「おやすみなさい、先輩」
マシュと別れて久しぶりの自室へと帰る。セキュリティロックを解除すると空気が抜けたような音がして自動扉が開く。廊下の明かりが漏れ入り、部屋の中がぼんやりと照らされた。一歩踏み入れる。背後で扉が閉まり、辺りは闇に沈み込む。ここにはもう《頼れる先輩》も《人類最後のマスター》もいない。《神坂波琉》というごく普通の家庭に生まれた人間だけが存在していた。波琉は電気をつけることなく、へなへなとその場に崩れ落ちると、膝を曲げて自分で自分を抱きしめるようにして蹲る。肩が小さく震えていた。
今回、訪れた特異点は魔霧蔓延るロンドン。濃霧によって辺りが見えず、敵の位置すら正確に把握できないというハンデを背負いながら、ロンディニウムの騎士と共にロンドンの街を駆け抜けた。一筋縄ではいかない敵を打ち倒し、あとは聖杯を回収するだけと安堵したのも束の間、波琉達の前に気まぐれと称して人理焼却事件の黒幕である魔術王ソロモンが現れたのだ。
波琉は始まりの冬木から3つの特異点を乗り越えて来た。縁を繋ぎ、召喚したサーヴァント達からも幾分か顔つきがマシになってきたと褒められるようになった。少しずつではあるが強くなってきたと自負していた。しかし、魔術王にとってはたかが3つの特異点を修復しただけの波琉など蚊に刺されるような程度でしかなく、脅威でも何でもなかった。魔術王に見逃された波琉は今まで以上に濃厚な死の気配を間近に感じた。ここで放棄することが最も楽な生き方なのだと言った魔術王の忠告が頭の中にこびりついて離れなかった。
「──……よし」
ぐるぐると考え込んでいた思考回路を無理矢理シャットダウンさせた。こういう時はとりあえず寝るに限る。次の特異点への旅はもっと過酷になるはずだ。そのためにも体力を回復させておかなければならない。この体はすでに自分一人だけのものではないのだから。足に力を入れて立ち上がった波琉はようやく部屋の電気をつけた。乱雑に置いていたはずの魔術の指南書や資料がいつの間にかきちんと整理整頓されている。あらかた、呪腕のハサンかエミヤがこの不在中に片付けてくれたのであろう。
──今まで張りつめていた緊張感がほぐれ、波琉の顔にふっと笑みが浮かぶ。
「また明日、お礼を言わなくっちゃ」
波琉は独りごちると、クローゼットから着替えを取り出し、汗と埃まみれになった体をさっぱりさせるためにお風呂へと向かった。
◇
カルデア内時間で深夜0時過ぎ。廊下の全体照明は落とされ、足元灯のみが点灯している。そんな中、一人の男がゆったりとした足取りで歩いていた。ぺたりぺたり、男の素足がリノリウムの床に吸いつく音が聞こえる。果ての長い廊下を歩き続け、男はある場所でようやく立ち止まった。そこはマスターである波琉の部屋だった。実体と霊体を行き来できるサーヴァントの前ではこの扉もセキュリティも意味を成さなかったが、波琉のプライベートを尊重して、就寝中や波琉の許可がない時は霊体であろうとも勝手に部屋に入ることはしないという暗黙の了解が彼らの間にあった。といってもすぐに部屋を散らかす性質の波琉のために呪腕のハサンやエミヤは隙を見て掃除をしているらしいが。まるで父と母のようだと思う。──無論、どっちがどっち、とは言うまい。
「ま、今回は特例ってことで見逃してくれやマスター」
波琉の許可なしに──しかも就寝中に部屋に入ることは憚られるが、男は特異点から戻ってきた時の波琉の様子が少し気になっていた。ぱっと見は普段と変わらなかったが、何処か思いつめた表情が垣間見えたような気がしたのだ。特異点での詳しい話はまだ聞いていなかったが、何かあったのは違いないと、男──キャスタークラスのクー・フーリンは波琉の様子をこっそり窺いに来た。これもマスターのためだとキャスターは扉の向こうで寝ているであろう波琉に向かって一言詫びを入れる。そして実体を解くと波琉の部屋に入り込んだ。
霊体から再び実体に戻る。常夜灯の灯った部屋の奥に備え付けられたベッドにはなだらかな山が横たわっていた。キャスターは足音を立てないようにベッドに歩み寄る。波琉は静かな寝息を立てて眠っていた。予想していたよりも随分と顔つきは穏やかだ。キャスターはベッドの端に腰を下ろし、波琉の寝顔を見つめる。その瞳は慈しみに満ちていた。
「お疲れさん」
キャスターはそっと波琉の髪をすいた。子供をあやすように優しく。髪の感触がさらさらと流れるように指の間を通り抜ける。
「よく頑張ったな」
これで半分。特異点を修復し、歪みの原因となった聖杯を回収した。キャスターは波琉と初めて出会った冬木での記録を読み返す。あの頃はおおよそマスターとは程遠いただの人間だった。そんな波琉と仮契約を結び冬木の聖杯戦争を終わらせた後、キャスターは波琉の召喚に応じ、今度は正規のサーヴァントとしての契約を結んだ。それはきっと、まだ何色にも染まっていない真っ白なキャンバスのような彼女の成長する姿を間近で見たいと思ったからだろう。──キャスターの読み通り、波琉は特異点を乗り越える度に逞しく成長していき、今となっては数多のサーヴァントをまとめ上げるマスターとなった。まだ半人前といったところではあるが、7つ目の特異点を踏破した時、きっと立派なマスターになっているに違いない。
キャスターは波琉の前髪を横に流すと、額にそっとルーンを刻んだ。残る特異点はあと3つ、どの特異点も今まで以上の強敵が立ちはだかっているはずだ。遥か昔に自分が生を謳歌した世界、そしてこれから波琉が生きていく世界。それをむざむざと失ってたまるか。キャスターは祈りを込める。何があっても守ると決めた。仮初めのドルイドとして、彼女を教え導くと決めた。──座に還るその時まで。
(ああ、私の心臓の鼓動よ) 20170628
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