※社会人設定

『跡部、今度結婚するんやって』

定期的に行われる旧友との電話のやり取りの中、ふと思い出したように呟かれたそれは、いとも簡単に波琉の心臓を握りつぶした。かつて、付き合っていた彼が結婚するらしい。財閥の跡取りである彼のことを考えれば、もう結婚してもおかしくない歳だ。あれから5年という月日が経ったのだから。波琉は聞き取られないように小さく息を呑み「そうなんだ」と平静を装って返事をする。しかし、言葉尻で微かな動揺を悟ったのか、電話の向こうで小さく息が漏れる音がした。こうして胸の内を勘繰られるようなことは、好きじゃない。

『……まあ、相手次第みたいやけどなあ』

ゆったりとした物言いで、波琉の旧友である忍足侑士は笑った。




「好きだ」

入学早々から氷帝学園の頂点に君臨していた跡部景吾に波琉が告白されたのは、大学1年の夏に差しかかる頃だった。

「神坂、ずっと好きだった」

何故、自分が告白されたのか全くもって理解できない波琉は視線を下に落とした。彼が視線を寄越しているのを体でひしひしと感じ取る。彼とは決して接点が多かったわけではない。高校の頃から比較的仲の良かった忍足を通して、何度か話をしたくらいの顔見知り程度。世界有数の財閥の御曹司である彼が、ごく普通の一般家庭に生まれた自分の何処を好きになったのか。とてつもない財力とカリスマ性を持っている彼ならば、それ相応の女性の一人や二人……すぐに見つかるというのに。──決して釣り合わない、と頭の中にその言葉が浮かんだ波琉は告白を丁重にお断りしようと、意を決して顔を上げる。しかし、強い意志を持ったアイスブルーの双眸と目が合った瞬間、波琉の思考は停止した。彼の瞳をこんなにまじまじと見つめるのは初めてだった。美しさの中に強さを秘めた気高きその色は、彼にしか似合わないと思った。──断るためのごめんなさいが喉から上手く出てくれず、お互いに見つめ合ったまま、静かに時間が流れていく。

「神坂」

名前を呼ばれてハッと息を呑む。不安気な瞳がくるりと揺れた。

「えっと、あの……」

何故そうしたのか、自分でも分からなかった。

「よろしくお願い、します」

気がつけば波琉は自然と首を縦に振っていた。張りつめていた緊張の糸が切れたのか、ホッと息をついた彼の柔らかい表情がとても印象的だった。
そうして瞬く間に、波琉と彼が付き合い始めたことが大学中に知れ渡ることになった。──と、同時に波琉に対する陰湿なイジメも始まったのだった。相手は彼の熱狂的なファン、その中でも過激派に部類される人達だった。彼女達は決して目に見える暴力を振るうことはなかった。言葉を使い、精神的に攻撃した。彼に余計な心配をかけさせたくなかった波琉は自分が我慢すればいつか向こうが飽きるだろう、そう思っていた。しかし、name2#の考えとは裏腹に行為はだんだんエスカレートしていく。何十、何百通ものメールが毎日送られてきた。無言電話が何度も何度もかかってきた。それはアドレス変えても着信拒否にしても同じことだった。少しずつ少しずつ、我慢ができなくなっていき、いつからか彼と一緒にいることにすら苦痛を感じるようになっていた。そして──。

「わたし達、別れよう」
「……今、なんて言った」
「ごめん」
「理由を言え」
「──疲れたの」

波琉はとうとう彼女達の毒牙から解放されることを選んだ。

「さようなら」

踵を返そうとした瞬間、ぐいっ、と手首を引っ張られ、あっという間に距離を縮められる。甘い香りが鼻腔を掠めたと思えば、柔らかい感触が荒々しく唇に触れた。

「……身勝手でごめん」

悲痛な表情を見て見ぬふりし、腕を振りほどくと、逃げるように彼の元を去った。それからの波琉は大学を辞め、東京の街を出た。携帯も変えて、家族と本当に信用できる友人以外、新たな連絡先も居場所も伝えなかった。──こうして大人になった今、自分はどれだけ自分本位で、身勝手だったのだろうと思う。けれど、どれだけ後悔してももう手遅れだ。


静寂に包まれた部屋にインターホンのチャイムの音が鳴り響く。我に返った波琉は携帯に表示された時計を見やる。もうこんな時間か。仕事が休みだからといって、少しボーッとし過ぎてしまったようだ。重い腰を上げて波琉は足早に玄関へ向かう。あらかた隣に住んでいるおばさんがおかずを作りすぎたから、といつものように大量のタッパーを持ってきてくれたのだろう。覗き穴を確認することなく、扉を開ける。

「はー……、い」

目の前にいたのは隣に住むおばさんでも、ましてや宅配の類でもなかった。ひどく懐かしい色を見た。半分ほど開けた扉を反射的に閉める──が、足先をこちら側に入れられて、扉を完全に閉めることは叶わなかった。

「波琉……!」

扉の向こう側で名前を呼ばれた。それでも波琉は扉を閉めようとする行為を止めない。何故、彼が、ここに?数々の疑問が頭の中でぐるぐると駆け巡っていると、手に持っていた携帯が唐突に震えた。液晶に現れたポップアップには先程電話していた忍足の名前。

《堪忍やで。跡部も神坂も、見てられへんかってん》

ぐっと扉をこじ開けられ、アイスブルーの色が目の前に現れる。昔と変わらないその美しくも力強い双眸に、思わず息を呑んだ。景吾、という言葉は声にはならなかった。

「波琉」

腕を引っ張られ、跡部の元に飛び込む形になる。ひどく懐かしい甘い香りが鼻腔を擽った。肩に顔を埋められて跡部の表情は見えないが、肩越しに見える背中が小さく震えているような気がした。──全部聞いた、と耳元で低い声が震えた。

「ごめん、なさい」

涙が溢れた。声を押し殺して涙を流していると、跡部はまるで赤ん坊をあやすように、優しく一定のリズムで波琉の背中を叩く。それがひどく心地良かった。──しばらくそうされていると、だんだん涙も呼吸も落ち着いてくる。波琉はもう大丈夫だという意味を込め、跡部の胸元をやんわり押して、密着していた2人の間に隙間を作る。跡部はもうすぐ結婚する。こういう風に抱き合ったりしてはいけないのだ。

「あの、忍足から聞いた。……結婚、するんだってね。おめでとう」

顔は、見れなかった。

「まだ、決まったわけじゃない」

跡部の綺麗な指先が波琉の顎を掬う。そして、唇をなぞるようにゆっくりと親指が動いた。相手次第みたいやけどなあ、と電話越しに聞いた忍足の言葉が思い浮かんだ。

「波琉、結婚してくれ」
「……え?」
「アーン?聞こえなかったか?」
「いや、でも……!」
「もう、俺様から離れるな」

アイスブルーの双眸に真っ直ぐ見つめられて、思考が停止する。──ああ、あの時と同じだ、と波琉は思った。跡部の不思議な瞳の色に導かれるように、あの時と同じように、波琉は首を縦に振る。すると跡部はその答えに満足そうに笑った。好きだ、と呟きながら近づいてくる跡部の顔に、波琉は流れるように目を閉じていくのだった。



title by へそ
20160531

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