※『やさしい温度に侵されて』のバンジークス視点、続き
主催者と旧知の仲だと言うヴォルテックスから直接招待状を手渡された手前、二つ返事で参加せざるを得なかった仮面舞踏会。
興が乗らないバロックは舞踏会が始まるや否や、挨拶や会話もそこそこに1人壁際に寄った。顔の片側だけを覆う仮面、意識的に醸し出している話しかけづらい雰囲気、そして《死神》という異名も相まって、バロックに近寄ろうとする物好きは誰一人いない。小さく息を吐き出し、しばらく瞑目していると突然、女性の短い悲鳴が聞こえ、バロックは閉じていた瞼を持ち上げて周りを見渡した。一瞬にして静まり返った空間、招待客の視線がある一点に注がれている。そこには派手に倒れ込んだ1人の女性の姿があった。何処からともなく聞こえてくるせせら笑いに、頭で考えるよりも先に体が動く。棒立ちになったままの人々の合間を縫って、バロックは倒れ込んだまま動かない彼女にすっと手を差し出した。
「……お手を」
「あ、ありがとうござ──」
視線がぶつかった瞬間、仮面の奥に見える彼女の目が大きく見開かれた。驚きと戸惑いの色を瞳に乗せた彼女はこちらを凝視したまま、動かない。──差し出した手をなかなか取ってくれない彼女に、痺れを切らしたバロックはゆっくりと口を開く。
「……私の顔に何か?」
そう問いかけると、彼女の声が驚きに跳ねる。
「……い、いえっ!」
「ならば、手を。いつまで床に伏しているのは如何なものかと」
「あ……そうで、ございますわね。大変、申し訳ありません」
おずおずと掌に置かれた手を引いて立ち上がらせると、彼女は覚束ない足取りで体勢を立て直した。
「何処か、痛いところは」
「い、いえ……特にありませんわ。お助けいただき誠にありがとうございます」
「それでは私はこれで──」と、早口で捲し立てた彼女が踵を返そうとした瞬間、新たに始まった交響楽団の演奏が会場内を一気に包み込んだ。耳朶に触れる心地の良い円舞曲の旋律にバロックの口が無意識に開く。興が乗らない、などと思っていたはずなのに。
「これも何かの縁。よろしければこの1曲、ご一緒願えないだろうか」
「も、申し訳ございませんが、私……その、恥ずかしながらダンスは不得手ですの」
「……基本的なステップでも構わないが」
「え、ええ、基本中の基本であれば……」
「ならば、貴女は私のリードに身を任せていればいい」
視線を彷徨わせ、迷いに迷っていた彼女の手が再び《死神》の手を取った。驚きと戸惑いに溢れながらも彼女は自分を拒もうとしない。不思議な女性だ、とバロックはエスコートしながら漠然と思った。彼女の華奢な体を引き寄せて腰に手を添えると、彼女が僅かに強張る。
「力を抜いて、私に身を委ねるのだ」
できるだけ優しい声色を出すようにつとめ、バロックは音楽に合わせて足を動かし始める。ゆったりとした曲調の円舞曲、基本的なステップにもかかわらず、彼女の動きは誤って足を踏まないようにと神経を尖らせているせいか、何処か拙い。その、あまりに懸命な姿を前にして、バロックは思わず口元を緩めてしまった。すると、今まで俯いていた彼女の顔がハッと上がり、再び視線が交わる。この眼差し、何処かで──。一瞬、そんなことが頭を過った。
「貴女はここにいる者達とは、少し違う色のようだ」
彼女は上流階級の身とは思えない程、雰囲気から何から全くもって周りと違うように感じられた。ぽつりと零れ落ちた言葉に彼女は曖昧に笑う。
「だが……よもやこの私の手を取ってくれるとは、な」
「え?」
「いや……ただの独り言だ」
ふいに会話が途切れた。互いに次の言葉を発することなく、円舞曲を踊り続ける。そうして彼女のステップがようやく板についてきた頃、円舞曲の演奏が終わりを告げた。繋いでいた手をゆっくりと離し、始まりと同じように礼をすると、彼女ともう一度視線がぶつかる。だが、驚きでも戸惑いでもない──今までと違う色を乗せたその眼差しに、どういうわけか胸が詰まった。
「──何処かで、私と会ったことはないだろうか」
思わず口をついて出た言葉に彼女は一瞬表情を固くするも、すぐに柔和な笑みを浮かべる。
「それは他人の空似というものでございましょう。今宵は仮面舞踏会でございます。貴方も……そして私も何者でもありませんわ」
「──そうであったな。……不躾なことを聞いた無礼、お許し願いたい」
その後、彼女は少し人に酔ったと会場を後にし、そして二度と戻ってくることはなかった。
素顔も名前も身分さえも隠した、何者でもない姿での出会いは夢まぼろしに過ぎない。あの日出会った彼女とはほとんど言葉を交わすことなく、たった1曲、円舞曲を踊った──それだけの関係。しかし、あの時あの瞬間、仮面越しに見た彼女の眼差しをバロックは片時も忘れることができなかった。彼女のことを考える度にひどく騒つきを覚える心は徐々に変化していき──バロックは彼女をジェーン≠ニ仮称し、見つけ出すことを決めた。《死神》の手を取ってくれた彼女と仮面という壁を取り払って相見えたいと、柄にもなく思ってしまったからだ。
バロックはあの日の出来事を思い返す。ジェーン≠フ立ち振る舞いは完璧に体に叩き込まれていた反面、まだ馴染んでいないようにも見えた。ダンスはもちろん、礼一つとっても動きを確かめるようにしていて、ぎこちなさが垣間見えた。ジェーン≠ヘ社交界デビューをしたばかりの女性か──。そう推測を立てたバロックはまるで人が変わったように、今まで頑なに断ってきた社交の場に積極的に出席するようになった。手がかりという手がかりはなく、記憶に残る面影を頼りに無我夢中でジェーン≠探し続けた。だが、どれだけ背丈や雰囲気が似ている女性を見つけようとも、あの眼差しを持つ者は誰一人としていなかった。
やがて、あのバロック・バンジークスが女性を探しているとの噂が広まった。ある者はうら若き令嬢を探していると言い、ある者は未亡人、更には既婚女性との禁断の恋ではないかと、あらぬことまで囁かれたが、バロックはどれだけ誇張された噂が出回ろうと意に介さなかった。バロックの胸中にあったのは、ジェーン≠フことだけ。しかし、バロックの予想に反してジェーン≠ニ思しき人物は一向に見つからない。まるでジェーン≠ヘ初めからこの世に存在しない《幻影》だと言わんばかりに。ジェーン≠ニは一体何者なのか。考えれば考える程、深みに嵌っていくような気がした。──そうして、有力な手がかりを何一つ掴めないまま一月が経とうとしていた。
裁判を終え、執務室へ戻ってくるとバロックが愛用する仕事机の椅子に、ある男が我が物顔で座っていた。机を挟んで男の前に立つと、バロックは眉を寄せて男を見下ろす。
「やあ、《死神》クン。随分と遅かったじゃないか!何処をほっつき歩いていたんだい?」
「《名探偵》ともあろう者が、不法侵入か?こんなところに何の用だ」
「中央刑事裁判所の《死神》とも言われるキミが女性を探している……なんて妙な噂を聞きつけたものだから──」
「結構だ」
その先に続くであろう言葉を予測したバロックは遮り、そしてホームズを睨みつける。
「探している女性というのは、さしづめ仮面舞踏会の淑女かな?」
囁かれた言葉に衝撃が走る。ホームズはバロックの心を見透かしたかのように意味ありげに笑っていた。まさか、ジェーン≠フ正体を──?バロックは掻き乱されそうになる心をなんとか押し留める。
「──それ以上の無駄口を叩くのであれば、貴公によくお似合いの宿を特別に1泊用意するが?」
「……おっと、それはエンリョしておくよ。我が家で待ってくれているアイリスが悲しんでしまうからね」
ホームズは立ち上がるや否や鹿打ち帽のつばを軽く弾き、右手をくるりと回して恭しく礼をした。
「断られてしまった以上、そろそろ帰るとするよ。こう見えて、ボクは忙しいからね!──ああ、そうだ、キミに探し物をする時のアドバイスを一つ。『最も暗いのは燭台の下である』……キミの探し人は、案外近くにいるかもしれない」
「なに……?」
「ボクから言えるのはこれだけだ。では、《死神》クン、また会おうじゃないか!ごきげんよう!」
そう言ってホームズは嵐のように執務室から去っていった。騒がしさが一変、いつもの静けさがこの場に戻ってきた。バロックは嘆息を漏らすと、額に手を置いて思案を巡らせる。
「近くにいる……だと……?」
身近にいて、尚且つ関わりのある女性となれば人数は絞られてくる。しかし、彼女達は皆、上流階級の出身ではなかったはずだ。不意に、ある出来事が脳裏を掠める。それは仮面舞踏会の翌日──当時は些末なことだと特に気にも留めていなかったが──現場で偶然出会った監察医のハルの態度に、何処か余所余所しさを感じる瞬間があった。だが、記憶の中の面影とハルの姿は随分とかけ離れ過ぎている。あれは単なる偶然だったのか──とバロックは頭を振った。『最も暗いのは燭台の下である』、それはただ自分をからかいたいがために放った言葉に違いない。
「全く……」
繋いだ手のぬくもりも、引き寄せた体の華奢さも、言葉にできない何かを帯びた瞳も──バロックは今もなお鮮明に覚えている。それなのに、ジェーン≠フことを探せば探す程、まるで深い霧の中に迷い込んでしまったように捉えどころがなくなっていく。
「一体、貴女は何者なのだ」
独りごちた言葉に答えが導き出される日は果たして来るのだろうか。
◇
翌日。バロックはヴォルテックスへ届けなければならない資料を片手に、高等法院へと足を運んでいた。その最上階、首席判事執務室の豪奢な扉を開けると、広々とした空間に似つかわしくない姿を認めた。部屋の両脇に聳え立つ書棚の一角に掛かる梯子の上で、ハルが何やら忙しなく本の出し入れをしている。「ドクター、そこで何をしている」と声を掛けると、ハルは大袈裟に肩を揺らした。
「バンジークス検事!?あ、その、ヴォルテックス卿に報告をしに来たのですが……本棚の並びが気に食わないからついでに並び替えてくれ、と仰せつかりまして……。あの、バンジークス検事こそ何用で……」
「ヴォルテックス卿へ至急渡さなければならない資料があるのだが……して、ヴォルテックス卿は」
「緊急会議とやらで今しがた……」
「そうか。ではここで待たせてもらおう」
「え!?」
「案ずるな。待つことは慣れている。それとも、この場に《死神》がいることに不満でもあるのか?」
「──いえ、そんなことは、ありません……」
「ならば構わぬだろう。私のことは気にせず、そなたはヴォルテックス卿より命じられた仕事に専念するといい」
──沈黙が、流れる。絶えず響き渡る重厚な歯車の音を聴きながら、バロックはちらりとハルの姿を盗み見た。肩口で汗を拭きながら、本の整理に悪戦苦闘しているハルはやはりどう見てもジェーン≠ニは似ても似つかない。やれやれ……と思いながらハルから視線を外そうとした瞬間、分厚い本を勢い良く引き抜いたハルの体が大きく後ろに傾いた。「あっ、」と小さな声が聞こえ、バロックは反射的にハルの元へ駆け出す。背中から落ちてくるハルをすんでのところで抱き留めると、背後で数冊の本が派手に落ちる音がした。
「大丈夫か、」
無事を確かめるために、ハルの顔を覗き込む。至近距離でハルと視線が交わった瞬間、バロックは思わず呼吸をすることを忘れた。似ても似つかないと思っていたはずなのに、驚きで大きく見開かれたハルの瞳が、抱き寄せた体の華奢さが、記憶の中のジェーン≠ニ重なる。まさか──。バロックはハルを抱き留めたまま、しばらく動けずにいた。吸い込まれるようにハルの瞳を凝視していると、戸惑いの色を浮かべた瞳がくるりと揺れた。
「バ、バンジークス……検事……?」
「──ドクター。最近、何処か別の場所で、私と会ったことはないだろうか」
「え!?いや、そ、それは……他人の空似というものでは、ない、ですかね……?」
目を泳がせるハルにバロックは言葉を畳みかける。
「たとえば……仮面舞踏会>氛氈v
「!」
まるで矛盾を指摘された証人のように、あからさまに狼狽え始めたハルを見て、バロックはハッキリとした確証を得た。──間違いない、ハルこそがずっと探し続けていたジェーン≠セと。心が、激しく揺さぶられる。
「す、す、す、す、すみませんッ!その……決して……バンジークス検事を騙そうなどとは思ってなかったんです……ッ!」
みるみるうちに顔が青ざめていくハルは身を捩ると、目にも留まらぬ速さで立ち上がり、扉に向かって走ろうとする。だが、それよりも早くバロックがハルの手を捕らえ、再度自分の腕の中に引き込んだ。
「わ……っ!」
体を強張らせ、たじろぐハルの耳元にバロックはすっと唇を寄せる。
「私は……あの時から、ずっと貴女を探していた」
「え、」
「……また、私と円舞曲を踊ってはくれないだろうか?」
「──っ」
「返答は、今すぐでなくとも構わない」
掴んでいた手を離すと、ハルは俯いたままゆっくり後退りした。
「すみません……!あ、そうじゃなくて……その、えっと。──っ、すみません、ちょっと失礼します……!あ、助けていただき、ありがとうございました……」
更に深く頭を下げたハルは、素早く踵を返すと扉に向かって走り──その向こう側へと消えていった。ゆっくりと扉が閉まりきると、言葉で表すことのできない感覚が胸の内から込み上げてきた。
「まさか、本当に私の近くにいるとは」
ホームズの言葉が頭に浮かぶ。癪に障るが、あの《名探偵》には感謝しなければなるまいとバロックは思った。とはいえ、何故ハルがあの場所にいたのか、そして何故ホームズが探し人は身近にいると知っていたのか。全ての謎が解けたわけではなかったが、それはこれから追求していけばいいだけのこと。バロックにとって重要なことはただ一つ、それは仮面という壁を取り払って相対した今、彼女は彼女として《死神》の手を取ってくれるか否か──。バロックはハルが出て行った扉をいつまでもじっと見つめ続けた。
title by 夜半
20190807 - req boxより『やさしい温度に侵されて』の続編(20190810修正)
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