今から半年程前、会社からの帰宅途中に飲み会帰りと思われる酔っぱらいのサラリーマンに絡まれる出来事があった。どれだけ突っぱねても「そんなこと言わずに〜」と詰め寄ってくるあまりのしつこさに辟易していた波琉の背後から地を這うような声が聞こえた。
「失せろ」
酔っぱらいにはその一言で十分だった。波琉の背後に目をやって、一瞬で酔いが覚めたらしいサラリーマンはあっさりと踵を返してバタバタと走り去っていく。サラリーマンの恐れおののく姿に唖然としながら、波琉は自分を助けてくれた人物にお礼を言うために背後を振り返った。──そこには、1人の美しい男がいた。
『ホワイトシルバーの髪に獰猛な緋色の瞳、アロハシャツを着た男を見たら気をつけろ』そんな言葉が囁かれる程、火貂組・若頭の碧棺左馬刻をこのヨコハマの街で知らぬ者はいない。波琉も遠目に姿を見かけたことは何度かあったが、こうして間近で直視するのは初めてだった。心臓が大きく脈打つ。左馬刻の造詣の美しさと全身から醸し出される荒々しい雰囲気、そして何より煌々と燃えている獰猛な緋色に射抜かれて、波琉は思わず気圧されてしまう。
「怪我ねぇか」
「え、あ、はい……!」
「そうか。……なら、気をつけて帰れよ」
怪我の有無だけを確認した左馬刻は煙草に火をつけると、気怠げな足取りで波琉の元を去っていく。たまたま視界に入っただけなのかもしれないが、それでも酔っ払いに絡まれて困っていた自分を助けてくれたことに変わりない。波琉は遠ざかっていく左馬刻の背中に向かって「助けてくださってありがとうございました……!」と感謝の言葉を口にする。左馬刻がその声に振り返ることはなかったが、ひらひらと右手を短く上げて静かに応えてくれた。──呆気ない程の短いやり取りだったにもかかわらず、碧棺左馬刻という苛烈な男は波琉の心に深く刻み込まれた。だが、あの赤と相対することはもうないだろう。同じヨコハマに住んでいながらも、住んでいる世界があまりにも違い過ぎるからだ。脳裏に焼きついて離れない赤を思い浮かべながら、波琉は姿が見えなくなるまで左馬刻の背中をじっと見つめ続けた。
それから数ヶ月後。残業で少しだけ帰りが遅くなり、スーパーで軽く買い物を済ませた帰り道。波琉はふと、数メートル先にある小さな煙草店の前に佇む男の姿が気になった。
(──あっ、碧棺さんだ)
近づくにつれ、佇まいが鮮明になっていく。家に帰るには左馬刻の目の前を通らなければならない波琉は一言挨拶しようかと悩んだものの、あの日から随分と時間が経っているし、向こうはこちらのことを覚えていないかもしれない。「誰だ?」とガンを飛ばされるのが容易に想像できた波琉は、紫煙を燻らせながら遠くを見つめている左馬刻の前をしれっと通り過ぎようとする。
「おい、あん時の──」
静かな声色に呼びかけられ、思わず足を止める。顔を上げると視線がぶつかった。覚えられているなんて思ってもみなかった波琉は驚きを隠せないまま「その節は……」と、左馬刻に向かって会釈した。
「今、帰りか?」
「……そ、そうです」
左馬刻から言葉が返って来ず、会話が終了する。居た堪れない空気がこの場を支配してしまい、波琉は「それでは失礼しますね」と早々に立ち去ろうにも立ち去ることができなかった。左馬刻との間に流れる妙な沈黙を前にどうしたものかと考えあぐねていると、きゅるる、と小さな音が耳に届いた。ばつが悪そうにぐっと眉間に皺が寄った左馬刻に、波琉は反射的に口を開く。
「──あの、ご飯……食べますか?」
手に持っていたスーパーの袋を少しだけ持ち上げてから、波琉は自分の口から零れ落ちた言葉の重大さに気がついた。男を──いや、普通の男ではない、あの碧棺左馬刻を家に招き入れようとするなんて。
「近いのか?」
「──え?」
「家だ」
「……えっと、はい。あの角を曲がって少し歩いたとこのアパート……です」
「そうか」
短く言葉を吐き出した左馬刻は手に持っていた煙草を灰皿に落とした。──え、まさか。左馬刻の行動に身を強張らせていると、左馬刻は早く案内しろと言いたげな目をしながら無言で催促してきた。思わず口にしてしまった言葉は訂正がきかない。波琉は心の中でひどく後悔しながら、左馬刻を連れて帰宅したのだった。
波琉は左馬刻の機嫌を損なわないようにと、腕によりをかけた豪勢な料理よりも作り慣れているシンプルな料理を選んだ。その選択が功を奏したのか、左馬刻は料理を全て平らげた。満足げな様子の左馬刻の表情を盗み見て、難を逃れたとほっと一息ついた波琉だったが──この出来事をきっかけに、左馬刻が不定期ながらも家にやって来るようになってしまった。ふらっと家を訪ねてきては晩ご飯を食べて、ふらっと帰っていく。かつて伝説と謳われたThe Dirty Dowgの元メンバーであり、ヨコハマをシマとする火貂組の若頭。そんな誰もが知り得ている情報しか知らなかったはずの男の存在が、煙草の残り香が部屋に染みついていくにつれて波琉の中で大きくなっていった。
男と女が同じ屋根の下にいるにもかかわらず、波琉は左馬刻と親しい仲はおろか、セフレにもならなかった。一夜を共に過ごすこともなく、ただ夕食や夜食を提供するだけの女。それが左馬刻に求められているであろう波琉の立場だった。いつのまにか育っていた左馬刻への想いを波琉は口にすることができない。口にしてしまえばきっと、左馬刻は波琉との関係をいとも簡単に切ってしまうに違いないから。歪でもいい、左馬刻と少しでも長く繋がりを持てるのであれば──と波琉は自分の想いに蓋をして、左馬刻との関係を続けていった。
だが、そんな生活も長くは続かず、中王区から第1回テリトリーバトルの開催が発表された日を境に、左馬刻の来訪はパタリと止んだ。『あの碧棺左馬刻もチームを組んでテリトリーバトルに参加する』と、風の噂を耳にした以外には、左馬刻が何処で何をしているかなんて知る由もなかった。もしかしたら自分以上に料理を美味しく作る女性を新しく見つけたのかもしれないし、大切だと思える女性と出会ったのかもしれない。そう考えると、心臓が針で刺されたようにちくりと痛んだ。だが、波琉にはどうすることもできなかった。
◇
《ヨコハマ・ディビジョン代表はMAD TRIGGER CREWに決定いたしました──》
テレビから聞こえてくる声に波琉は洗い物をしていた手を止めてテレビを見た。画面にはヨコハマ地方予選決勝の様子が映し出されていた。圧倒的なラップスキルとコンビネーションで相手チームを戦闘不能に追い込み、会場にいるヘッズ達を湧かす、左馬刻のチーム──MAD TRIGGER CREW。余裕ながらも何処か不機嫌そうに見える表情でセンターに立つ左馬刻に波琉は釘づけになった。呼吸すら忘れてしまう程にテレビ画面に食いついていたが、突如鳴り響いたインターホンの音に波琉は一瞬で現実に引き戻された。──宅配?来客?いや、そんな予定はなかったはずだ。こんな時間に誰だろうと波琉は首を傾げながら玄関へ向かう。覗き穴をそっと覗くと、そこにはテレビで見たばかりの左馬刻がいて、どうして──とそんな言葉が波琉の頭の中を過った。まるで催促するかのようにもう一度インターホンが鳴ったところで、波琉は震える指先に力を込めてドアを開けた。
「よぉ、」
「碧棺さん──ご無沙汰、してます」
「邪魔すんぜ」
「あっ、はい……」
我が物顔で家にあがり込む左馬刻の背中をすぐさま追いかける。左馬刻は気怠げな足取りで真っ直ぐリビングのソファーに向かうと、どかっと腰を下ろした。──時計の針は13時を少し回ったところ。夜にしか会わなかった男が真っ昼間からこの家にいることに波琉はひどく違和感を覚える。
「こんな時間に、珍しいですね」
「……ああ、まあな」
左馬刻は煙草を口に咥えて火をつけた。深く吸い込んで、ゆっくり吐き出された煙はゆらゆらと天井に向かって立ちのぼっていく。その一連の動作はいつ見ても心をドキドキさせた。煙草を吸う横顔からそれを持つ指の先まで。全てが、美しいと思った。左馬刻はローテーブルに置いてある灰皿を引き寄せて、軽く灰を落とすともう一度煙草を口に咥えた。
「何か、食べますか?」
左馬刻からの返事はなかったが、波琉はその沈黙を肯定として受け取り、キッチンへ向かった。しかし、これから買い物に行こうと思っていたため、冷蔵庫にはほとんど食材が残っていない。波琉は夕食に回そうと思っていた白ご飯と冷蔵庫に残っていた卵を使ってチャーハンを作ることにした。──シンプルなチャーハンと買い置きしていたフリーズドライの中華スープをトレイに乗せて、左馬刻の待つリビングへと運ぶ。
「お待たせしま、」
言葉が途切れる。目の前には先程まで煙草を吸っていたはずの左馬刻がソファーで横になっていた。まさか寝てしまった?と波琉は手に持っていたトレイを音を立てないようにそっとテーブルに置くと、床に膝をついて左馬刻に向き直った。左馬刻の眼前で掌をひらひらとちらつかせてみるが、左馬刻の瞼は閉じられたまま。一切無防備な姿を見せなかった左馬刻がこの家で眠るなんて、余程疲れが溜まっていたのだろうか──波琉は左馬刻の顔をじっと見つめた。いつも不機嫌そうな顔している左馬刻からは考えられない程に、とても穏やかな表情。眉間に皺が寄らなければ、こんなにもあどけないのかと思った。初めて見せてくれた寝顔に、波琉は自然と口角が緩むのを感じる。手を伸ばし、ゆっくりとした手つきで左馬刻の頭を撫でると、不意に左馬刻の瞼が開き──波琉は緋色に視線を射抜かれた。
「……っ、あ、ごめんなさい!」
波琉はすぐさま手を引っ込める。《ヨコハマの王様》とも《ハマの狂犬》とも呼ばれる男の頭をまるで子供をあやすかのように触れるなど、失礼にも程がある。ぐっと眉間に皺が寄った左馬刻の表情に波琉は背筋が凍るのを感じた。
「何、勝手にやめてんだ」
「え、」
予想外の言葉に呆気に取られる。触れてもいいのだろうか──波琉はもう一度手を伸ばして、おずおずと左馬刻の柔らかい髪に触れる。
「なぁ……お前には、覚悟あんのか」
思いがけない言葉に手が止まった。覚悟とは心構えをするということだ。生半可な気持ちでは持ってはいけない。一体何に対する覚悟を、わたしは求められているのか──。波琉は問いかけられた言葉を何度も何度も反芻してその理由を考えてみるものの、見当がつかない。むしろ、考えれば考える程に左馬刻の言葉を自分の都合のいいように解釈してしまう。そんなこと、天地がひっくり返ってもあるはずがないのに。ぐるぐると何処までも深い思考の海に沈みそうになっていると、じっと黙ったままの左馬刻が口を開いた。微かに掠れた声がなんと言ったのか、波琉は上手く聞き取ることができなかった。「え?」と聞き返すよりも早く左馬刻の腕が伸びてきて、頭を引き寄せられた。──唇に、柔らかい感触。
「──っ、」
「なんつー顔してんだよ」
「だ、って……」
初めて、触れられたのだ──。互いの鼻先がぶつかりそうな程の至近距離。左馬刻の瞳には何とも間抜けな顔をした自分が映り込んでいた。煙草と香水の混ざり合った匂いが鼻腔を擽る。目頭がじんじんと熱くなっていくのを感じながらも、左馬刻の真摯な眼差しから目が離せない。どくどくと心臓が早鐘を打つ。求められた覚悟の意味を、自分の都合のいいように解釈してしまってもいいのだろうか。
「──あなたの隣にいる覚悟なら、ずっと前から持ってましたよ」
声が震えそうになるのを抑えながら答えると、左馬刻の瞳がくるりと揺れる。そして──ふっと、左馬刻の口角が僅かに綻んだ。その表情があまりにも穏やかだったものだから、波琉は堰き止めていた涙を零してしまった。視界は薄い膜に覆われ、眼前にある左馬刻の美しい顔がぼんやりと霞んでいく。すみません、という言葉は声にならず、波琉は次から次へと涙を落としていった。
「泣くなよ、波琉」
初めて名前を呼ばれた。ぶっきらぼうながらも優しさが滲んだ声が聞こえたと同時に、もう一度唇に柔らかな感触が落とされた。
愛のはじまりをさがしてごらん
title by 失青
20200221
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