キラキラと輝いていた夏は幻のように消え去り、人々は何事も無かったように日常生活へと戻っていく。──夏休みといえども、生活リズムを寸分の狂いもなく過ごした真田弦一郎は今日も朝4時に目を覚ました。日課である道場での坐禅、居合の稽古を行ったのち、母親が丹精込めて作った一汁三菜の朝食を食べ、決まった時間に家を出る。変わらないルーティン。変わったのはその肩にラケットバッグを担いでいないことだけか。テニス部に入部してからほぼ毎日のように肩に乗っていた重さがなくなり、少しだけ違和感を感じた。太陽は容赦なく真田の体をジリジリと突き刺す。暦の上ではもう秋になったはずなのに、暑さはまだ衰えることを知らないらしい。
徒歩15分の道程を経て、ようやく姿を現した校舎が水色の空と薄く棚引く白雲を背にして、真田がやって来るのを待ち構えていた。校門をくぐり抜け、昇降口まで伸びる並木道に差し掛かると、かさかさと木の葉が擦れる音の向こうでセミの鳴き声が聞こえた。しかしそれは、夏初めよりも随分と減ってしまったようだ。いずれこのセミの声も聞こえなくなるのだろう。そんなことを思いながら、真田は昇降口で上靴に履き替えるとそのまま職員室へと向かった。静謐をたたえた廊下にがらりと大きな音を響かせて開けた扉の向こうは、もぬけの殻。雑然と積み重ねられた資料の山だけが出迎えてくれた。室内に足を踏み入れ、壁に掛けられた鍵の中から自分のクラスのものを取ろうとして、ふと手を止める。3年A組──真田の在籍するクラスの鍵だけがフックから外されていた。誰かが真田よりも先に登校し、持ち出したのか。脳裏にクラスメイトの顔を思い浮かべてみるも、この時間帯に登校しそうな生徒は誰一人とて思いつかない。
「一体誰が持って行ったのだ……?」
独りごちた真田は、手持ち無沙汰のまま職員室を後にした。
教室のある3階に辿り着くと、廊下の一番奥に位置しているA組に向かう。少しずつ近づくにつれ、教室の後方扉が半開きになっているのに気づいた。立ち止まり、隙間からそろりと教室内を覗くと、そこには真田の予想を遥かに超えた人物が座っていた。彼女は机上の何かと睨み合いをしており、しきりに手を動かしていた。──何故彼女が……?
体を滑り込ませ、後ろ手で扉を閉めるとその音で彼女の肩が大きく揺れる。
「わっ!ふくぶちょー……!」
「早いな、神坂」
テニス部の関係者ではないのに、真田のことを『ふくぶちょー』と呼ぶ彼女の名は神坂波琉。クラスメイトであり、現在は隣同士の席に座って授業を受けている。つかつかと彼女の元へ向かい、右隣の自らの席に鞄を置く。彼女の手にはペンが握られていて、机には数学のテキストとノートが広がっていた。真田はそれを認めると少しばかり眉間に皺を寄せる。
「数学の課題か。珍しく早起きしたものだと思っていたが、理由はそれか」
「たるんどるぞ」と呟くと、波琉はにへらっと笑う。
「どうしても解けない問題があってね。ふくぶちょーなら解き方を教えてくれるかなあと思って、この時間に登校してみた」
「……まったく」
夏休み中、決して課題をサボっていたわけではないと語る波琉に怒るに怒れなくなった真田はふ、と息を吐き出すと、机の下にきっちりと仕舞い込まれた椅子を波琉の机の横まで引っ張り出す。腰を下ろしながら「何処が分からないんだ」と問えば、波琉は嬉々としてテキストの問題を指差した。指し示された問題文を目で追う。「これはだな──」と、真田は至極丁寧に説明し始めた。
真田にとって波琉は掴みどころのない人間だった。飄々としていて、それでいて人懐っこくもある。不思議な魅力を携える波琉をまるで風のようだと思っていた。そんな波琉にペースを乱されることも振り回されることも多々あったが、真田は決して波琉を放っておくことはしなかった。困っていれば必ず手を差し伸べてしまう。何故、自分は彼女に対してこんなにも甘いのだろうか。疑問ばかりが頭の中を漂っていた。テニス部以外で四角四面な自分を物怖じせず、真っ直ぐ向き合ってくれるから──という理由だけでは決して無いはず。波琉と一緒にいると、必ず胸の奥に温かいものがじんわりと沁み渡っていくのを真田は感じていた。テニス部の面々とはまた違う居心地の良さ。しかし、それを何と呼べばいいのか真田はまだ分からないでいた。
「──よって、この値を代入すれば自ずと答えは出てくる」
「あ、そういうことか!ということは……この次の問題も同じように?」
「そうだ」
「さっすが、ふくぶちょー!」
波琉は解き方を忘れないようにと、すぐさま次の問題へ取り掛かった。すらすらと文字や記号を書き連ねていく手元を見る。お世辞にも均整の取れた文字とは言えなかったが、波琉らしい丸みを帯びた文字が白紙のノートを埋めていった。少し目線を上げると波琉の横顔にピントが合わさる。垂れた髪、その隙間から覗く目元。すらっと伸びる──瞬きをする度にふるりと揺れる睫毛に見入ってしまう。自然にカールされたその曲線がとても美しく思われた。しばし瞳を据えていると真田からの視線を感じたのか、波琉がふと手を止めて黒目がちな瞳を真田に寄越した。覗き込んでくる瞳に、柄にもなく動揺をしてしまう。
「……ふくぶちょー」
「な、なんだ?」
「そんなに間違えていないかどうか見られるとちょっとやり辛いなあ」
「む、すまん。……気を付ける」
「で、何処か間違ってた?」
波琉の横顔を見ていた、などと言えるはずもなく。
「……いや、大丈夫、だ」
「そっか、なら良かった」
再びノートと向き合った波琉に気付かれないように真田は静かに息を吐いた。壁に掛かった時計に目をやると、午前8時過ぎ。教室の外に意識を向ければ、先程まで校内を支配していた静謐さは徐々に懐かしい喧騒によって上書きされ始めていた。かちゃりとペンを投げ出す音がして振り返ると、波琉は終わったー!と言わんばかりに両腕を天に向かって伸ばしていた。
「助かったよ!ふくぶちょー、本当にありがとう!」
「神坂」
「ん?」
「ずっと思っていたが、俺はもう『副部長』ではないぞ」
「……あ、そっか、引退しちゃったんだね」
夏の全国大会を終えて、真田達3年はテニス部を引退した。『副部長』という肩書きは今の真田にはもう無い。
「ふくぶちょーって呼べなくなるのかあ。これからなんて呼ぼうかなあ……」
広げたテキストとノートを片付けながらぼそぼそ呟く波琉に「普通に呼べばいいだろう」と微かな笑みを零し、真田は自分の席へと戻ろうとする。
「──ゲンイチロウ」
突如として耳元を撫でた声に体が固まる。幻聴でも聞こえたのかと波琉の方に顔を向けると、波琉はきょとんとした表情でこちらを見ていた。瞬きを一つ。ふるりと睫毛が揺れる。
「どうしたの?弦一郎」
幻聴ではない。彼女の玲瓏な声が己の名前を呼ぶ。次の瞬間、体の中を何かが駆け巡った。また、掻き乱される。大きく鼓動を打ち始める心臓がうるさくてうるさくて仕方がない。──そこで真田は、はたと気づく。今まで自身の心に宿っていた想いを何と呼ぶのかと。
title by 誰そ彼
20161103 - 診断メーカーより『恋に気づく瞬間』
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