがなくない、もうこれで俺のバレンタイン終わったの」
「拾ったなら最初に教えてよ…っていうかそれで来たの気付いてたんだね」
「手紙あるのにチョコはなかったけどね」
「あてつけみたいなことしないで」
「そっちがあてつけしてるんでしょ。わざわざ置いてこなくてもいいのにさ」
「だから最初から14日は無理だって言っといてくれればよかったじゃん!」

恥ずかしさからか、名前ちゃんが一段と大きな声を上げる。
手紙を回収しようと腕を伸ばす彼女がすごく近くにいる体勢になって、気持ちが少しクールダウンした。
体が密着すると落ち着くなんて子供みたいだ。でも、名前ちゃんはそうじゃなかった。

「もう帰る」
「えっ、泊まってくんじゃないの?」
「そのつもりだったけど。もうそういう気分じゃない。帰る」

あっさりと身を起こして、サイドテーブルにまとめていた荷物をつかみ廊下へと抜けていく。
俺は予想外の出来事に彼女を抑えることが出来ずに、慌ててあとを追った。

「待って、ごめんしつこかった」
「お疲れ様、ゆっくりやすんでね」
「帰らないで、ごめん」
「イヤ。帰る」

内側からドアノブを掴んで、動きを封じる。なんとか思いとどまってほしかった。
せっかく会えたのに、また暫く会えないのに。

「退いて」
「退かない」

2人とも多分、かなり意地になっていたと思う。そもそもチョコを貰う貰えないのあたりから、全部が意地だったし、俺に至っては疲れが抜けてない八つ当たりに近かった。

「あのさ」
「なに?ほんとにごめん、帰らないで欲しい」
「今はもう、楽しく過ごせる気分じゃないから、本当に帰りたい」
「でも…」
「サプライズしようとしたの。彼女らしく。喜んでくれるかなって。でも北斗くんは居なかったし、わたしより先に手作りの美味しそうなの貰ってた」
「……そう、だったの…」
「自分が勝手にやったことだし、北斗くんは悪くないけど、でもわたしはすごく惨めだった。それを今掘り返されたくない。お願いだからそこ退いて」

涙をこらえるように目を顰める表情に、一瞬力が緩んで、その隙に名前ちゃんは扉を開けて行ってしまった。

多分北斗くんにはわからないよと、こちらを振り向きもせずに小走りで帰る後ろ姿が見えなくなってからも、俺はただぼうっとそこで立ち尽くしていた。