わたしには憧れのヒーローがいる。
7年前、とある事件に巻き込まれたわたしを助けてくれた──。
事件の記憶はぼんやりとしか覚えていない。けれど、「大丈夫だ」と囁いてくれた低く優しい声と頭を撫でてくれた手のぬくもり、そして大きくて逞しい背中だけは今でも鮮明に覚えている。その人の名前は分からない。だが、その事件をきっかけに波琉は自分も誰かにとってのヒーローになりたい、と同じ警察の道を志したのだった。


「はあ〜、やっと終わった〜」

先週から大なり小なり事件が続いていた。そのせいで溜め込んでいた報告書の処理をし続けて、かれこれ数時間。長時間のデスクワークで凝り固まった肩を解すように、手を上に伸ばして上体を後ろへ逸らす。念願叶って、交番勤務から刑事課に異動して約数ヶ月。交番勤務以上の過酷な業務にもようやく慣れてきた。現場捜査から報告書の作成、資料保管の整理などの雑務、そして──何故か、肩コリ持ちの課長の肩もみまで。個性的な上司達に振り回されながらも波琉は充実した日々を過ごしていた。だが、事件に巻き込まれた自分を助けてくれたヒーローには未だ会えていない。名前が分からない以上、何処に所属している刑事なのか知り得るはずもないのだが……。
ぐう、と小さくおなかが鳴り、時計に視線を移すと針はお昼を少々過ぎたところ。──今日の業務は、今のところデスクワークのみ。何もないことはいいことだ、と窓から吹き寄せる風を感じる。乱雑に置かれた書類の山を整理し、デスクに弁当を広げようとしたとき、刑事課のドアが荒々しく開かれた。

「波琉クン!事件ッスよ!急いで現場に行くッス!」

現れたのは波琉の直属の上司、糸鋸刑事だった。──ああ、折角のお昼ご飯が……!何て間の悪い!波琉はデスクの上に広げかけた弁当を急いで片付けると、非常食用にと常備していたゼリー飲料を手に取り、刑事課の部屋を出た。


現場は車で約20分程にある、閑静な高級住宅街の一角。現場へ到着すると、警察局の刑事と鑑識が既に初動捜査を始めていた。事件が事件だけに警察局との合同捜査となったらしく、一課の刑事達と共に捜査を進める。一課の刑事に詳しい話を聞くと、被害者はこの辺り一帯の地主の一人息子で、学校からの帰宅途中に連れ去られたようだ。誘拐犯と名乗る男から電話があったが、身代金などの要求はなかったとのこと。

「早速聞き込みに行くッスよ!」
「は、はい!」

糸鋸の後を追い、現場周辺の聞き込み調査へと向かった。




現場での捜査を終えて一旦署へ戻ると、誘拐事件の特別捜査本部が所轄署内の会議室で既に開かれていた。だが、いつにも増して大勢の人々が忙しなく出入りを繰り返している。いったいどうしたのか、と糸鋸の方を見ると彼もこの状況がイマイチ掴めていない様子。──ふと、捜査本部から波琉達の所属する刑事課の課長が出てくるのが見えた。課長と視線がぶつかる。その瞬間、課長はものすごい勢いでこちらへと向かってきた。

「ちょうどいいところに帰ってきたな!オマエ達!俺について来い!」

そう言われた2人は課長の後を追い、今来た道を戻る。

「今しがた、このヤマは国際警察のロウ捜査官が陣頭指揮を執ることになったんだ」
「国際警察!?」

──ロウ捜査官。27歳という若さで、国際警察一の検挙率を誇るエリート捜査官だ。そんな国際警察の人間が何故、この誘拐事件の陣頭指揮を?

「なんであのアノ人が来るッスか!」
「俺にも分からん!ただ、このヤマは簡単には解決しないってことだ」

課長に連れられてやって来たのは総務課の部屋だった。狼が到着するまでに部下を含めた101人分の捜査資料を追加で用意しなければいけないらしく、総務課総出で慌ただしく作業が行われていた。ただ、お茶汲みや捜査本部の拡張作業にも人員が割かれているため、資料作成チームは人手不足に陥っていた。このままでは間に合わないとのことで、刑事課である波琉と糸鋸が駆り出されることになったのだが。
──まるで戦争だ、と波琉は思った。ガコンガコン、とコピー機が過重労働させられている。もしもこの子が壊れてしまったら、狼はポケットマネーで修理してくれたりするのだろうか……。そんなことを考えながら波琉は総務課の指示の下、ホッチキスを手に黙々と資料を綴じていくのだった。
そうしてなんとか用意した101人分の追加資料を急いで捜査本部へ持っていき、綺麗に並べられた長机に4部ずつ資料を置いていく。

「ロウ捜査官が到着されたぞ!」

その声で作業していた全員の手が止まる。皆の視線の先、変わった形のサングラスをかけ、金の龍の刺繍が施された厳ついジャケットを羽織った男──狼士龍が本部長と二言三言言葉を交わしながらやって来る。27歳とは思えないその威厳たるや。自然と背筋が伸びる。

「ロウ捜査官!ご無沙汰してるッス!」

ビシッ、と効果音が入りそうな勢いで糸鋸が敬礼をする。隣にいた波琉も慌てて後に続く。

「応、あん時は随分世話になったな。──ん?隣のおじょうちゃんは見ねぇ顔だな、新人か?」

流れるような手つきでサングラスを外す。ギラリ、とまるで獲物を狙うオオカミのような鋭い眼光が、波琉の顔を捉える。その瞬間、心臓がきゅっ、と鷲掴みにされる感覚に襲われた。あの時の記憶がぼんやりと浮かぶ。──暗い倉庫に閉じこめられて泣いていた。幼心にもう両親には会えないんだと悟っていた。そんな絶望が支配する闇に一筋の光が差したとき、目の前には大きな男の人がいた。もう大丈夫だ、と優しい声で頭を撫でてくれた温かい手。
ああ、この人こそがわたしの──。全身が武者震いする。高揚する気持ちを必死に留めて、波琉はおなかの底から声を出す。

「は、はい!刑事課の神坂波琉です!」

狼は波琉の顔をまじまじと見ると、片方の口角を上げる。鋭い犬歯がちらり、と現れる。

「……頑張りな。期待してるぜ、おじょうちゃん」
「は、はい!ありがとうございます!」

颯爽と通り過ぎていく狼の後ろ姿を、波琉は力強い眼差しで見つめる。あの頃と変わらない大きくて逞しい背中に、必ず追いつきます、と誓いを立てたのだった。



title by へそ
20160522

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