H歴3年。ヨコハマの小さなクリニックで働きながら日々を平穏に過ごしていた波琉の元に、突然思いがけない人との再会が訪れた。
「ドクター?」
駅に向かって歩いていると、すれ違いざまに聞こえた言葉。その呼び名はかつて軍医として海軍に従事していた頃に呼ばれていた名前だった。懐かしい響きに、波琉は思わずぴたりと足を止める。反射的に振り向くと、全身をミリタリー柄で揃えた赤毛の髪の男がこちらをまじまじと見つめていた。見覚えのある顔立ちに、軍医時代の記憶が一気に蘇る。
「毒島さん……!」
「やはり、ドクターだったか。こちらにいたんだな」
毒島メイソン理鶯は同じく海軍に従事していた人間だ。ただ、軍医時代にこれといって親交はなく、互いに会えば軽く挨拶する──名前や存在を認識している程度の関係だったから、こうして親しげに声をかけられるとは思ってもみなかった波琉は驚きで目をぱちくりとさせた。
「まさかここで会えるとはな」
「そうですね。お久しぶりです、毒島さん」
クーデターにより今までの政権が倒れ、新たに国のトップに立った言の葉党の意向によって軍隊が解体されて以降、波琉は軍の関係者と会うことは一度もなかった。同じ軍医として従事していた同僚や先輩はもちろんのこと、懇意の仲だった隊員達とも。だからだろうか、理鶯との再会に波琉は感動と懐かしさを強く覚えた。それは理鶯も同じだったようで「良かったら、少し話をしないか」とお茶に誘われた。二つ返事で頷いた波琉は理鶯と共に近くの喫茶店へと入った。店の一番奥にあるテーブル席に腰をかけると、お冷とおしぼりを持ってきたウェイターに飲み物を注文する。「かしこまりました」とウェイターがさっと席を離れると、どちらからともなく軍が解体されてから今までの経緯を話し始めた。──そこで理鶯が今、ヨコハマ郊外の森でサバイバル生活をしていること、そして近く開催されるテリトリーバトル出場のためにMAD TRIGGER CREWというチームを組んだことを知った。
「また会ってくれるだろうか」
「はい、もちろんです!」
久々の再会を喜んだ時間はあっという間に過ぎる。だが、これをきっかけに2人は連絡先を交換し、時々会うようになった。元々同じ職場だったこともあり、打ち解けるのに然程の時間はかからず、自然と互いの呼び名もかしこまったものから親しい呼び方に変わっていった。理鶯とこうして仲を深めるようになるとは、軍医だった頃は微塵も思わなかっただろう。なんとも不思議な巡り合わせだなあと、波琉は理鶯と会う度にしみじみと感じていた。
ある日の仕事終わり、チームの打ち合わせのために都心部に来ていた理鶯と急遽晩ご飯を食べに行くことになった。連絡を取り合いながら、波琉は待ち合わせ場所に指定したヨコハマ駅へと向かっている。駅前は今から帰宅しようとする人や買い物を楽しんでいる人々でごった返していたが、理鶯は周りよりも頭1つ分以上飛び出ていたため、すぐに姿を見つけることができた。足早に理鶯の元に駆け寄ろうとすると、波琉よりも先に1人の外国人の女性が理鶯に声を掛け、それに理鶯が反応した。すらりとしたモデル体型の彼女は理鶯と並び立っても遜色ない。あまりにも様になり過ぎている2人を見て、間を割って入ることができないと判断した波琉は彼女とのやり取りが終わるまで待っていようと歩みを止めた。何を話しているのかは分からないが、彼女の話に理鶯が柔らかい笑みを浮かべた瞬間、胸の奥がぎゅっと掴まれるような痛みを感じ、波琉は思わず胸を押さえた。見たことのない笑み。──あんな表情もできるんだ。じくじくと疼き出したところから、得体の知れないものが霧のようにゆっくりと現れる。今まで経験したことのない感覚に困惑していると、不意に彼女から目線を外した理鶯と視線がかち合った。すぐさまこちらに向けて片手を上げた理鶯に波琉もつられて手を上げる。理鶯が彼女に一言二言何かを告げた途端、彼女の顔がパッとこちらに向いた。同性である波琉から見てもドキッとする程に目鼻立ちの整っていて、理鶯に似合いの美人さんだと思った。心の中のもやもやが増していく──。理鶯が彼女と別れ、人混みを掻き分けてくると波琉は意識的に口角を吊り上げた。
「すみません、ちょっと遅くなってしまいました」
「いや、問題ない。それよりも小官の方こそ急に誘ってすまなかった」
「いえいえ!そんなことないですよ!それよりも……あの、お話は大丈夫だったんですか?」
「ああ、少し道を尋ねられていた。小官の説明で無事に辿り着いてくれるといいのだが」
「そ、そうですか……」
「どうかしたか?」
「ううん、なんでもないです!」
波琉は口まで出かかった言葉を喉の奥へと飲み込むと、笑って首を振った。──その後、波琉は理鶯との食事をいつも通りに楽しんだが、小さな蟠りは消えることなく、波琉の心の奥に残ったままだった。
テリトリーバトルの開催が明後日に差し迫った夜、バラエティ番組を観ながら晩酌をしていた波琉の元に1本の電話が入った。携帯のディスプレイに表示されたのは理鶯の名前。こんな時間に珍しいなと思いながら、波琉は通話ボタンをタップした。
「もしもし」
『突然すまない、毒島だ』
「こんな時間に珍しいですね。どうしました?」
一瞬、間が空く。
『──単刀直入に言う。テリトリーバトルで優勝したら、波琉に伝えたいことがある』
「え、あ、はい」
『バトル翌日の夕方、大さん橋で会えるだろうか?』
「わ、分かりました」
『ああ。では、おやすみ』
「あ、おやすみなさい……」
ぷつり、と通話が切れる。伝えたいこととは一体なんだろうかと、考えを巡らせるものの、波琉には全く見当がつかなかった。だが、それはMAD TRIGGER CREWが優勝すれば分かること──。そう思いながら、波琉はグラスに僅かに残ったお酒を飲み干した。
◇
いよいよ、テリトリーバトルが開催される。波琉は緊張した面持ちでバトル会場であるコロシアムのアリーナ席に座っていた。本当は現地観戦をする予定など全くなかったのだが、チケットを手に入れた同僚から一緒に行ってほしいと誘われたのだ。このことは理鶯には伝えていない。2日前から中王区に入り、コンディションを整えているであろう理鶯の気を散らしたくはなかったからだ。──イケブクロ、シブヤとの戦いを制して勝ち上がったヨコハマとシンジュクによる運命の決勝戦。観客のボルテージは最高潮に達する。波琉は汗ばんだ手を胸の前で組み、身を切られるような想いでセンターステージを見つめた。
波琉は理鶯の体が後ろに吹き飛ばされる度に全身が粟立つのを感じた。攻撃を受けた理鶯が膝をつく。相当な威力のあるリリックだったのだろう、ふらつきながらもなんとか立ち上がった理鶯の肩は上下に大きく揺れていた。シンジュクを応援する声が一段と大きくなる中で理鶯はマイクを構えると、再びリリックを吐き出した。会場の大きなテレビモニターに映し出された理鶯の姿はすでに満身創痍の状態。ヒプノシスマイクを通してのリリック攻撃は人の交感神経や副交感神経等に作用し、様々な状態にすると聞く。そしてそれは最悪の場合、死に至ることさえあるという。にもかかわらず、理鶯は言葉の弾丸を撃ち続け、戦うことをやめなかった。その懸命に戦う姿に波琉は胸を衝かれる思いがした。ああ、わたしは──。無性に熱いものが込み上げる。それは涙となって波琉の頬を濡らしていく。──彼のことが、好きだ。どうしようもなく、彼が。理鶯への想いを自覚してしまえば最後、止めどなく溢れ出してくる。波琉は涙を指先で拭いながら、戦い続ける理鶯の勇姿を必死に目に焼きつけた。
翌日。波琉は理鶯と約束した場所──大さん橋へと向かっていた。
《第1回テリトリーバトルの優勝者はシンジュク・ディビジョン代表の麻天狼──》
街中の大型テレビモニターに映し出された3人の姿。第1回テリトリーバトルはシンジュク代表・麻天狼の優勝により幕を閉じた。昨日も会場で見た三者三様の表情を一瞥すると、波琉は青に変わった横断歩道を足早に駆けた。時間を確認すれば、約束の15分前。思っていたよりも早く大さん橋に着いてしまった。空を見上げれば真上は深い紺、地平線に近づくにつれてそれは鮮やかなオレンジに色を変えていく。ここから見える対岸のみなとみらいは観覧車のイルミネーションが点灯し、建造物から漏れ出る照明灯の明かりですでに夜の街並みへと姿を変化させていた。波琉はもうすぐ来るであろう理鶯に、一体何と声をかければいいのだろうかと思案しながら、それらの美しい街並みを見るともなく見ていた。
「波琉」
落ち着いた声が鼓膜を揺らす。ゆっくりと振り返ると、そこには理鶯がいた。昨日のバトルで強力なリリックを受けて満身創痍の状態だったはずなのに、それを微塵も感じさせない様子で立っていた。
「すまない、遅くなってしまった」
「いえ、わたしが早く到着してしまっただけなので……!」
「そうか」
「あの、昨日は、お疲れ様でした」
「……ああ、結果は知っての通りだ」
「実はわたし、昨日の試合観に行ってたんです」
「っ、そうだったのか。……なんとも無様なところを見せてしまったな」
「そんなこと、ないです」
「いや……優勝すると言ったにもかかわらず、麻天狼に負け、波琉との約束を反故にした」
そう言ったきり、理鶯は固く口を閉ざしてしまった。優勝したら伝えたいことがある──そう言っていたから、負けてしまった今、理鶯から話すことは何もないのだろう。波琉も会話の続きを見つけられずに黙り込む。波音ばかりが耳朶に響く、沈黙の時間が長く続いた。
「理鶯さん」
果てしない沈黙を破ったのは、波琉だった。
「なんだろうか」
「──わたし……理鶯さんのことが、好きです」
衝動的に口をついた言葉。最後は尻すぼみになってしまったが、理鶯の耳にはしっかり届いたらしい。凪いだ海のような瞳が大きく見開かれる。
「──それは、困ったな」
理鶯がぽつりと呟いた。なんとなくそうだろうと分かりきっていたものの、やはり直接言われると胸にくるものがある。痛い、鋭くひんやりしたものが心臓に突き立てられたような。波琉はじわじわと心臓が凍りついていくのを感じながらも、次の言葉を繋ぐ。
「あ、いえ!これは、昨日のバトルに胸を打たれて、伝えたくなったと言いますか……だから、その、決して深い意味は……!」
「小官の恋人になるつもりはないということか?」
「そ、そうです!なので、理鶯さんとはこれまで通りの──」
「困ったな」
「……え?」
「優勝したら、小官は波琉に好きだと伝えようと思っていた。それを先に言われるとは思ってもみなかった」
「っ、」
ひゅっと喉が鳴った。理鶯の言葉に思考回路が一瞬でショートしてしまった。何かを言おうにも言葉がまとまらず、上手く出てこない。
「次のバトルでは必ず優勝する。その時、改めて小官から波琉に告白しても良いだろうか」
「え、あ──」
理鶯が手を伸ばしてくる。その手が頬に触れたかと思えば、するりと親指で一撫でされた。少しかさついた指の感覚に思わず鼓動が跳ねる。
「小官は波琉との関係を、より深いものにしたいと思っている」
そう言って柔らかく笑んだ理鶯のコバルトブルーの瞳に火が灯ったように感じた波琉は思わず腰が砕けそうになった。──目が、逸らせない。胸の奥がじわじわと波立っていく。波琉はこの時初めて、毒島メイソン理鶯という男が紳士的な軍人であると同時に、狙った獲物は確実に捕らえる《狩猟者》であることを知った。
覚えたての鼓動が沈まぬうちに
title by 失青
20200221(0228修正)
|