次のテリトリーバトルのことで一度打ち合わせをしたいとの連絡を受け、理鶯は久々に左馬刻の事務所を訪れていた。そのまま応接室に通されるも、いつも一番乗りの銃兎はおろか、ここの主である左馬刻の姿さえない。珍しく小官が一番乗りか、と思いながら重厚な黒革のソファーに体を沈みこませると、左馬刻の舎弟の1人がお茶を持って応接室に入ってきた。

「毒島さん、すみません。兄貴は少し野暮用で外出しています。時機に戻って来るかと思いますので、少々お待ちください」
「ああ、構わない」

目の前に出されたお茶に手を伸ばしながら答えると、舎弟はビシッと頭を下げて応接室を出て行く。扉が閉められ、再び1人きりになると理鶯はゆっくりとお茶を啜り始めた。ホッと一息ついていると突然、何処からか振動音が聞こえてきた。職業柄、音に敏感な理鶯は瞬時に耳を澄まして微かに聞こえる振動音の在り処を探る。

「む?」

キョロキョロと辺りを見渡していると、ローテーブルの下に見慣れた黒のケースに身を包んだスマートフォンが落ちているのを見つけた。「左馬刻のものか……?」と独りごちた理鶯はスマホを拾い上げてディスプレイに表示された名前を見る。

「神坂……波琉……」

名前を呟くと、手の中で震えていたスマホの振動が止んで、画面が切り替わる。ディスプレイには波琉という人物からの着信履歴が何件も表示されていた。自分が来訪するよりも前から何度も電話を掛けているようだ。もしかしたらこの人物は左馬刻に急用があるのかもしれない、その考えに辿り着くと、タイミング良くもう一度手の中のスマホが震えた。左馬刻には悪いが、ここは──。

「もしも──」
『あー、やっと出た!ちょっと、さっきからずっと電話かけてたのに!!』
「……すまない、小官は左馬刻ではない。毒島メイソン理鶯と言う者だ」
『毒島、さん?……え、あ、もしかして左馬刻とチームを組んでいる……?』
「そうだ。今、左馬刻の事務所にいるのだが、左馬刻はスマートフォンを忘れて少し外出している。小官は貴女からの着信が何度もあったのを見てこうして電話に出た次第だ」

理鶯のその説明に電話の向こう側でハッと息を呑む音がした。と同時に最初にあった威勢の良さが尻すぼみに萎んでいく気配を感じる。

『あ、あー……その、私は神坂波琉と言います。すみません、いきなり声を荒げてしまっ、て』
「いや、構わない。……むしろ小官の方こそ、早く貴女に左馬刻の不在を報せれば良かった。左馬刻に急用があったのだろう?」
『い、いえ!大丈夫ですよ!それに悪いのはスマホを忘れた左馬刻ですから!』
「そうか。だが、左馬刻がいつ戻ってくるのか小官にも分からない。良ければ何か言伝を預かろうか?」
『あ、でも……』
「遠慮なく言ってくれ」
『では、あの……早急に折り返ししてほしいとだけ』
「ああ、心得た」
『お気遣い、ありがとうございます。電話をわざわざ取ってくださるだけでなく、言伝まで。毒島さんってとても律儀でお優しい方なんですね。お手数おかけしますが、左馬刻によろしくお願いします』

ぷつりと通話が切れ、理鶯はゆっくりとスマホを耳から離す。そして何を思ったのか、理鶯は微動だにしないまま──左馬刻のスマホをしばらくの間じっと見つめていた。やがて静かだった扉の向こうが妙に騒がしくなってきたのを感じ取り、理鶯はパッと顔を上げる。ドタドタと床を踏み鳴らす音が近づいてきて──ガチャリと乱暴に扉が開く。現れたのは何やら若干イライラした様子の左馬刻と、何処か呆れた表情をした銃兎だった。

「おや、理鶯来ていたのですか?早いですね。お待たせして申し訳ありません」
「いや、構わない。それよりも左馬刻、テーブルの下にスマートフォンが落ちていたぞ」

手に持っていたスマホを差し出すと、左馬刻の顔が途端に苦虫を噛み潰したような表情に変わる。

「やはり、ここにありましたか。ったく、俺の言った通りだっただろうが」
「チッ、うるせぇな……。すまねぇ、ありがとよ」
「いや、小官は左馬刻に謝らなければならない。波琉という女性から着信があったのだが、左馬刻に急用かと思いつい電話に出てしまった」
「あ?おう、そうか。──って、クソほど掛けてきてるじゃねぇかよ気持ち悪りぃ」
「それから、早急に折り返ししてほしいと彼女から言伝を預かっている」

理鶯から言伝を聞いた左馬刻は咥えていた煙草をローテーブルにある灰皿に押し付けると、新しい煙草を取り出して火をつける。ふーっと煙を吸い込んで深く吐き出すと「……悪い、電話してくる」と踵を返して応接室を出た。バタンと扉が閉まると理鶯は目線を銃兎に移し、頭に浮かんだ疑問を口にする。

「銃兎、波琉という女性は左馬刻の恋人なのか?」
「まさか……波琉さんは左馬刻の昔馴染みですよ。左馬刻曰く、腐れ縁だとか」
「銃兎は彼女に会ったことが?」
「ええ、何度か。と言っても、理鶯がチームに加わる前の話ですがね」
「む。そうか」

電話越しに聞こえた彼女の玲瓏で、柔らかな声を思い出す。──と、何故か胸の奥がちくりと疼いた。理鶯はその微かな痛みに違和感を感じて小さく首を傾げた。
滞りなく打ち合わせが終わると、理鶯は高層ビル群が聳え立つヨコハマ・ディビジョンの中心地から外れた森に帰り、普段のサバイバル生活に戻る。しかし、ふと気がつけば理鶯は会ったこともない波琉ことばかり考えてしまっていた。良い食材になる獲物をハントした時もその獲物を捌いて調理している時も日課のトレーニングをこなしている時も耳元に波琉の声がこびりついて離れなかった。電話越しの玲瓏とした声色に、一体どんな人物なのだろうかと想像を膨らませる日々。それだけではない、胸の内にある蟠りも日増しに大きくなっていくばかり。この胸に巣食うものは一体何なのか、理鶯はこの蟠りの正体に心当たりがなかった。もしもこれが病気ならば──テリトリーバトルを目前にして左馬刻と銃兎に多大な迷惑を掛けてしまうことになる。

「……まずは2人には相談した方が良いだろう」

理鶯はいつでも連絡が取れるように、と2人から渡されたスマホを使ってメッセージを送った。

《相談したいことがある。会えないだろうか》

滅多に連絡を寄越さない理鶯からのメッセージを受け取った左馬刻と銃兎はそこはかとない不穏な気を感じて、すぐさまスケジュールを調整し、左馬刻の事務所で会う約束を取り付けた。
そしてその5日後。黒革のソファーに姿勢正しく座り、膝の上で拳を握りしめた理鶯の神妙な面持ちを前にして、2人は理鶯からどれほど大きな相談事を持ちかけられるのかと斜に構える。

「実は──」

理鶯の口が開いたと同時に、左馬刻と銃兎は唾を飲み込む。だが、想像していた以上に理鶯の相談事は単純でいて──そして明解だった。

「──それ以来、彼女の声が耳から離れない。それだけではなく、何故か胸の奥が痛むのだ。……これは何か、病気の兆候なのだろうか?」

応接室に長い長い沈黙が流れる。左馬刻と銃兎は理鶯の告白に口をあんぐりと開けながら固まっていたが、やがて左馬刻が指に挟んでいた煙草がじんわりと焼けて──。

「あっづ!!!!」

膝元にぽとりと落ちた灰の熱さで左馬刻は我に返り、

「いきなりデケェ声を出すんじゃねぇよ!!クソボケ!!!」

と、銃兎は左馬刻の声で我に返る。「あ?やんのかコラ」と左馬刻が言い返したのを機に、いつもの小競り合いに発展するかと思いきや、頭にハテナマークを浮かべたままの理鶯に調子を狂わされ、左馬刻と銃兎は瞬きを繰り返して顔を見合わせる。まさか、28にもなってこんな単純な答えを出せないのか?……いや、理鶯ならあり得るかもしれない。軍人として生き、軍を解体された今もなお、軍の復活を信じてストイックにサバイバル生活を送る──身も心も軍に捧げた理鶯ならば、そっち方面の感情に対してとてつもなく疎いことなど。

「おい、これどうすんだよ」
「手っ取り早く、彼女に会わせてみればいいんじゃないか?」

銃兎が左馬刻を小突く。まるで理鶯と波琉の仲を取り持てと言わんばかりに。左馬刻はクソめんどくせぇことに俺様を巻き込むんじゃねぇと一蹴してしまいたかったが、理鶯のあまりにも真っ直ぐな瞳を前にすると、そんな毒を吐き捨てることなど到底できなかった。左馬刻は唸り声を絞り出すと、観念したようにガシガシと自分の後頭部を掻き乱して、壁に掛けられた時計を見やった。

「……もう昼時か、ちょっとアイツに電話掛けてみっか」

電話帳から波琉の電話番号を出して数字の羅列をタップする。1コール、2コール、3コールが鳴ったところで電話が繋がる。

『もしもし?』
「あー、オレだ。あのよ……」

テメェ、いつ暇だ?と単刀直入に聞こうと口を開きかけたところで、左馬刻は銃兎からもう一度肘鉄砲を食らう。

「んだよ……っ!」
「左馬刻、今すぐ通話をスピーカーに切り替えろ」
「あ?」

前を見てみろ、と言わんばかりのアイコンタクトを受け、左馬刻は銃兎から理鶯に目を向ける。顔にこそ出ていないものの、何処かそわそわしたようにも見える理鶯の姿に、左馬刻は柄にもなく狼狽えてしまった。

『ちょっと、左馬刻?』

波琉の怪訝そうに自分を呼ぶ声にハッとした左馬刻は慌ててスピーカーに切り替えて、スマホをテーブルに置く。

「あ、あー……あのよ、お前、理鶯って覚えてるか?」
『毒島さん?うん、覚えてるよ』
「おう、それでその理鶯がこの前のことでテメェに詫び入れたいんだとよ」
『え?別に気にしてない……というか、毒島さんは悪くないのに。というか、むしろスマホを落としたバカ刻≠ェ悪いんじゃない』
「んだと、もっぺん言ってみろ……ってイッテェ!!」
「落ち着け、左馬刻。全てはお前に掛かってんだぞ……!」

テメェは一体何を張り切ってやがんだ──。銃兎の必死の形相に左馬刻は吐き出しそうになった激情を飲み干して、ぐっと堪える。

「チッ、あー……その、理鶯が詫び入れなきゃ気がすまねぇって言ってんだよ。直接会ってやってくれねぇか」
『うーん、毒島さんがそこまで言うなら……分かった。ちょっと待って、スケジュール確認するから』

スマホの向こうでがさごそと音がしたかと思えば、程なくしてペラペラと紙を捲る音が聞こえてくる。きっと手帳を見ているのだろう──3人は波琉の返答をただ静かに待った。

『ちょっと日が遠くなるんだけど、来週の土曜日とかどうかな?』

左馬刻は理鶯を見る。理鶯は問題ないと何度も首を縦に振った。

「んじゃ、そこ空けとけや。理鶯には俺様から言っておいてやるから、昼過ぎに事務所来いや」
『うん、分かった』

通話が終了すると、理鶯はすくっとソファーから立ち上がり「恩に着る」と応接室を出て行こうとする。

「おい理鶯、何処行くつもりだ」
「彼女に馳走を用意せねば。極上の食材を手に入れるために今から罠を張って──」
「理鶯、メシのことなら気にすんな」
「理鶯、貴方の料理を彼女に振る舞うのはもっと親しい仲になってからにしましょう」
「……そうか」

心なしかしゅんと項垂れる理鶯を宥めながら、左馬刻と銃兎は奇しくも同じことを考える。──初対面からいきなりサバイバル料理はやべーだろ、と。




理鶯にとって約束の土曜日までの時間はとてつもなく長く感じられた。
ようやく待った土曜日、朝早くに目覚めた理鶯は日課のトレーニングをこなしたり、ベースキャンプの近辺に仕掛けておいた幾つかの罠の様子を窺っては、約束の時間が近づいてくるのを待とうとする。しかし、ざわざわと急き立てる心を抑えきれず、理鶯は早くにベースキャンプを後にしてヨコハマの都心部に繰り出た。左馬刻の事務所を訪れると、またしても自分が一番乗りで、理鶯は「朝早くにすまないな」と詫びを入れて応接室へ通してもらう。出されたお茶には目もくれず、理鶯はひたすら窓から見える景色を眺めていた。──そして約30分後に左馬刻が、更にその1時間後には夜勤明けの銃兎がやって来て、まだお昼にもなっていないというのに理鶯達3人は出揃ってしまった。時計の針が少しずつ進むのを何度も確認しながら、3人とも黙りこくったままひたすら時間を潰す。理鶯は景色を食い入るように見つめているかと思いきや、窓の外から聞こえる音に反応しては階下を覗き込んだりと落ち着かない様子で応接室をウロウロとしていた。また、そんならしくない理鶯に引っ張られて左馬刻と銃兎の2人もいつもより煙草を吸うペースが早くなっていた。
そうしてお昼を少し回った時のことだった。扉を軽くノックする音が重苦しい応接室の静寂を切り裂いた。窓から見える青空に目を向けていた理鶯は咄嗟に振り返る。扉をじっと見つめていると、ゆっくりと開かれた扉の隙間からひょっこりと1人の女性が姿を現した。

「こんにちはー」

その声に理鶯は目を見開く。彼女が電話でやり取りした神坂波琉その人か──。電話越しの彼女と頭の中で思い描いていた彼女の姿が見事に重なった。黒目がちな瞳と目が合った瞬間、理鶯は考えるよりも先に立ち上がって波琉の元に歩いていく。そして扉の前でたじろぐ波琉の右手を反射的に手に取った。──華奢で、小さく、それでいてとても愛らしい手だと思った。

「ああ、やはり貴女は小官が想像していた通りの美しさだ」
「え?え?あの、毒島さんで──」
「理鶯」
「はい?」
「理鶯、と呼んでほしい。……ダメだろうか?」
「り、理鶯……さん」

戸惑いがちな声色でぽつりと零れ落ちた自分自身の名前。直接耳に届いた彼女の甘美な声に脳髄を揺さぶられる。普段から下の名前など呼ばれ慣れているというのに、彼女に呼ばれただけでこれほどまでに『特別』だと感じるのか。なるほど、この胸の蟠りの正体は、この気持ちはきっと──。理鶯は胸が熱くなった。もっと、彼女に名前を呼んでほしい。

「ああ、なんて素敵な響きなのだろうか。貴女のその声で名前を呼ばれるのは、とても心地が良い」
「ちょっと、理鶯、さん……!?」
「小官は貴女のことをもっと知りたいと思う。小官に貴女のことを教えてはくれないだろうか?」


あなたの声に恋慕した


『理鶯がこの前のことでテメェに詫び入れたいんだとよ』

そんな連絡をもらって、波琉は久々に左馬刻の事務所を訪れる。こちらが(元はと言えば左馬刻が)悪いはずなのに詫びをしたいとはなんて律儀な人なのだろうか。申し訳なさそうに謝り、そして伝言を預かろうと言ってくれたあのバリトンボイスを思い出す。──左馬刻から新しいチームのメンバーに元海軍の人間を入れたということは以前から聞いていた。元軍人、しかもハーフということで、なかなかに屈強で怖い人かもしれないという少しの偏見を持っていた波琉だったが、用があって左馬刻に電話を掛けたあの日、偶然にも波琉は理鶯の声を聞いた。鼓膜を震わす低い声はとても心地が良くて、なんて穏やかな口調で話す人なのだろうと印象ががらりと変わった。それから数週間、波琉はそんな彼と初めて顔を合わせる。約束の時間に事務所を訪れると「すでにお越しになられています」と舎弟の1人に声を掛けられて波琉はドキッとした。どうやら心なしか緊張してしまっているらしい。心の中で苦笑いを零しつつ、礼を言ってから奥の応接室へと向かう。入室する前に深呼吸を一つ、逸る心を落ち着かせた。

「こんにちはー」

ノックを2回してから応接室に入ると、馴染みの左馬刻と久々に顔を合わせる銃兎、そして初めて顔を見る男性の3人がソファーに座っていた。全身をミリタリー柄で揃えた彼が毒島メイソン理鶯その人だと思った。左馬刻や銃兎とはまた違う──欧米の血が入った彫りの深い造形に見惚れていると、理鶯の静寂な海の色をした瞳が揺らめいたような気がした。綺麗な瞳だと思ったのも束の間、いきなりソファーから立ち上がった理鶯がずんずんと近づいてくる。──え、いきなり何?というか、思っていたよりもでかい!威圧感がすごい!などと理鶯の突拍子も無い行動に扉の前でたじろいでいると、するりと右手を取られてしまった。優しく、しかしそれでいてしっかりと握ってくる理鶯の手は熱を帯びている。

「ああ、やはり貴女は小官が想像していた通りの美しさだ」
「え?え?あの、毒島さんで──」
「理鶯」
「……はい?」
「理鶯、と呼んでほしい。……ダメだろうか?」

低い声、図体の大きさに反して理鶯の瞳はまるで少年のようにキラキラと輝いていた。そんな純粋で、それでいてまばゆい眼差しを向けられてしまったら、NOと強く抵抗できるはずもなく──。

「り、理鶯……さん」
「ああ、なんて素敵な響きなのだろうか。貴女のその声で名前を呼ばれるのは、とても心地が良い」
「ちょっと、理鶯、さん……!?」
「小官は貴女のことをもっと知りたいと思う。小官に貴女のことを教えてはくれないだろうか?」

容赦なく浴びせられるストレートな言葉の弾丸に、波琉はだんだんと羞恥で顔に熱が集まっていくのを感じた。このままでは心臓が持たない!と、波琉は理鶯の背後に目線を移して煙草をふかしている左馬刻に助けを求める。しかし、左馬刻は観念しろや、と言いたげな表情を浮かべ、煙草の煙を上に向かって吐き出すだけだった。



title by るるる
20181003

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