入間銃兎が所属するチーム、MAD TRIGGER CREWが近々開催されるテリトリーバトルのヨコハマ代表に決まったことを祝して、ヨコハマ署組織犯罪対策部五課で壮行会を開くことになった。中華街の一角にある居酒屋の座敷で大々的に行われた壮行会はそれはそれは賑やかなもので「頑張れよ」との激励の言葉が矢継ぎ早に飛び交い、それを銃兎が笑顔で受け取っている。彼らのやり取りを遠巻きに見つめながら、波琉は静かに生ビールのジョッキに口をつけた。


入間銃兎は警察学校の同期であり、波琉のかつての想い人でもあった。聡明で、正義感溢れる熱い想いを持っていた彼に波琉は憧れにも似た好意を持っていたのだ。
同じ教場であったものの、互いに別々の警察署へと卒配されて以降は疎遠になってしまった。だが、いつか銃兎と仕事が出来たら──。そんな夢を持ちながら波琉は日々の職務を全うしていた。それから偶然にも再会した、かつての警察学校の同期から銃兎がヨコハマ署の組織犯罪対策部五課へ異動したという話を聞いた。波琉はその話を自分のことのように喜んだが、銃兎が組織犯罪対策部へ異動してからというもの、次第にただならぬ噂を小耳に挟むようになった。しかし、あの聡明で、正義感溢れる銃兎が警察官らしからぬことをしているなど想像すらもできない。波琉はそんなことはあり得ないと、銃兎のあられもない噂を一蹴し続けていた。それから月日が経ち、波琉も銃兎と同じヨコハマ署の組織犯罪対策部五課へ異動することになった。同じヨコハマに住んでいながらも、会うことのなかった銃兎との再会と警察官としての期待を胸に、波琉は夢への一歩を踏み出した。

「誰が誰の不祥事をもみ消して差し上げたと?」

エレベーターで組織犯罪対策部のあるフロアに着いた波琉は人気のない廊下を歩いていると、耳を疑うような言葉が何処からともなく聞こえてきた。空耳かと思ったが、耳朶に響いたその声は波琉の脳髄を刺激した。懐かしく、だが、何処か他人にも思える声色。廊下には組織犯罪対策部をはじめとする数々の部署や部屋が並んでいて、波琉はちょうど資料室の前に立っていた。ということは声の主はここにいる。逸る鼓動を必死に押さえつけながら抜き足差し足で扉に近づくと、パッと見では分からない程小さく扉が開かれていた。引き込まれるようにその隙間から室内を覗き込むと、細身の黒スーツを身に纏った男が誰かと電話をしていた。長らく会っていなくても分かる。あれは入間だ──。男の姿を認めた瞬間、波琉の心臓がどくりと嫌な音を立てた。以前、小耳に挟んだ銃兎の黒い噂が脳裏をよぎる。

「──ええ、それでは」

電話を切った銃兎がふと顔を上げる。僅かな隙間から目が合ってしまい、波琉は自分の運の悪さを恨んだ。そそくさとこの場から逃げてしまえばいいのに、それができない。扉の前でひたすら固まっていると、いきなり扉が大きく開き、伸びてきた手に腕を掴まれると乱雑に中に引っ張り込まれた。勢い良く扉が閉まったかと思えば、扉に背中を強く押しつけられる。煙草の嫌な匂いと香水の仄かな甘ったるさが混ざった匂いが鼻につく。

「誰かと思えば、貴方でしたか」

視線だけを動かすと、鼻と鼻がくっつきそうな程の距離。照明のついてない薄暗い部屋にもかかわらず、銃兎の顔がよく見える。同期のはずなのに、まるで他人行儀の口調で喋る銃兎。波琉は動揺を悟られないように平然を装って口を開くが、心臓は相変わらず嫌な音を立てて動いていた。

「誰が誰の不祥事をもみ消したって、どういう、こと」
「ああ、聞こえてしまいましたか」

全く焦る素振りを見せずに銃兎は言う。それどころか口端をゆっくりと吊り上げると、似つかわしくない嫌らしい笑みを浮かべる。

「このことは他言無用でお願いしますね」
「そんなこと、できるわけない……!警察が不祥事なんて、そんな──」
「上に言ったところで無駄ですよ。今の電話の相手はまさに、その上の人間なんですから」
「──っ」

にこり、と人当たりの良い笑みながらも何処か有無を言わせない圧力がある。手先がじんわりと冷えていくような気がした。目の前の男は自分がよく知っている入間銃兎ではない。すっかり変わってしまった男を前に、波琉の中にあった憧れや恋慕といった感情は一瞬のうちに砕けてしまった。かつて好意をいだいていた入間銃兎はもうこの世の何処にもいない。煙草や香水の匂いを纏っている男など、波琉は知らない。まるで同姓同名の別人と相対しているような感覚。目の前にいる銃兎に対して『嫌悪』という感情が芽生えた瞬間だった。──そんな銃兎が、中王区主催のテリトリーバトルに参加すると聞いた時、波琉の脳裏には数々の疑問が浮かんだ。一端いっぱしの警察官がテリトリーバトルに参加するのはもちろんのこと、ヨコハマを取り仕切る火貂組・若頭の碧棺左馬刻とチームを組むなど、どういう風の吹き回しか。あの男は一体何を考えているのだろう、と。バトルに参加する目的も、碧棺左馬刻とチームを組む理由も、何もかも全てが波琉には理解できなかった。


瞬く間に壮行会はお開きの時間となった。「すみません、少しお手洗いに行ってきます」と言った銃兎を残して先に店先に出ると、課長や他の面々の話題はすでに2軒目は何処に行こうかという話に切り替わっていた。これ以上、銃兎と同じ空間にはいられないと判断した波琉はやんわりと2軒目の断りを入れる。

「そうか、なら気をつけてな」
「はい、それでは失礼します」

軽く頭を下げて、くるりと踵を返す。「お疲れさまー」と間延びした言葉を背に受けながら、銃兎が戻ってこないうちにそそくさと人混みの中に紛れ込んだ。華金とあってより一層の賑わいを見せる中華街大通りを脇目も降らず歩き続ける。朝陽門を抜けきったところでようやく立ち止まり、波琉は大きく溜め息を吐き出した。宴会中は気乗りしなかったせいでお酒も料理もあまり喉を通らなかったが、ふと気がつけば少し小腹が空き始めている。波琉は帰りのコンビニで何か買って帰ろうと思いながら、目の前の横断歩道を渡ろうと足を踏み出すと、突然背後から肩をトントンと叩かれた。びっくりして勢い良く振り返ると、そこには課長達と2軒目に行っているであろう銃兎の姿があった。なんでここに──。そう思うものの、上手く声が出ない。

「少し飲み直したいのですが、付き合ってもらってもいいですか?」
「み、みんなと2軒目行くんじゃ……」
「左馬刻から緊急召集がかかったので、と言ってお断りしました」
「なん、で」
「貴方とは同期のよしみなのに、先程は一言も話しかけてくれませんでしたから。ゆっくり話をしたいと思いまして」

ジリジリと焦げるような鋭い視線を受ける。どう足掻いても逃すつもりはないらしい。

「……入間の、奢りなら」
「ええ、もちろん。それなら私の行きつけでも構いませんか?」
「うん、」

連れてこられたのは幹線道路から一本入った雑居ビルの地下、まるで隠れ家のような雰囲気のあるバーだった。一番奥のカウンター席に座る銃兎の右隣に波琉はそっと腰を下ろした。席に座るや否や、銀縁の眼鏡をかけた初老のマスターが「いらっしゃいませ」と穏やかな笑みで銃兎の前に灰皿を差し出した。

「今日は何になさいますか?」
「では、ロブ・ロイを」
「えっと、わたしは……ファジー・ネーブルで」
「かしこまりました。それにしても、入間さんが誰かをお誘いになってお越しになるとは珍しいですね」
「彼女は私の同期なんですよ」

その言葉にマスターがこちらを見る。波琉は乾いた笑みで軽く頭を下げた。騒々しかった居酒屋から一転して、しっとりとした雰囲気のお洒落なバー。慣れない空気に何処か浮つく波琉は視線を上へ下へと彷徨わせるばかりだった。「ファジー・ネーブルでございます」と柔らかな声にハッと我に返る。「ありがとうございます」と洒落たコースターに乗ったグラスを持ち上げると、銃兎がグラスを軽くぶつけてきた。

「久々の同期との飲みですから」

生ビールのジョッキよりもカクテルグラスを持っている方が銃兎は様になる。そんなことを思いながらグラスに軽く口を当て、チェリーが沈められた赤褐色のカクテルを味わうように飲む銃兎の横顔を見つめていると、銃兎と視線がかち合った。口端をゆっくりと上げた銃兎の表情に波琉は視線をすぐさま自分のカクテルに落とす。水を打ったように静まり返っているこちら側とは裏腹に真反対の席に座っている2人組の客の方は会話が弾んでいるようだ。ここの常連客なのだろうか、彼らはマスターと親しげにウィスキーの話をしていた。本当は波琉も銃兎に聞きたいことが山程ある。どうして警察官らしからぬ悪どいことをしているのか、どうしてヤクザの碧棺左馬刻とチームを組み、テリトリーバトルに参加するのか──。けれど、いざ面と向かうとその疑問は喉につっかえて出てきてくれなかった。だんまりとした沈黙が続く。所在無さを紛らわすようにグラスに口をつけてはちまちま飲み続けていると、あっという間に鮮やかなイエローは消えてなくなり、氷がカラリと鳴った。もう1杯注文しようと波琉が顔を上げると、先に銃兎がマスターを呼んだ。

「確か、お酒は強い方でしたよね?」

唐突に銃兎に言葉を投げかけられ、波琉は一瞬反応が遅れる。

「え……あ、まあ、それなりには」
「すみません、ロブ・ロイを2つ」
「かしこまりました」

銃兎の方を見ていたマスターがこちらに視線を移したが、何を言うでもなくすぐに逸らされる。何故一瞥を投げられたのか、波琉にはてんで理解できなかった。当のマスターは何事もなかったかのように空になった2つのグラスを下げ、ロブ・ロイを作り始める。そんなマスターに疑問を残しつつ、波琉は銃兎にちらりと視線をやった。

「ロブ・ロイは私の好きなお酒なんです。一度、貴方にもご馳走したくて」
「……そう」

傍から見れば人当たりの良さそうな感じに見える銃兎の笑み。だが、そんな表情が今の波琉は嫌いだった。

「お待たせしました、ロブ・ロイでございます」

カウンターの奥からカクテルグラスが差し出される。「それではごゆっくりどうぞ」と柔和な笑みを浮かべるマスターに会釈すると、マスターは再び常連客の方へ向かっていった。銃兎に「飲んでみてください」と促され、恐る恐るグラスに口元を近づけて軽く口に含むと、その瞬間ウィスキーの独特な風味がいっぱいに広がった。くっと喉を刺激するキツさを感じるが、ベルモットの甘い香りがすぐに鼻腔を擽って度数が高い割には飲みやすいと思った。

「どうですか?」
「……美味しい」
「気に入っていただけて良かったです」

銃兎のにこやかな笑みに波琉は少し眉根を寄せると、ぷいっと目を背けた。そうして再び沈黙が訪れる。波琉はロブ・ロイを嘗めるようにちびちびと飲みながら、カウンターの壁に飾られているグラスや装飾品の数々をじっくり眺めていた。

「お前……昔、俺のことが好きだっただろ」

聞こえるか聞こえないかという声で呟かれた言葉に波琉は大仰に反応する。どくどくと騒ぎ始めた心臓と動揺を悟られないようにして、違うと否定しながら銃兎の方に向き直ると、その目はいつもの人を小馬鹿にしたようなものではなく、かつての優しい眼差しをしていた。その眼差しを、知っている──。まるで昔に戻ったかのような錯覚をいだく。波琉は心の柔らかい場所を締めつけられたような気がした。ピリッとした小さな痛みを覚え、ようやく波琉は我に返る。違う、この男はわたしの反応を楽しんでいるんだ。やっぱりこんな誘いに乗るんじゃなかった、と波琉は僅かにグラスに残っている赤褐色に視線を移すと、それをじっと見つめたまま「ごめん、帰る」と早口に呟いた。席を立とうと椅子を引こうとした瞬間、動きを封じ込めるかのように腕を強く掴まれる。

「ちょっと、何す──っ、」

銃兎の顔がすぐ近くまで迫ってきて──波琉は咄嗟に右手を間に差し込んだ。鼻と口を覆うように手で動きを制すると、銃兎は不服そうに眉を寄せた。そんな顔を目の当たりにして、波琉は平静を保つのが精一杯だった。心臓が更に激しく脈打つ。──キス、されるかと思った。

「神坂、」

くぐもった声に名前を呼ばれる。嫌いになった、はずなのに。甘やかな熱を持った常盤色の瞳に射抜かれて、心が揺さぶられる。

「好きだ」
「──っ、」

動揺した隙を突かれ、間に差し込んだ手に強く唇を押し当てられた。掌に柔らかい唇の感触が伝わる。他に客がいるような公然の場所でなんてことを。その大胆な行動に思わず息を呑むと、先程まで不服そうに眉を寄せていた銃兎の目が何処か愉快そうに弧を描いた。余裕たっぷりのその表情に、波琉は消し去ったはずの感情に再び火が灯るのを感じ取った。


暮れた在処離れに微熱を灯して



title by 失青
20200221

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