※大逆2本編後の話
大英帝国への語学留学が決まったことは、ひとえに周りの環境に恵まれていたからだと思う。勉学に理解ある両親はもちろんのこと、家同士で古い付き合いのあった御琴羽悠仁・寿沙都親子、そしてその二人を通じて知り合った弁護士・成歩堂龍ノ介。大英帝国へ留学した十全たる実績を持つ三人からの推薦がなければ、きっと胸に抱いていた夢は手の届かない夢のまた夢で終わっていただろう。
まさに奇跡のような巡り合わせに背中を押され、波琉は約五十日間の長きに渡る船旅を経て、大英帝国の地に降り立った。日本とは異なる空気感に心が震えるのを感じる。知り合いのいない異国の地での生活に、全く不安がないと言えば嘘になるが、それ以上に楽しみだという気持ちが勝っていた。それは出国する前、御琴羽親子や龍ノ介から「英国の地で困ったことがあれば亜双義を頼るといい」と龍ノ介の友人であり──今は倫敦で検事として修行している亜双義一真に話を通してもらったということも大きい。面識の無い留学生の手助けを快く引き受けてくれた亜双義には感謝の一言しかない。──そんな彼から届いた手紙を忍ばせている懐にそっと手を当てた波琉は大帝都・倫敦行きの汽車に乗った。
ヴィクトリア駅に到着し、駅舎を出た波琉の目にまず最初に飛び込んできたのは倫敦の美しい街並みと行き交う人々の熱気だった。文明開化以降、目覚ましい発展を遂げてきた日本の大帝都・東京よりも更に先の時代を走っている倫敦の技術革新の結晶に、たちまち心を奪われてしまう。言葉にできないとはこのことか──と波琉は寿沙都から聞いた倫敦話を思い出した。しかし、ここで長く感慨に耽っている時間はない。よし、と気を引き締めた波琉は駅前に停留している辻馬車を捕まえて、亜双義の待つ検事局へ向かった。
「お客様、検事局に到着いたしました」
「ありがとうございます」
にこやかな笑みを浮かべる御者の手を借りて、歩道に降り立った波琉は再び感嘆の声を上げ、目の前に聳え立つ建物を仔細に眺めた。なんとも見事な石造りの建造物は荘厳な雰囲気を醸し出している。自然と背筋が伸び、どんどん鼓動が逸っていく。「このような場所に亜双義様が……」と独りごちると波琉は大きく深呼吸をして、足を一歩踏み出した。
検事局内はピリッとした空気が張り詰めていて、波琉の緊張感をより一層高ぶらせる。一歩一歩、確かめるように歩を進めていると、エントランスの端に純白の装いに身を包んだ偉丈夫の姿を視界に捉えた。瞬間、目が合う。距離が離れているにもかかわらず、一目見て波琉は『同じ匂いがする』と思った。きっと彼が亜双義一真その人に違いない──波琉はその偉丈夫に向かって歩き出した。同じくしてこちらに向かってくる偉丈夫との距離が数歩程になったところで、歩みが止まる。武士を思わせるような凛とした佇まいはこの異国の地でもハッとさせられる程の威圧感を放っていた。
「……貴女が神坂波琉さん、だろうか?」
「はい。この度、語学留学生として参りました、神坂波琉と申します。以後お見知り置きくださいませ」
「亜双義一真です。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします。長旅でお疲れのところ、ここまでご足労いただき申し訳ありません」
「いえいえ、とんでもございません!おかげさまで倫敦の街並みをしっかりと拝見することができました!」
「それは良かった。──御琴羽教授や成歩堂から神坂さんのことを頼むと仰せつかっていますので、困ったことがあれば遠慮なくオレを頼ってください」
「……ありがとうございます」
初めて出会う亜双義を前に若干緊張していたものの、久しぶりに母国語を聞いて、波琉はほんの少し安心感を覚えた。しばらく亜双義との会話を弾ませていると、ふと、何かに気づいたように亜双義の目線が波琉から逸らされる。
「ちょうど良かった、神坂さんにも彼のことを紹介しておきましょう」
「え?」
「バンジークス卿!」
亜双義の流暢な英国語での呼びかけにつられて振り返ると、そこには亜双義以上に上背のある──まるで夜の静謐さを湛えたような見目麗しい英国人の姿が。亜双義とはまた違った威圧感に波琉は無意識に身構える。すると、波琉の緊張を悟った亜双義が豪快な笑い声を上げた。
「神坂さん、こちらはオレがこの倫敦で師事しているバロック・バンジークス検事です。──バンジークス卿、この方が以前話していた日本からの留学生、神坂波琉さんです」
静謐さを湛えた見目麗しい英国人──バロックがこちらを見やる。日本では見たことのない宝石を思わせるアイスブルーの瞳に思わず引き込まれてしまいそうになる。
「バロック・バンジークスと申す。……遠い極東の日本から大英帝国までよくぞ参られた」
「えっ、あ、はい!ありがとうございます……!私は、その、語学留学生の神坂波琉と申します。以後、お見知り置きくださいませ……!」
波琉の少し上擦った声に亜双義が微笑む。
「バンジークス卿、彼女は成歩堂龍ノ介と御琴羽法務助士と知り合いなのですよ」
「……なるほど、そうであったか」
「は、はい!その縁あって大英帝国に……!」
「──そうか」
今まで真一文字に引き結ばれていたバロックの口元が僅かに綻ぶ。その垣間見えた柔らかな表情に波琉は無意識に魅入ってしまった。
◇
波琉の通う大学は奇しくも高等法院や検事局などが立ち並ぶ地区の近くだったこともあり、亜双義だけでなく、バロックとも自然と親交を深めることとなった。生粋の英国人であり、検事としての気高い威厳を纏ったバロックと会話をすることは緊張の連続だったが、街中で出会う度に様子を気にかけてくれたり、勉強に役立つだろうと色々な書物を貸してくれるバロックの気遣いや優しさに触れるうちに、気がつけば波琉はバロックのことを兄のように慕うようになった。──倫敦での生活は相変わらず目まぐるしい。だが、それ以上に波琉は充実した日々を送っていた。
ようやく生活に落ち着きが見えてきた頃、更なる語学向上のためにと、亜双義に誘われて裁判の傍聴に訪れた。初めて目の当たりにする裁判はまさに圧巻の一言。専門用語を多様する冒頭弁論や尋問、早口で捲し立てる証人達の言葉を聴き漏らすことも多かったが、言葉以上に伝わる真実を追求しようとする弁護士と検事の溢れる《気迫》をひしひしと肌で感じ取った波琉は、以来、のめり込むようにバロックや亜双義が担当する事件を中心に裁判の傍聴に行くようになり──やがて、語学だけではなく法学についての知識も身につけていった。
とある昼下がり。亜双義が担当した裁判の傍聴を終え、波琉は英単語を書き留めたメモを握りしめて大法廷を後にした。裁判所に通い始めた頃と比べると、意味が理解できなかった単語は随分減ったように思われる。──部屋に帰ったら、早速辞書を引いて意味を調べないと。そう思いながら階段を下りてエントランスに向かうと、控室から出てきた亜双義とバロックの二人とばったり出くわした。
「バンジークス卿、亜双義様、こんにちは。本日の裁判もお見事でございました……!」
「ああ、神坂さん、ありがとうございます」
そう言って、亜双義は波琉が手に持っていたメモをちらりと覗いた。
「随分と書き留めが少なくなったのでは?」
「はい、少しずつですが用語も理解できるようになって参りまして。これもひとえにバンジークス卿からお借りした書物のおかげでございます」
「……なるほど、」
亜双義はバロックを一瞥すると、口角を上げる。それが何か含みある笑みに見えて波琉は小さく首を傾げた。
「……それではオレは高等法院への報告もあるので、ここで」
「あ、はい、今日はお疲れ様でございました」
颯爽と去っていく亜双義を見送った後、その場に留まったバロックに視線をやる。すると、バロックは少し気難しそうな表情を浮かべていた。
「あの、バンジークス卿……?」
「──っ、すまない。少しばかり考え事をしていた。……下宿先までお送りしよう」
「あ、はい。いつもお気遣いいただき、ありがとうございます」
バロックの個人馬車に乗り込むと、すぐに馬車は緩やかに走り始めた。カタカタと心地の良い軽やかな音が耳朶に触れる中、波琉は目の前に座るバロックの様子を窺った。バロックはいつもと違うただならぬ雰囲気を纏い、瞑目している。本当は先程の裁判の話を色々と聞きたかった波琉だったが、随分お疲れでいらっしゃるのだろうと、バロックへの声かけはやめることにした。波琉はバロックから視線を外し、流れていく窓の向こうの景色をじっと眺めた。──道なりに走っていた馬車の速度が徐々に落ちていき、ゆっくりと停車する。完全に止まったのを見計らって、波琉は座席から腰を浮かした。
「バンジークス卿、わざわざここまでありがとうございました」
扉に近寄り、ドアノブに手を掛けた瞬間、波琉の動きを封じ込めるかのようにバロックの大きな手がドアノブごと手に覆い被さってきた。身を捩ると、思った以上にバロックの顔がすぐ近くにあって波琉は肩を揺らした。アイスブルーの瞳に射抜かれる。見つめ合うこと数秒──先に口を開いたのはバロックの方だった。
「そなたを、好いている」
あまりにも唐突な言葉に波琉の頭の中は一瞬にして真っ白になる。視線を逸らそうにも逸らせない状況の中、波琉は懸命に頭を働かせた。バロックとはまだ知り合って一年と経っていない。いや、それ以上に自分にとってバロック・バンジークスという人間は兄のような存在だった。だからこそ、彼から告げられた言葉に激しく動揺し──。
「ご、ごめんなさい……」
思わず口をついて出てきた言葉にバロックの顔色が変わった。僅かに哀切を孕んだ表情に胸の奥が抉られたような気がした。違う、私はそんな表情をさせたいわけでは──。
「……不躾なことを申した。そなたはいずれ、日本へ帰らなければならないというのに」
「あっ、その……」
「今のは、忘れてくれ」
「──っ、」
覆い被さっていた手が力無さげに離れていく。がらっと変わってしまった車内の空気に居たたまれなくなった波琉は「……それでは、失礼いたします」と小さく呟いて馬車を降りると、もう一度振り返って礼をすることも忘れて、そのまま下宿の玄関先に向かって走った。
この一件以来、波琉は裁判の傍聴へ赴くことはなく、下宿と大学、そして図書館を往復する日々を淡々と過ごしていた。バロックからずっと借りっぱなしになっている法律関係の書物は未だ波琉の手元。いい加減に返さなくては──そう思いながらも、なかなかバロックの元を訪ねる決心がつかない。波琉はふっと息を吐き出すと、バロックから借りた書物の表紙をそっとなぞった。
次の週末。大学での講義を終え、波琉は乗合馬車に乗って、倫敦散策の折に見つけた古書屋へと足を運んでいた。街角にぽつりと佇む小さな古書屋ではあったが、店主の人柄や店内の雰囲気に惹かれ、ここ最近は時間さえあれば、この店に入り浸るようになっていた。──今日も店内の狭い通路を行ったり来たりしながら本を物色していると、兼ねてから読みたいと探していた本を見つけた。波琉は嬉々として本を手に取ろうとするが、書棚の段が高くて届かない。ぐっと踵を上げて、目一杯手を伸ばしてみても背表紙の下を掠るだけでちっとも取れる気配がなかった。上背のある英国人なら、淑女だろうとこの程度の高さは造作もないかもしれないが、欧州圏と比べると随分小柄な体格の日本人である波琉は梯子を使わなければ手が届かない。しかし、この店唯一の梯子は店主が店の奥で使用しているのか、何処にも見当たらなかった。波琉は溜め息をついて、目当ての本を見上げる。仕方がない、斯くなる上は──と周りに人影がないことを確認すると、思いきり膝を曲げて垂直に飛び上がった。先程よりも上の部分に指先が触れる。心の中で意地でも掴み取りたいという気持ちがむくむくと湧き上がり、波琉は何度も飛び上がった。
「あともう一息……」
しかし、すんでのところで手が届かない。波琉は今までよりももっと脚に力を入れ、ぐっと飛び上がろうとした瞬間、背後から白い革手をはめた腕が伸びてきて、波琉が取ろうと躍起になっていた本をいとも簡単に抜き取っていった。「あっ、」と小さく声が漏れる。
「ご所望の本はこれだろうか」
「え?」
振り返った視線の先、そこにはバロックが立っていた。久方ぶりのバロックを前にして何故か緊張感が湧き上がる。「そ、そうです……」と絞り出した声で返答すると、波琉の眼前にすっと本が差し出された。
「日本の淑女は随分とお転婆な姿を晒すのだな」
「お、お見苦しいところを見せてしまい申し訳ありません……」
「取れないのならば、店主に言って梯子を貸してもらえば良かったものを。──全く、日本人の遠慮というものは理解に苦しむ」
「いえ、そうではなくて……その、飛び上がれば手が届きそうだと思ったので……」
「……」
「……」
「──そうであったか」
やれやれ、と言いたげな表情をしているものの、そこはかとない柔和さを浮かべている。それはいつも波琉が見ていた表情と同じはずなのに──今まで感じたことのない甘い疼きが波琉の心を支配する。
「バンジークス卿は……こちらで何を……」
「この近くで起こった事件の調査をしていてな、話を伺おうとこちらに寄ったのだ」
「そ、そうでしたか……」
「ああ。それでは──私は調査に戻る」
踵を返し、足早に去ろうとするバロックに向かって波琉は心の中で待って、と叫び──無意識に伸びた手が外套を端を掴み、バロックを引き留めた。
「……いかがしたか?」
「も、申し訳ありません。あの──」
言葉に詰まる。波琉は外套からパッと手を離すと、視線を彷徨わせながら胸元で古書を強く抱きしめた。
「私は、その、少し驚いてしまったのです。あの日、バンジークス卿に……その、なんと答えたら良いのか……分からなくて」
「──」
「私は、殿方を好いたことも好意を持たれたことも、ございません……なので、その、気持ちがよく分からないのです。私は……バンジークス卿の想いに応えられ──ああ、違う、えっと、そうではなくて……」
語学留学生とは思えない、辿々し過ぎる英語ばかりが口から零れ落ちる。言いたい言葉はしっかりと思い浮かんでいるのに、それを上手く英語に言い換えることができない。
「ゆっくりで構わない」
包み込んでくれるような優しい声に、波琉は一瞬にして落ち着きを取り戻す。ゆるゆると顔を上げると、店内の光を集めてキラキラと輝く瞳がこちらを見ていた。その色にハッとする。──いつだって、そうだった。初めて出会った時も街中で話しかけてくれた時も、バロックはこうして言葉を待ってくれていた。ふと、何かが胸の中を去来する。この美しい瞳の奥に宿るものを知りたい──そう思った。波琉は深く息を吸って吐き出す。
「──私は、その……バンジークス卿のことをもっと知りたい、です」
息を呑み、押し黙ったバロックと目を合わせられなくなって、波琉は視線を足元に落とした。二人の間に流れる沈黙。そんな無の時間が長引くにつれ、波琉はだんだん自分の英語力に不安を持ち始めた。──自分が伝えたいことはきちんと正確に伝わったのだろうか。
「ミス・カミサカ」
不意に名前を呼ばれ、腕を引かれる。たたらを踏んだ波琉の視界は黒に覆われ、香水の匂いが鼻孔を擽った。耳元では自分の心臓と同じくらいの速さで脈を打っている音がよく聞こえる。それがバロックのものだと気づくのに僅かに時間を要した。
「許可もなく、そなたに触れてしまったことお許し願いたい」
「バ、バンジークス卿……?」
「前言撤回だ。──私は、そなたを好いている」
「──っ、」
「……だからこそ、私もそなたのことをもっと知りたい。教えてくれるだろうか?」
微かに甘さを孕んだ低音に、胸の奥が更に疼いた。的確な言葉が出てこず、首を縦に振ると抱きしめる力がいっとう強くなる。静寂が支配するこの空間に、二人の息遣いだけが聞こえていた。──やがて、その静寂を切り裂くかのように店外からバロックを呼ぶ声が聞こえ、強く抱きしめられていた腕がゆっくりと緩められた。波琉とバロックの間に僅かな隙間ができる。
「……ミス・ハル」
「え──あ、はい!」
下の名前を呼ばれたことに驚いて弾けるように反応するや否や、流れるように手を取られ、指先に軽く口付けを落とされた。あまりにも自然な所作に狼狽えると、ちらりとこちらを見たバロックの目元が僅かに細められる。初めて見る──その魅惑的な笑みはまるで宣戦布告のようにも思えて、柔らかな唇が触れた箇所が徐々に熱を帯び始めていくのを感じた。バロックはたおやかな笑みを口元に携えたまま「それでは失礼する」と、何事もなかったかのように外套を翻して書棚の角を曲がり、波琉の前から去っていった。途端に視界がぐらりと揺れるのを感じ、思わずふらついた波琉は書棚にもたれ込む。手を充てがわなくとも分かる、このはち切れんばかりの心臓の拍動。それが一体何を意味するのか──的確な言葉が今、脳裏を駆け巡ったような気がした。
title by 失青
20190823
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