簡単な連絡事項だけでホームルームが終わると、静寂だった教室は一変して喧騒に包まれる。部活へ急ぐ者、帰宅する者、生徒達は次々と教室から去って行った。同じ頃に他クラスのホームルームも終わったのか、廊下はたくさんの生徒でごった返している。少し遅れて波琉も部活組である友人と共に教室を出ると、ひしめく人の流れに沿って一番端の階段を目指した。ゆっくりとした足取りで辿り着いた階段前で波琉は「また後でね」と友人に別れを告げる。下へ降りていく人波から離脱し、波琉は一人、上を目指して階段を駆け上がった。
たん、たん、たん。リズム良く二階分の階段を上り終えると、先程までの喧騒からは考えられない静けさが立ち込めていた。普段から人通りの少ない4階はひんやりとした冷気を纏っている。準備室が立ち並ぶこの階の突き当たりには図書室があり、波琉は放課後になると友人の部活終わりを待つのも兼ねて、そこへ入り浸っていた。ドアノブを回して図書室へ足を踏み入れると、今日も今日とて波琉の貸切となっていた。カウンター奥の小部屋に控えている学校司書に挨拶を済ませた波琉は定位置である窓際の席に座る。鞄を机の上に置き、昨日借りたばかりの本を取り出す。心地良いソファーの背凭れに体を預けながら本を開くと、押し花でこしらえられた栞がページの隙間から現れた。それを抜き取って人差し指と中指に挟み込むと、波琉は本の続きを読み始めた。
時計の針とページをめくる音だけが耳朶に触れる。しばらく読み耽っていると、ふいに入口からがちゃりと物音がした。貸切だったこの空間に誰かがやって来る。入り込んでいた物語の世界から浮上した波琉は顔を上げて入口の方を見やった。
ポマードでがっちり固められた黒髪、標準よりも短い丈の上衣とワタリ巾が広いズボン──所謂、変形と呼ばれる学ランを着用した水戸洋平がそこに立っていた。彼のことも彼が所属している『桜木軍団』のことも中学時代から噂を耳にして何となく知っていた。喧嘩が強く、確かついこの間も体育館で騒ぎを起こして、謹慎処分を受けていたはずだ。そんな彼が縁もゆかりも無いはずの図書室を訪れることに波琉は驚きを隠せないでいた。ああ見えて彼も読書家なのだろうか。そんなことを考えつつ洋平の姿をじっと見ていると、視線に気づいたらしい洋平がこちらを向いた。ばっちり合った視線から反射的に顔を逸らした波琉は慌てて読み止まっていた本に目を落とした。ばくばくと心拍数が上昇する。いちゃもんをつけられるのではないかと怯える波琉をよそに、洋平は何も言わず波琉から遠く離れた椅子に腰を下ろした。眼前に本を掲げて波琉はこっそりと洋平の様子を窺う。洋平はこちらに背を向けてただ座っているだけ。とりあえず手出しはされないようだと、波琉はほっと息をつくと再び物語の世界に没頭した。──どれくらい没頭していたのか、気がつけば波琉は本を読み切っていた。裏表紙を閉じて顔を上げると、洋平はいつの間にか図書室から姿を消していた。
「一体、何しに来たんだろう?」
波琉は首を傾げながら読み終えた本の返却手続きを行うために立ち上がった。目線は、洋平が座っていた場所をじっと見つめたまま。
それからほぼ毎日、図書室で洋平の姿を見かけるようになった。屋上よりもいいサボり場と判断したのか、洋平は波琉が訪れるよりも先に図書室へ来ており、腕を枕にして昼寝をしていた。ずっと眠っているだけかと思えば、時折起き上がって本棚を詮索し、本を何冊か選び取っていた。だが、普段から活字を読み慣れていないのか洋平は数ページめくっただけですぐさま机に突っ伏して眠りにつく始末。そんな洋平の様子を横目で気にしつつ、波琉はいつものように読書に耽るのだった。
本を読み終える。腕時計で時間を確認すると、まだ部活が終わるには早い時間だった。新しい本でも探そうと波琉は席を立ち上がる。ふと、視界に入った洋平は案の定本を開いたまま眠りこけていた。テーブルに突っ伏している洋平の背中が大きく上下していた。机には何冊もの本が積み重なっており、よく見るとそれらは全て波琉が読み終えた本だった。足が自然と洋平の方に向く。興味半分怖さ半分。起こさないように抜き足差し足で近づき、恐る恐る洋平の顔を覗き込んだ。
率直に言ってとても綺麗な寝顔だった。男の子にしては長い睫毛。すーっと鼻筋が通っていて、薄く開いた唇からは穏やかな寝息が聞こえる。同学年とは思えない大人びた印象を持つ洋平だったが、寝顔は年相応のあどけなさを帯びていた。まるで見てはいけないものを見ているようで波琉の心はひどく騒ついた。と、洋平の長い睫毛がふるりと揺れる。起きてしまう……!波琉は慌てて身を翻すと、足音を立てないようにしてその場から離れた。本棚の影に隠れて、胸元を押さえる。心臓は今にも破裂しそうな勢いで脈を打っていた。
数日後。訪れた図書室に洋平の姿はなかった。「あ、今日はいないんだ」と少し残念そうな声で呟いた波琉はいつもの席に座り、本を開いた。抜き取った栞を人差し指と中指の間に挟んで続きを読み進めていく。窓から射し込む陽光は日に日に夏の気配を帯びている。久々の貸切に波琉の読み進めるペースは普段以上に早かった。凄まじい集中力を発揮している波琉は図書室の扉が開いたことに気がつかない。足音が迫ってきても、すぐ近くでガラガラと椅子を引きずる音がしても、波琉はさして気にすることもせず、どんどん物語の中へと入り込んでいく。
「何読んでんの?」
柔らかい声色が波琉を物語の世界から現実へと一気に引き戻した。振り向くと、洋平が隣の机に片肘をつきながら座っていた。視線がかち合うのはあの時以来。口端に笑みを携えたまま、洋平がじっとこちらを見ていた。
「あ、えっと──」
逸らせなかった。まるで金縛りにあったかのように体が硬直している。
「神坂波琉ちゃん」
「ど、どうして、わたしの名前……」
「そりゃあ、好きな子の名前は普通知ってるもんでしょ?」
思いもよらない洋平の言葉にぱちんと体の硬直が解ける。はくはくと口を動かすことしかできない波琉を見て、洋平は目を細めてからからと笑う。
「じゃあ、また明日」
にこやかな笑みを浮かべたまま、洋平は椅子から立ち上がるとそのまま図書室を後にした。今しがた洋平が放った言葉を頭の中で反芻する。──スキナコ、すきなこ、好きな子、好きな、子?
脈が早くなる。体が熱を持つ。波琉は騒つく心を落ち着かせようと持ったままの本に目を落とした。しかし、もう文章を追うことはできない。一体何処まで読んでいたのか、波琉はこの一瞬ですっかり忘れてしまったのだ。
title by ユリ柩
20170429
|