それは爽やかとは程遠い倫敦特有の霧が深く立ち込める朝のこと。倫敦警視庁の監察医であるハルはどういうわけかあの名探偵シャーロック・ホームズから捜査の協力要請を受け、ベーカー街221Bを訪れていた。ドアベルを鳴らすと、すぐさまガチャリと音がしてホームズが顔を出す。
「さあ入ってくれたまえ!ドクター!今、アイリスが特製のハーブティーを淹れているところさ!」
グイグイと腕を引かれてあがり込むと、部屋中の至るところに上流階級の貴婦人達が着るような煌びやかなドレスが散乱していた。目の前に広がる異様な光景に狼狽えていると、ハルは特にごたごたしているソファーに成歩堂龍ノ介が放心状態で横たわっているのを発見した。よく見ると龍ノ介の腰には女性用のコルセットが巻かれている。余程きつく締められたのだろう、龍ノ介の黒い目は涙に濡れていた。
「ナ、ナルホドー、それは……その、」
「違うのです……これは決して趣味などではないのです。ハルさん……実は──」
「実はミスター・ナルホドーにもボクの捜査に協力してもらうことが決まってね、これはその下準備というワケさ」
龍ノ介の言葉を遮り、鹿撃ち帽のつばを弾くようなポーズを決めたホームズが不敵に笑う。ハルはいちいち腹が立つ顔だなと思いながらも、ホームズの言葉をイマイチ理解できずにいた。すると、キッチンからティーセットを持ってきたアイリスが「ホームズくん、ハルちゃんに詳しい説明をしてないの?」と呆れたように呟いた。
「捜査に協力してほしいとだけは」
「うーん。まあ、捜査と言えば捜査になるんだけどねー」
アイリスはやれやれと困った表情で肩を竦めると、ハルに事のあらましを説明した。
それはとある資産家の屋敷で催される仮面舞踏会の招待状が誤ってホームズの元に届いたことから始まった。そのパーティーは名のある貴族達が参加していることで有名であり、毎年なかなかの規模で開催されていた。今回、そこに司法・警察の上層部の人間が招待されているとの情報を(グレグソンに鎌をかけて)手に入れたアイリスが自らの執筆する『シャーロック・ホームズの冒険』シリーズのネタに使えるのではないかと思いついた。そこでホームズが体を張って貴婦人に扮し、アイリスの創作意欲を刺激するような話を参加者から収集しようと考えたのだった。ハルと龍ノ介の2人はホームズの独断と偏見により『協力者』として選ばれてしまった、というわけである。──ハルはアイリスの話を聞き終えると、わなわなと肩を震わせながらホームズに人差し指を突きつける。
「異議ありッ!何もわざわざ貴婦人に変装しなくてもいいのでは!?」
「なに、初歩的なことだよドクター。数々の権力者も女性の美貌の前ではウッカリ口を滑らせてしまうからね」
「いやいや、そう言われてもわたしはドレスなんて堅苦しいもの、絶対に着たくありません……!」
「協力してくれた報酬として、キミをモデルにした監察医を『シャーロック・ホームズの冒険』に登場させるというのはどうかな?」
「……っ!それでも、です!」
ふん、と鼻を鳴らして部屋を出ようとしたハルだったが「待ちたまえ、ドクター・ハル」と抑揚のない声に引き止められた。先程まで感じなかったただならぬ雰囲気にハルは振り返る。すると、ホームズがいつになく真剣さを帯びた瞳でこちらを見据えていた。
「いいのかい?ドクター・ハル」
「な、なんですか」
「世界に誇る倫敦警視庁の一ドクターであるキミが、この幼気な10歳の少女にお金を借り──」
「あはは!冗談に決まってるじゃないですか!是非とも捜査にご協力させてくださいッ!ミスター・ホームズ!」
「さすがは倫敦警視庁の優秀なドクターだ!キミなら快く引き受けてくれると思っていたよ!あっはっはっはっ!」
体を仰け反らせて高らかに笑うホームズを、ハルはぎりぎりと歯噛みしながら睨みつける。
「ハルさん、一体何があったんですか……」
「これにはふかーい理由がありまして……」
「よし!心強いドクター・ハルの協力も得たことだ。アイリス、ミスター・ナルホドー!さっきの続きといこうか!」
「うん!実はあたし、ハルちゃんの全身コーディネートを一度してみたかったんだよねー。さあ、ハルちゃん!コルセットを巻いてドレスの試着をしてみよっか!」
それはそれは愛らしい顔でコルセットを手に持つアイリス。幼気な彼女を前にして、ハルはただ口端を引攣らせることしかできなかった。
そして、仮面舞踏会当日。ハル達は会場となる屋敷へ向かうため馬車に揺られていた。この日のためにハルは仕事の合間を縫っては秘密裏に221Bを訪れ、ホームズとアイリスによってダンスのステップやマナー、言葉遣いなどを徹底的に叩き込まれた。思い返すだけで気分が悪くなる地獄のような日々ではあったが、おかげで最低限の所作は身に付けることができたと思う。そして、『衣服が人間を作る』の言葉通りにハルはドレスの持つ力によって全くの別人になっていた。何処からどう見ても上流階級の淑女である。しかし、こうして入念に準備をしてきたとはいえ、本当に最後までボロを出さずに任務を遂行することができるのだろうか──。
ぼんやりとしていた意識が、長らく走っていた馬車が止まったことにより覚醒する。ハルは手に持っていた仮面を着けると、ホームズと龍ノ介に続いてゆっくりと馬車から降りた。
屋敷の使用人に案内された3人は大広間へと足を踏み入れる。天井には豪華なシャンデリアがいくつも吊り下げられており、大広間を煌びやかに照らしていた。参加者は皆、各々に艶やかな仮面を着けているため、場内はなんとも妖しげな雰囲気に支配されている。さすがは倫敦一の資産家が招待した客、隠し切れない気品さを身に纏う貴族階級の人間が一堂に会していた。──やがて主催者である資産家の挨拶から仮面舞踏会が幕を開ける。
「では、ここからは単独行動だ。大いに楽しみたまえ、諸君」
交響楽団の演奏が始まると、仮面の奥で茶目っ気たっぷりのウインクを決めたホームズが慣れた足取りで大広間の奥へと進んでいく。どうやら既に標的を見つけていたようだ。ホームズの姿が人混みに消えると、ハルは龍ノ介と互いに健闘を祈り合って別々の方向へと歩き出す。
ぐるりと場内を見渡すと舞踊に興じる者、雰囲気を楽しむ者、皆思い思いに仮面舞踏会を楽しんでいる。舞踊の基本的なステップは体に入っているが、気の乗らないハルは雰囲気だけを楽しむつもりでいた。とはいえ、刑事でもない自分が潜入捜査じみたことをしているなど、見知った人物に知られるのだけはどうしても避けたいハルは目をキョロキョロと動かして周りを注意深く観察する。と、あまりにも身に覚えのある人物が多くの参加者と挨拶を交わしているのを発見し、ハルは思わず目を凝らした。対峙するだけで萎縮してしまう程のオーラを放つヴォルテックスは目元だけを覆う仮面を着け、何やら会話に花を咲かせていた。そしてその傍らにはぎこちない笑みを浮かべるグレグソン。遠目から見ても分かる緊張っぷりに、ヴォルテックスから同伴者として指名されてしまったのだろうと容易に想像がついた。いつも手に持っている大好物のフィッシュ&チップスを持ち合わせていないためか、右手がそわそわと小刻みに動いて落ち着かない。ハルはグレグソンの思わぬ姿に笑いそうになりながらも必死に口元を噛みしめ、心の中で「可哀想なグレグソン刑事」と呟いて軽く目を伏せた。
しかし、ここにヴォルテックス首席判事がいるということはまさかあの人も?確かに彼は高貴な身分ではあるが、このようなパーティーに参加するなどということは──。
「……いた」
無意識に声が零れ落ちてしまい、ハルは慌てて口を噤む。壁際で一人、腕を組んで瞑目しているのは中央刑事裁判所の《死神》──バロック・バンジークス。バロックはもとより正体を隠す気などないのか、顔の片側だけを覆う仮面を着け、静かに佇んでいる。他者との関わりを拒絶するかのような威圧感を全身から醸し出している《死神》に近寄る物好きはおらず、バロックの周りだけ不自然に空間が空いていた。こうして仕事以外でバロックの姿を見かけるのは初めてだったが、仕事でもプライベートでも震え上がるような冷気を纏っているのは変わらないらしい。
ハルは鋭い観察眼を持つバロックに自分の存在を知られる前にこの場から離れようと後退りする。しかし、慣れないドレスとヒールに思うように動けず、誤って自分で自分のドレスの裾を踏んでバランスを崩してしまった。
「きゃっ……!」
どさりと派手に崩れ落ち、会場全員の視線を一身に浴びる。突き刺すような視線に混ざり、くすくすと馬鹿にした笑い声が聞こえてくる。羞恥で顔中に熱が集まるのを感じながら、立ち上がろうと足に力を入れた瞬間、ハルの目の前に白手袋を着けた手がすっと差し出された。
「……お手を」
「あ、ありがとうござ──」
親切にも手を差し伸べてくれた人物の顔を認めたハルは思わず呼吸を止めた。あろうことか、先程まで壁際で瞑目していたはずの《死神》が転んだ自分に手を差し出していたのだ。目の覚めるようなアイスブルーが目の前にある。思わず、ハルは吸い込まれるようにバロックの瞳をまじまじと見つめてしまう。
「……私の顔に何か?」
訝しげに眉を顰めたバロックの呟きにハルはハッと我に返る。
「……い、いえっ!」
「ならば、手を。いつまで床に伏しているのは如何なものかと」
「あ……そうで、ございますわね。大変、申し訳ありません」
差し出された手を取ると手袋越しに温かなぬくもりが伝わってきた。その瞬間、ハルは初めて《死神》と呼ばれる男にも血が通い、人並みの体温があることを知った。そのまま手を引かれて立ち上がると、心配そうに顔を覗き込まれる。
「何処か、痛いところは」
「い、いえ……特にありませんわ。お助けいただき誠にありがとうございます」
足元に神経を集中させながら、ドレスの裾を軽く摘まんで礼をする。
「それでは私はこれで──」
バロックの前からそそくさと去ろうとするハルを引き止めるかのように、交響楽団が新しい舞踊曲を演奏し始める。3拍子の淡々とした曲調──ハルが最も苦手とする円舞曲だ。
「これも何かの縁。よろしければこの1曲、ご一緒願えないだろうか」
「も、申し訳ございませんが、私……その、恥ずかしながらダンスは不得手ですの」
「……基本的なステップでも構わないが」
バロックの言葉にハルはあの地獄のレッスンを思い出す。
「え、ええ、基本中の基本であれば……」
「ならば、貴女は私のリードに身を任せていればいい」
「……っ」
真っ直ぐに射抜かれてハルは視線を彷徨わせる。ハルとバロック以外の参加者は既に新たなパートナーを見つけ、音楽に合わせて優雅に踊り始めている。──ホームズもそして龍ノ介でさえも。ハルは目の前にあるバロックの手から逃れられないことを悟ると、おずおずと《死神》の手を取った。流れるような所作でエスコートされ、バロックと共に皆が軽やかに踊っている中へ入っていく。交響楽団の奏でる円舞曲を聴きながら2人は面と向かって恭しく礼をする。再度差し出されたバロックの左手にそっと右手を重ねると、手の甲を親指で優しく撫でられた。
「!」
反射的に宙に浮いた右手はすぐに捕らえられ、その勢いで腰に腕を回された。バロックの息遣いやコロンの匂いを間近で感じて、ハルは思わず体を固くする。
「力を抜いて、私に身を委ねるのだ」
バロックの、そんな優しい声色は今まで聞いたことがなかった。手と腰──バロックに触れられているところがじりじりと熱を持ち始める。音楽に合わせて動き出そうとするバロックに、我に返ったハルは慌てて意識を足先に向けた。間違って踏んでしまわないように懸命に足を動かしていると、ふっと息の漏れた音が聞こえた。俯いていた顔を上げると──バロックが僅かに口角を上げて優しげな表情を浮かべていた。その表情が、ハルの心臓の柔らかいところを撫で上げていく。
「貴女はここにいる者達とは、少し違う色のようだ」
さすが検事、よくお分かりで。そんな賞賛の言葉を飲み込んでハルは曖昧に笑う。
「だが……よもやこの私の手を取ってくれるとは、な」
「え?」
「いや……ただの独り言だ」
会話が途切れ、互いに口を噤んだ。今、ハルの目の前にいるバロック・バンジークスという男は倫敦市民が思い描いているような冷徹な《死神》などではなく、人並みの温かさを持つれっきとした《人間》だった。もし、こうして手を取らなければ……こんな当たり前のことにずっと気付かずにいたのかもしれない──。
「……っ」
じわりと目頭が熱くなり、涙が零れ落ちそうになるのを下唇を噛んで堪える。ハルは心を掻き乱す衝動を追い払おうと無我夢中で踊り続けた。
やがて円舞曲の演奏が終わり、ハルとバロックは繋いでいた手を離した。緊張から解き放たれ安堵するものの、何故かバロックのぬくもりが名残惜しいと感じている自分がいることに気がついた。言葉で表すことのできない感覚を胸に抱きながら始まりと同じように礼をすると、美しいアイスブルーの瞳と視線がぶつかった。
「──何処かで、私と会ったことはないだろうか」
思いもよらない言葉にハルは顔を僅かに強張らせた。もしかして変装がバレてしまった?──ハルは肝が冷えていくような感覚の中、強張った頬を懸命に動かし、にこりとした笑みを貼りつける。
「それは他人の空似というものでございましょう。今宵は仮面舞踏会でございます。貴方も……そして私も何者でもありませんわ」
「──そうであったな。……不躾なことを聞いた無礼、お許し願いたい」
バロックの追求から逃れられたことにハルは内心ホッとしつつ、それをおくびにも出さず口角を上げ続ける。
「貴方のおかげで私は二度目の恥をかかなくてすみましたわ。では……私はこれで。恥ずかしながら少し人に酔ってしまいましたの」
「ならば、外までご一緒に」
「いいえ、ご心配いりませんわ」
最後にもう一度礼をすると、ハルはバロックから逃げるように会場を後にした。
煌びやかな照明と心地良い音楽から一変して霧夜の静寂に包まれる。ひんやりとした冷気がハルの肌を撫でた。あのバロック相手になんとかやり過ごすことができたが、ざわざわと心が落ち着かない。バロックに触れられた右手はまだ、ほのかに熱を帯びていた。
「はあ……」
息を吐き出すと、この短時間の疲れがどっと押し寄せてきた。コルセットの痛みに耐えるのもそろそろ限界に近い。ハルは屋敷の使用人に頼んで馬車を出してもらうと、結局面白い話の1つも聞き出すことができないまま、先に帰路へ就いたのだった。
◇
一夜明けて、ハルは普段の服装に戻っていた。しかし、ハルの心は昨夜からずっと妙に浮き足立っている。このままではいけないと頭を軽く振って気持ちを切り替えると、ハルは事件が起こった家に足を踏み入れた。部屋の奥では先に到着していたグレグソンが忙しなく現場の指揮を執っている。普段から疲れ切った顔をしているグレグソンだが、今日はより一層目の下の隈がひどい。余程、ヴォルテックスのお供が大変だったのだろう。ハルは「可哀想なグレグソン刑事」と心の中で呟くと、こちらだと言わんばかりに手招きするグレグソンの元へ駆け寄った。──そうして一通りの検分を終え、解剖のために法医学研究室へ戻ろうと立ち上がった瞬間、不意にハルの背後がざわざわと騒がしくなった。
「刑事、状況は」
「ハッ!バンジークス卿!被害者は……」
グレグソンの『バンジークス卿』との言葉に体が勝手に反応した。おずおずと振り返るとグレグソンから事件のあらましを聞いているバロックの姿が目に映った。──その瞬間、昨日垣間見た表情が脳裏に過り、ハッと息を呑んだ。バロックの姿をまじまじと見つめていると、その不躾な視線が癪に触ったのか、バロックが訝しげに眉を顰めながら近づいてくる。
「──ドクター、私の顔に何か?」
「えっ、あっ……」
アイスブルーの瞳に心の自由を奪われてしまう。声を出そうにも上手く声を出すことができない。ハルは今まで自分がどのようにしてバロックと言葉を交わしていたのか、途端に分からなくなってしまった。どんな声でどんな顔で、どんな気持ちでわたしは──。
「ドクター」
「……っ!あっ、いえ!その……大変失礼いたしましたッ!」
弾かれるようにバロックから顔を背けたハルはそのまま脇を通り抜ける。グレグソンの呼び止める声に「研究室へ戻ります!」とだけ答えて、ハルは現場から飛び出した。大通り沿いをしばらく走り、一本外れた静かな路地に入るとハルは建物の壁に力なく凭れてその場にしゃがみ込む。
「……っ」
顔が、体が、熱い。肩で息をしながら胸元に軽く手を当てると、心臓が体を突き破る勢いで激しく脈打っていた。全速力で走ったせいか、それとも──。
「いやいや、そんなこと……」
ハルは頭に浮かんだ想いを否定する。しかし、一度考えてしまったものはもう止められない。
あの仮面舞踏会の場で垣間見た優しげな表情が、声が、そして人並みのぬくもりが、頭から離れない。それどころか願わくばもう一度、あの表情やぬくもりに触れたいとばかり考えていた。
title by 夜半
20171115(20190810修正)
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