平日とはいえ、ビジネスマンやアジア圏からの旅行者で混み合っている羽咲国際空港。国際警察の捜査官である狼士龍は仕事の合間を縫って取得した休暇を利用し、数ヶ月ぶりに日本を訪れた。いつも後方に引き連れている黒服の部下達の姿はない。完全なプライベートではあるが、旅行というわけではなかった。向かう先は、今ではもう馴染み深い場所となった警察局だ。
狼は空港内で購入した手土産を片手に、捕まえたタクシーへと乗り込んだ。ポケットに入れていたスマホが短く振動する。取り出してディスプレイを確認するとメッセージが1件。飛行機へ搭乗する前に送信したメッセージに対しての返信が送られてきていた。

《お待ちしていますね》

と、簡単なメッセージとその文末につけられた無難な笑顔の顔文字に思わず笑みが零れた。胸の奥が疼く。これ程までに甘酸っぱく焦れったい気持ちを抱くことはあっただろうか。遠くに見える高層ビル群をぼんやりと眺めながら、狼はこれから会う人物の姿を思い描いた。


日本での良きビジネスパートナーである御剣怜侍が懇意にしている腕利きの科学捜査研究所所員・神坂波琉。彼女との出会いは、国際警察が長年追っていた人物が日本に潜伏しているとの情報を掴んだ際に「キミの手助けとなるだろう」と御剣から紹介されたことがきっかけだった。波琉の姿を目の当たりにした瞬間、鈍器で殴られたのかと思う程の衝撃を頭に受けた。「よろしくお願いします」と玲瓏な声を聞いて、強い眩暈を覚えた。
──それが一目惚れだと気づくのに、然程時間はかからなかった。
実のところ、狼は女に困ったことが人生で一度もなかった。端正な顔立ちにモデルのようにスラリとした長身。国際捜査官であり、西鳳民国で名だたる警察一族・狼家の当主。恵まれた容姿とキャリアを持つ狼を、周りの女達が放っておくはずがなかった。何をせずとも向こうから寄ってきてくれた。少しでも良いと思った女がいれば、耳元で甘い言葉を囁くだけで良かった。覚えている限りの恋愛は全て追いかけられるものばかりだった。だが、不思議なことに彼女は違った。まさか自分が追いかける立場になろうとは思ってもみなかった。──仕事で見せる、きりりとした表情は何処へやら。仕事以外にはひどく無頓着なのか、一旦仕事から離れた波琉は驚く程に隙を見せた。そこをピンポイントに狙っては食事やデートに誘い、時には分かりやすい程の、自分の持てる限りのアプローチをかけ続けたのだが──困ったことに波琉は口説かれているとは微塵も感じておらず、何をしてものらりくらりと無自覚にフラグを躱していくのだった。隙があるにもかかわらず、その隙を突いて強固な壁を崩すことはできなかった。しかし、できなかったからといって簡単に諦める狼ではない。狙った獲物は逃がさない。とにかく隙あらば食らいつくつもりで、日本での捜査を終えても狼は時間を作っては日本へ赴き、波琉との距離を詰めていった。
おかげで『狼捜査官』と素っ気なかった呼ばれ方も今では『狼さん』と砕けたものに変わった。出会った当初の『御剣検事のお知り合い』から『気の知れた仕事仲間』程度にはランクアップしているに違いない。あとは度がつく程の鈍感さを持つ波琉に今もなお仕掛け続けているアプローチを気づかせるだけなのだが、その肝心な部分がなかなかどうして難しい。


滑らかに走っていたタクシーが緩やかに減速し、側道へと停車する。高層ビル群は相変わらず空を覆い隠すようにして聳え立っていた。その一角、幹線道路沿いに門を構えた警察局は独特の雰囲気を纏っていた。タクシーを降り、狼は颯爽と警察局の敷居を跨いだ。慣れた手つきでセキュリティを通り、エントランスを抜けてエレベーターで科研のある3階へと向かう。
エレベーターを降りると、真っ直ぐに伸びる静寂に包まれた廊下を歩く。突き当たりを右に曲がると、眼前に広がるのは開放感溢れる科研の共有スペース。その入口で最新型のヒューマノイドロボットが訪問者を待ち構えるようにして佇んでいた。

『科学捜査研究所へようこそ〜。顔認証しますので顔をカメラに向けてくださイ〜』

科研の受付嬢である《彼女》に一歩近づいて目線を合わせると、顔の表情・虹彩・まばたきなどの生体情報を読み取られ、狼士龍であることを認証される。

『狼士龍サマお久しぶりデス〜。波琉所員をお呼びしますネ〜』

少し癖のある喋り方をする《彼女》に軽く返事をして、共有スペースに足を踏み入れる。人気のない科研をぐるりと見渡すと、目新しい機材がところどころ導入されているのに気づく。ここの科学技術力の高さには相変わらず圧倒されるものがあると感心しながら、波琉が来るのを今か今かと待ち構えていると、しばらくして奥のラボから慌ただしい音を響かせながら波琉が姿を現した。

「あ!狼さんお久しぶりです!」

にこやかな笑顔と共に出迎えてくれた波琉に心臓がどくりと高鳴る。日本を訪れていない間もメッセージや電話のやり取りは何度もおこなってきた。にもかかわらず、いざ本人を目の前にすると自分が自分で無くなるような感覚に陥る。前回の来訪から数ヶ月。波琉の髪は少しだけ伸びており、更に女性らしい雰囲気を漂わせていた。

「応。ほら、前に食べたいって言ってたヤツ、買ってきたぜ」
「うわ!ありがとうございます!すぐにコーヒーご用意しますね!」
「ああ、悪いな。……そういや、今日は他の奴らはいないのか?」
「非番やら研修やらで、今日はわたしだけが内勤なんですよ〜」

そう笑いながら波琉は白衣を翻して受付カウンターの奥へと向かう。──良かったと狼はホッと胸を撫で下ろした。こうして何度も科研へ訪れていることもあり、波琉に想いを寄せていることは他の所員達に知れ渡っていた。彼らはにやついた表情を向け、波琉に対して四苦八苦する狼の姿をいつも面白おかしく観察していた。しかし、そんな邪魔者も今日は運良く不在。一時いっときではあるが、有意義な時間を過ごせると狼は満足気に口端を上げた。テーブルに手土産を置き、オフィスチェアに腰掛けると、カウンターの奥でコーヒーを淹れている波琉の後ろ姿をじっと見つめた。
波琉は色気とは縁遠い女だった。口紅どころかファンデーションもアイライナーすら使わない。他の女のように着飾ることをしなかった。それなのに人を惹きつける魅力が波琉には備わっていた。その虜となっているのは自分だけではない。この警察局にもそして検事局にも、波琉が気づいていないだけで恐ろしい数の好意がそこらじゅうに転がっている。だからこそ物理的な距離が近いそれらに遅れを取らないよう、こうして度々日本を──波琉の元を訪れているというのに。どうしてこんなにも気づいてくれないのだろうか。

「お待たせしました〜」
「あ、ああ。すまねぇな」
「いいえ!それよりも早速食べさせていただいても?」
「かまわねぇぜ。他の奴らにも買ってあるから全部食うなよ?」
「分かってますって!」

からからと笑って狼の右隣のオフィスチェアに腰を下ろした波琉は狼からの手土産を丁寧に開封してその中の一つをゆっくりと取り出した。食べ物に目がない波琉はキラキラと眩いばかりの笑顔を見せる。「いただきます!」と、一目散にシュークリームにかぶりつく姿のなんと愛らしいことか。そんな何処かあどけない波琉を見て、笑みを浮かべた狼は波琉の淹れたブラックコーヒーに口をつけた。程良い苦味が口内に広がっていく。

「──ハル」
「はい?」

もぐもぐとシュークリームを頬張る波琉の顔に手を伸ばす。まるで惹きつけられるようにして動いた手は波琉の耳元を覆った。このまま引き寄せてキスすることだってできるのに、何故かまじないでも掛けられたかのように体が硬直する。狼はしばらく逡巡すると、親指で波琉の下瞼を優しくなぞった。

「……隈、できてるな」
「御剣検事に頼まれて、このところ徹夜で裁判用の鑑定資料を作っていたので」
「ちゃんとメシ食ってんのか?」
「もちろん!」
「インスタントラーメンじゃねぇだろうな」
「──うっ」

カウンターの奥。ウォーターサーバーやコーヒーメーカーが置かれたキッチンラックに積み上がったカップラーメンの類をちらりと見やると、波琉の肩がぎくりと震えるのが分かった。

「……ったく、今晩の予定は」
「今のところ定時で帰れる予定ですけど…」
「ならメシ食いに行くか。そんな栄養の偏ったモンばっか食われてちゃ、心配で仕方がねぇ」
「いいんですか!?ありがとうございます!狼さんって、ほんと面倒見いいですよね〜」
「──っ」

名前を呼ばれる度、張り裂けそうな程に鼓動が逸っていることを知らないだろう。余裕があるように見えて、本当はこれっぽっちも余裕がないことを知らないだろう。胸が疼く、初々しい少年のような恋心を抱いていることを知らないだろう。見つめられる度に、どれだけの眩暈を覚えるか知らないだろう。──どうすれば垣間見える隙間に潜り込めるのか。初めて会った時からもうずうっと考えている。


これほど惚れたる素振りをするに あんな悟りの悪い人



企画「常世」様に提出
20170304

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