靴箱を開けると、一通の手紙が靴に立てかけられるようにして置かれていた。誰が置いたのかと手紙を手に取って表と裏を交互に見やるが、差出人の名前はない。訝しげに眉を顰めた洋平が封を切ったところで靴を履き替えた高宮・大楠・野間の3人がぞろぞろと洋平の周りに集まってきた。

「どうした?洋平」
「あ、いや、なんか手紙が入っててさ」
「なんだなんだ果たし状かー?」

覗き込んでくる高宮達の前で封筒から中身を取り出す。丁寧に二つ折りにされた便箋を開くと、その中には可愛らしい文字で短い文章がしたためられていた。
〈水戸くんに伝えたいことがあります〉
そんな冒頭から始まり、時間と場所を指定してきたそれは所謂ラブレターと呼ばれるものだった。手紙の文面を読み終えると、周りから冷やかしの声が飛び交う。

「なんだよ、ラブレターじゃねえか!」
「洋平にも春到来か!?」
「可愛い子なら付き合っちゃえよ!」
「そうそう!今のうちに作っとかねーと欲しいと思った時にはできねーからな!あー、オレもラブレター欲しーわ!」
「はいはい、分かったからとりあえず先に行っててくれ。すぐ追いつく」

からからと囃し立てる高宮達に苦笑いを零しながら、洋平は元来た道を引き返して次々と押し寄せる人波に逆らっていく。
水戸くんに伝えたいことがあります──。先程目を通した手紙の文面を思い出して、本当にこんなことがあるもんだなと洋平はしみじみ思った。ラブレターを貰うのはこれが初めてだったが、洋平は何処か気乗りしなかった。何故なら(恋愛に全く興味がないと言えば嘘になるが)洋平にとっては恋愛よりも桜木軍団との友情の方が大切だったからだ。高校生になった今はその変わらない友情に加えて、花道がひょんなきっかけからのめり込むようになったバスケの応援というささやかな楽しみも増えたため、更に恋愛の優先順位は降下を辿っている。

「それにしても……物好きだよなあ」

もう一度手紙に視線を寄越し、姿のない差出人に想いを馳せる。──洋平と同じ学年には湘北一のモテ男と言っても過言ではないバスケ部のエースである流川楓がいた。運動神経抜群、端正な顔立ち、そしてクールな性格の三拍子が揃った流川は女子生徒から絶大な人気を誇っていたが、まさかあの流川よりも不良と呼ばれる部類に入る自分を好きになる物好きがいたとは。

「さて、どうしたもんかな……」

洋平は独りごちながら気怠げに階段を一段一段上る。階段を上る度に洋平の足は枷をつけられたかのように重くなっていった。そうして足を引きずるようにして最後の階段をようやく上りきると、屋上へ続く扉が眼前に差し迫った。この扉の向こうには自分を待っている物好きな誰かがいる。洋平はふうっと長く息を吐き出すとドアノブをそっと回し、様子を見るために音を立てないよう細心の注意を払って扉を開けた。僅かに作った隙間を覗き込んで屋上の様子を窺う。薄い青が広がる空の下で、1人の女子生徒がそわそわと落ち着かない様子で誰かを今か今かと待っているようだった。背中を向けられているため相手の顔を窺い見ることはできなかったが、きっと彼女が差出人だろう。洋平は掴んでいたドアノブを手前に引くと、意を決して屋上へ足を踏み入れた。扉の軋む音と近づいてくる足音に気づいたのか、彼女が振り返る。風に乗ってはらりと揺れる髪、緊張できゅっと引き結ばれた唇。何処かで見たことのある顔だと思った。洋平は必死に記憶の中を漁る。──そうだ、彼女は確か。

「神坂、さん?」
「み、水戸くん……!」

そこにいたのはクラスメイトの神坂波琉だった。しかし、残念ながら彼女に対して接点という接点も第一印象と言える程の印象も洋平は持ち合わせていなかった。ただ分かるのは洋平にとって波琉は正反対の人間だということだけ。まさか本当に彼女が?と困惑する洋平は手に持っていた手紙を眼前に持ち上げると「これって神坂さんの?」と問いかける。手紙を認めた波琉は緊張した面持ちで小さく頷いた。

「突然、呼び出したりしてごめんなさい」

波琉は洋平の目を見ると、薄く口を開いてすうっと息を吸った。

「あの、実は、わたし……ずっと前から水戸くんのことが、好きでした……!」

かあっと頬を紅潮させた波琉が口にした言葉は予想通りのものだった。さて、どのようにして告白を断ろうかと洋平は考えを巡らす。付き合えないことはきっぱりと伝えなければならない。

「あー、神坂さんの気持ちは嬉しいんだけど、オレ、誰かと付き合う気とかないっていうか。今は花道達といるのが楽しくてさ」
「……うん」
「神坂さんの気持ちには応えられそうにないんだ。ごめん」

誠心誠意を込めて頭を下げると、頭上で息を呑む音が聞こえた。ああ、こりゃ泣くなと漠然とした思いを胸に抱えていると──。

「……っ、ううん!その、こっちこそ突然ごめんね!」

幾許かの間を空けて耳に届いた予想外の明るい声色に洋平は反射的に頭を上げた。勇気を出して臨んだであろう告白を断られたにも関わらず、波琉は何処か晴れ晴れとした表情をしている。──どうしてそんな表情でいられるのかと洋平は虚を衝かれた。

「わたしの気持ち、聞いてくれてありがとう」

頬を紅潮させた波琉の笑顔はまるで花が綻んだかのように見えた。軽く頭を下げて洋平の脇を小走りで抜けていった波琉の足音につられて振り返る。きっとどれだけ優しく言葉を繕っても波琉は泣いてしまうだろうと洋平は心の何処かで思っていた。しかし、蓋を開けてみれば波琉は一切涙を見せることなく──それどころか満面の笑みで「気持ちを聞いてくれてありがとう」と言ったのだ。洋平は波琉が屋上から立ち去った後もしばらくその場に立ち尽くし、扉の一点を見つめ続けていた。


それからの洋平は今までと変わらない日々を送っていた。花道の応援にバスケ部の練習見学に行ったり、高宮達となけなしのお金を握ってパチンコへ行っては大いに負けたり、夜遅くまでバイトに勤しんだり。だが、そんな日常の中で変わったのは告白を断ったあの日から徐々に波琉の存在を気にするようになったことだ。同じクラスということもあって若干の気まずさが胸を占める中、洋平は今まで知る由もなかった波琉の色んな表情や姿を知っていった。友人と会話をしている時の楽しそうな顔や美味しそうにお弁当を食べる顔、授業中の真面目な姿勢から時折見せるウトウトと船を漕ぐ姿まで。告白されるまでは顔も名前もうろ覚えで全く印象になかったというのに──。今となっては不思議なもので波琉のことを考える時間が日毎に増していった。




とある日の昼休み。洋平は花道と他クラスの高宮達と合流して食堂へ向かっていた。食堂はいつものことながら人々でごった返している。トレイを片手に少しずつ前に進んで行く列に並びながら、テーブルで既に昼食を取っている生徒達の姿をぼんやり眺めていた洋平は大勢の生徒達の中から波琉の姿を一瞬にして見つけた。いつもは教室で持参したお弁当を食べる波琉が今日は珍しく食堂の定食を頬張っている。相変わらず美味しそうに食べるなあと波琉の姿を観察していると、ふと波琉の顔がこちらを向いた。突然の出来事に洋平の体は固くなる。目を丸くしている波琉を見て、きっと自分も同じような表情をしているのだろうと洋平は思った。たとえば、あそこにいるのが波琉ではなく女子生徒の中でも割と仲の良い晴子だったら──きっと自分は片手を上げて、晴子に対して軽く挨拶をするはずだ。だから、そう、波琉に対しても同じように振る舞えばいい。だというのに片手を軽く上げる──たったそれだけのことを洋平は行動に移すことができなかった。身を強張らせたまましばらくの間互いに見合っていると波琉がふっと表情を柔らげ、洋平に向かって優しい笑みを送った。

「──っ!」

波琉のその笑顔を前にして洋平はますます対応に困った。息を呑んでどうしようかと考えあぐねたその瞬間、洋平の目の前にぬるりと大きな顔が現れた。

「うわ……っ!」
「洋平、何ぼーっとしてんだ。次、注文する番だぞ」
「え……あ、わりい」

花道の言葉にぱちんと体の硬直が解けた洋平は未だこちらを見ている波琉から目を逸らし、待ちかねていた食堂のおばちゃんに日替わり定食を注文した。その後、空いたテーブル席に着いて定食を取るものの、洋平は一瞬たりとも波琉の座るテーブル席の方向に目を向けることができなかった。だが、頭の中には先程見た波琉の笑顔がこびりついたまま。


昼休みを挟んだ2時間の授業を終え、洋平は体育館へと足を運んだ。他校との練習試合を日曜に控えているからか、花道を始めとするバスケ部の部員達の熱気は凄まじい。彼らの放つ熱気をピリピリと肌で感じながら、洋平は体育館の入口から練習に勤しむ花道の姿をじっと見つめていた。やがてバイトの時間が刻々と迫り──洋平は扉に預けていた体をゆっくりと起こす。

「じゃ、晴子ちゃんそろそろ行くね」
「うん、洋平くん!バイト頑張ってね!」

体育館を後にし、脇道をゆっくりとした足取りで歩く。部活に入っていない生徒達の帰宅ピークが過ぎたのか、駐輪場に止めてある自転車の数は随分と減っていた。細く長い脇道を抜けて正門前の広場に躍り出ると、昇降口から出てきたばかりの波琉とばったり鉢合わせした。「あっ」と2人の声が重なる。昼休みの出来事が脳裏に浮かんだ洋平は気まずそうに人差し指でぽりぽりと頬を掻くが、一方の波琉はにこやかな表情を浮かべながら洋平に近づいてきた。

「今、帰りなの?」
「え、ああ、バスケ部の練習をちょっとだけ見てたからさ。で、これからバイト。神坂さんは?」
「先生からちょっとした雑用を頼まれちゃってて、今から帰るところなんだ。あっ、そうだ、もし帰る方向が一緒なら途中まで帰らない?わたしは駅の方なんだけど……」
「……あー、うん、いいよ。オレもそっち方向だし」

どちらともなく歩き出した洋平と波琉は横並びになって正門をくぐり抜けた。こうして2人きりになるのも話をするのも波琉に想いを告げられた時以来だった。洋平は平然を装いながら隣の波琉を盗み見る。歩く度に揺れるさらさらした髪、僅かに赤みを帯びた柔らかそうな頬──。思わず、触れてみたい、なんて馬鹿な考えがぎって洋平はかぶりを振る。

「桜木くん、バスケット頑張ってるみたいだね」
「え?あ、ああ、そうだな」

突然の、波琉の声に洋平は慌てて視線を波琉から前方に向ける。

「すごいよね、バスケットの経験者じゃないんでしょ?」
「ドがつくほどの素人だよ、花道は。でも花道の異常な成長っぷりに俺もみんなもかなり驚いてる」

そこから花道のことやバスケ部のことで話が盛り上がるが、やがて尻すぼみに話題が尽きてしまい、とうとう気まずい沈黙だけが残った。聞こえるのは歩幅の違う足音。沈黙が痛い。何か会話が続くような新たな話題がないかと思考に耽っていると、ふと波琉が十字路の直前で立ち止まった。

「あ、ごめん。わたしこっちだから……」

波琉が指差したのは洋平の帰路とは反対方向の道。もうここでお別れなのかと少し残念に思う気持ちが心に滲み──とある言葉が不意に口をついて零れ落ちた。

「あのさ、今日は……ごめん」
「え?」
「昼休み、食堂で。オレ、神坂さんと目が合ったのに無視したから」
「無視だなんて、そんな」
「けど──」
「大丈夫大丈夫!わたし全然気にしてないから!」
「そっか、良かった」
「……じゃあ、あの、また明日ね。水戸くんバイト頑張って」

洋平に背を向けた波琉はたんたんと歩き始める。洋平はその場に佇んだまま波琉の背中が遠ざかっていくのを見つめていたが──ふと何を思ったのか、波琉の背中を足早に追いかけた。

「神坂さん!」

閑静な住宅街に洋平の声が響き渡る。その声に驚いて振り返った波琉の髪がふわりと広がった。大きく開かれた黒目がちな波琉の瞳を見て、心臓が騒ぎ出す。

「……水戸、くん?」
「あのさ……」

波琉を前に口から零れた声は呆れる程掠れていて、なんだか自分らしくない。

「今度の日曜ってさ、空いてる?」
「え?日曜?あ、空いてるけど……」
「じゃあさ、オレと一緒にバスケ部の試合観に行かない?」
「え?」
「昼から学校で練習試合をやるみたいなんだけど、どうかな?花道も自分を応援してくれる人がいればいる程、燃えるっていうか。喜ぶと思うし。あ、いや、高宮達も一緒だからそれでも良ければ……なんだけど」

ごちゃごちゃと沸き立つ頭の中から必死に言葉を拾い上げていると、目の前でぽかんと呆気に取られていた波琉が口元に手を当てて破顔した。

「うん、お邪魔じゃなければ。一度、桜木くんの活躍してるところ見てみたいって思ってたんだ」

綻んだ顔が自分に向けられたのはこれで三度目。ビリっとした痛みに似た衝動が全身を突き抜けたような気がした。

「水戸くん?」
「……っ、あ、じゃあ時間はまた連絡する。あと高宮達にも神坂さんのことは伝えとくから」
「分かった。日曜日楽しみにしてるね」
「ああ、うん。じゃあ急に引き止めてごめんね。また明日」

早口で一気にまくし立て、洋平はくるりと踵を返すと来た道を足早に戻る。十字路を曲がるとすぐに立ち止まり、崩れ落ちるかのようにしゃがみ込んだ。

「あー……なんだこれ」

口元を右手で押さえて独りごちる。どくどくと暴れ続ける鼓動の落ち着きを取り戻すために洋平は一度大きく息を吐き出した。──波琉にいだき始めたこの想いの正体を洋平がはっきりと自覚するのはもう少し先の話。



title by カカリア
20171230

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