※『つま先の空に星は降る』の続き

始業式の日に流川からお返しとして律儀にも肉まんをいただいてしまったせいで、平穏だった波琉の学校生活は一変してしまった。1年10組が混乱の渦に飲み込まれた出来事は瞬く間に全校生徒、そして教員達の耳にも届き、波琉は一躍時の人となった。パンデミックのように急速に拡大してしまったが、時間が経てばそのうち収束するだろうと波琉は何処か楽観的に考えていた。しかし、蓋を開けてみれば結局1ヶ月半が経っても事態は収まることはなく──それどころかクラス担任を始めとする教科担当の先生からはことごとく『流川係』という世話役に任命され、校内を歩く度に違うクラスの生徒や他学年から色々と揶揄われ、そして恐ろしいことに『流川楓親衛隊』のメンバーからも少しだけ目をつけられるまでに至った。何事もなく日々を穏やかに過ごそうとしていたはずの波琉の高校生活は1年を経たずして終了してしまったのだ。
波琉にとって、流川楓という男はバスケ以外にはてんで興味がないというなかなかのくせ者で、授業中はいつも寝ていて、何を考えているかよく分からない──どちらかと言えば苦手な部類に入る人間だった。それがまさかコンビニのお手軽な肉まん1つで懐かれてしまうなど、夢にも思わなかった。
「流川君と仲が良いなんて羨ましい」「話せるなんて羨ましい」──そう言われたことは数知れず。だが、決して周りが羨む程に仲が良いわけでもないし、話せると言っても2〜3回程のやり取りで終わり、会話という会話にならないことの方が多かった。にもかかわらず、学校中の人間から好奇の目を向けられていて肩身の狭い思いをしていることなど、当の流川は全くもって知らないだろう──。波琉は最近行われた席替えで夏以来の隣になった(ならざるを得なかった)流川を横目で見やる。肩を上下させて深い眠りについている相変わらずな姿に本当に呑気だなあ、と少し恨めしく思った。

「それでは、授業はここまで。国語係はみんなのノートを集めて準備室まで運ぶように」

荷物を纏めた先生が去り際にこちらを見やると、ぞろぞろとクラスメイトがノートを持って波琉の元に集まってきた。欠席者と眠りこけている流川以外のノートを抱えて、波琉は教室を出る。授業が終わって一気に賑やかになった廊下を端まで歩き、突き当たりの角を曲がろうとした瞬間、全身にどんと大きな衝撃を受けた。

「悪りぃ!大丈夫か?」
「いや、こちらこそすみません……!」

何とかバランスを取り、ノートを落とさずに済んだ波琉はパッと顔を上げて相手を確認する。眼前には見知らぬ男の人。同学年にこんな人いたかな……とまじまじと見つめていると、目の前の彼から声が上がった。

「あっ、流川の彼女!」
「違います!!」
「は?違うのか?」
「それは根も葉もない噂なんで!──それよりもぶつかってしまってすみませんでした。……あの、先を急いでいるので失礼します」
「それ、何処に持っていくつもりだ?」
「この先の国語準備室に……」
「あー、なんだ。持っていくの手伝おうか?」
「だ、大丈夫です!係の仕事ですし、1人で持って行けます……!」
「いや、でもこの量はさすがに重いだろ」

初対面の人と終わりの見えない押し問答を繰り返していると、ふっと彼の目線が自分から逸れた。口をあんぐりと開けた彼が何を見ているのだろうかと目線につられて振り返ると、そこには流川がぬぼーっと立っていた。

「わっ、流川……!」
「……先輩、何してるんすか?」

波琉のぶつかった相手を認めた瞬間、流川の目がキッと鋭くなったような気がして、ひりついた空気が漂い始める。流川のただならぬ雰囲気に波琉は思わず『先輩』の様子を横目で窺うと、向こうも同じようにこちらを見ていた。重苦しさが漂う中、口を開いたのは『先輩』だった。

「……オレがここでこの子にぶつかっちまったから、それで手伝おうかって思ったんだよ。こんな量、1人で持ってたら危ねーだろ」

『先輩』の答えに流川は黙ったまま。流川の次の言葉を固唾を飲んで見守っていると──その瞬間、波琉が手にしていたノートを流川がごっそりと掻っ攫った。

「……オレが運ぶからいいっす」
「え?」
「どこ?」
「あっと、国語準備室に……」

こくりと頷いた流川は『先輩』を一瞥すると、何か言葉を発するでもなく、脇を通ってずんずんと歩いていってしまった。流川の背中を唖然としながら眺めていると、隣にいた『先輩』が困ったように笑った。

「まあ、なんだ。ぶつかって悪かった、じゃあな」

と片手を上げた『先輩』に対して会釈をし、駆け足で国語準備室へ向かうと、先に到着していた流川がムッとした表情で扉の前に突っ立っていた。波琉は「待たせてごめんね」と謝ると、扉をノックして中に踏み入った。ちょうど国語科の先生達は全員出払っている時間帯なのか、部屋はがらんとしている。

「先輩と知り合いだったのか」

先生の机にノートを置いた後、今まで黙りこくっていた流川が唐突に言葉を発した。しんと静まり返った室内に声が響く。面識などない、あの人とは今日初めて会って言葉を交わした。だというのに、いきなり『流川の彼女』と揶揄われたなどとは、当の本人を前にして言えるはずもなく──。

「ううん、知り合いじゃないよ」
「……親しげに喋ってた」
「すみませんって謝ってただけだって。ほら、早く教室に──」

戻ろうか、という言葉は声にならなかった。顔を上げた瞬間、流川が真剣な表情でこちらを見つめていたからだ。その眼差しは何を考えているのか、よく分からない。よく分からないから、少し苦手だ。

「る、流川……?」
「──好きだ」
「……えっと、何が?」
「おめーが」
「あー、ありがとう?」
「ちげー」
「はい?」
「付き合ってくれって意味」

数秒を要してやっと波琉は理解する。流川の言葉に驚いて、体温が急激に上昇していく。

「い、いやいや!いきなりそんな冗談……!」
「冗談じゃねーし」
「──は、」
「オレのこと、嫌いか?」

そう問われて一瞬戸惑う。好きか嫌いかと言われれば、嫌いではない。だが、それはあくまでもクラスメイト・友情的な意味合いであって──。

「嫌いとか、そんなんじゃない、けど……」

納得できるまで逃がさない、と言わんばかりの圧力に思わず後退ると、流川が距離を縮めるように一歩近づいてきた。

「クラスメイトだし、そういう風に考えたことなかったと……言います、か……」

一歩下がると、また一歩近づいてきた。

「なら、今から考えればいいだろ」
「いや、でも!……あっ、ほら、親衛隊の皆さんもいらっしゃいますし──」
「知らん」

そのまま端に追いやられるようにずるずると後ろに下がり続けると、とうとう背中に壁が当たった。187cmという高身長で体格の良い男子に見下ろされ、波琉はじんわりと汗が滲み出てくるのを感じた。

「オレはおめーにしか興味ねー」
「──っ、」
「波琉」

じんと耳朶に響いた言葉に心臓が大きく脈打った。じくじくと疼くような得体の知れない痛みが波琉を襲う。どうして──。なんと言えばいいのか、波琉は自分の気持ちをうまく言葉にすることができなかった。ハッと我に返ると、流川が更に距離を詰めようとしていて、慌てて両手を突き出す。カラカラに渇いた口を懸命に動かして声を上げた。

「ちょっ……ちょっと!ま、待って待って……!」
「待てん」
「ほんとに待って!……その!ら、来週の全授業を寝ずに、きちんと、受けられたら、考える……からっ!」

口から零れ落ちた言葉に、流川の体がピクリと反応する。

「本当か?」
「あ、いや、その……」
「わかった。受ける」
「え!?」

あっさりと波琉から距離を取った流川はくるりと踵を返すと、のそのそと準備室を出て行ってしまった。1人取り残された波琉は全身の力が抜けたようにずるずるとその場に座り込む。──いきなり、何だったんだ。流川の真意が掴めず、よく分からない。突拍子も無い行動は本当に心臓に悪すぎる。胸に手を当て、鼓動を落ち着かせる。あの窮地を脱するにはああ言わざるを得なかったのだ、と波琉は自分に強く言い聞かせる。それに受けると口では言っていたものの、今までの授業態度を見れば一睡もせずに全ての授業を受けきるなんて流川にはどれだけ難しいことか。きっといつも通りに初っ端の授業から寝入ってしまうだろう──。大丈夫、と独りごちた波琉は膝に力を入れて立ち上がると、ふらふらとした足取りで国語準備室を後にした。


週明け。波琉の予想に反して10組は朝のHRからとんでもないことになっていた。部活の時以外は常に寝ていると言っても過言ではない、あの流川がきちんと起きて前を向いていたのだ。驚きを隠せない担任やクラスメイトから、一体何をしたのだと言わんばかりにちらちらと目線を向けられたが、波琉は曖昧に笑うしかできなかった。まさか、あの言葉を真に受けて……?そんな考えが頭に浮かんだまま、教室全体がどよめく波乱のHRが終わると、波琉は右隣から声を掛けられた。

「教科書、忘れた」
「あ……うん、どうぞ」
「どーも」

流川はガタガタと机を動かし始め、波琉の机にピッタリとくっつけた。流川との距離感が近くなった途端に体の右側だけがじりじりと熱を持ち始める。こっそりと隣の様子を窺おうと僅かに顔を傾けると、流川が真っ直ぐにこちらを見ていた。目が合うと思っていなかった波琉は肩を震わせて、瞬時に目を逸らす。どくどくと心臓が音を立てる。──あれ、おかしい。今までこんなこと、なかったのに。流川のことを妙に意識してしまっている自分がいる。

「オレはおめーにしか興味ねー」

頭の中で反芻する流川の言葉を必死に振り払って、波琉はこれから始まる授業に集中しようとする。しかし、一度帯びた熱はなかなか冷めやらなかった。




そして、瞬く間に一日一日が過ぎていき──金曜日の授業が全て終わった。この日、日直に当たっていた波琉は放課後、最後の仕事として自席で日誌を書き込んでいたが、その作業を流川にじっと見つめられていた。──流川はこの5日間(多少ウトウトすることはあったものの)いつものように寝落ちせず、全ての授業をきちんと受けきったのだった。この日誌を書き終われば、必然的に流川と向き合わなければならない。残るは『今日のまとめ』と称された空欄のみ。一瞬だけ手が止まったものの、波琉は再びシャーペンを走らせた。今日一日の出来事を簡単にまとめ、最後は自身の感想で締めくくる。日誌を書き終え、覚悟を決めるようにシャーペンを置くと、流川の方に向き直った。真っ直ぐな視線が突き刺さる。

「──1週間、寝なかった」
「そう、だね」

先に口を開いたのは流川だった。綺麗に通っている鼻筋。肌荒れの無い白い肌。さらさらと流れる黒い髪。これでもう少し愛想があれば、もしかしたら自分も流川にときめきを覚えていたかもしれない。──などと呑気に考えていたのはほんの少し前までのこと。だが、今はどうだろうか。愛想があろうとなかろうと、流川に対して胸がドキドキしているのではないのか?想いを伝えられて以来、ずっと心がぐらぐらと揺れ動いている。

「波琉」

薄ら寒い、2人きりの教室で流川の凛とした声が広がる。

「オレはおめーにしか興味ねー。だから付き合ってくれ」

もう一度、耳朶に響く言葉に心を撃ち抜かれたような気がした。流川の真摯な眼差しを受けた波琉は観念したようにゆっくりと口を開く。

「う、うん。分かった……。でも、その代わりに……あの、これからもちゃんと授業を受けてほしい、っていうか」
「波琉が勉強教えてくれるなら、善処する」
「え、あ、うん。……あっ」

予想外の返しに思わず頷いてしまうと、流川の手がずいっとこちらに伸びてきて、いつかと同じように頭をぽんぽんと撫でられた。波琉は息を呑む。あの時と、同じ表情──けれど、あの時とは違う何かが波琉の心を支配する。大きな掌の温もりがゆっくりと頭の上から離れていくのを感じながら、もしかしたら──あの瞬間から、知らず知らずのうちに流川のことが気になり始めていたのかもしれない、そんな考えが頭をよぎった。



title by 花洩
20200118 - req boxより『つま先の空に星は降る』の続きで、付き合う話

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