※バレンタインSS再録

──今年もこの日がやってきた。
2月14日、巷ではバレンタインデーと言われる、世間が賑わいを見せる大イベントの一つ。だが、いつも以上に甘ったるく、浮ついた空気を醸し出しながら街中を歩くカップル達とは裏腹に波琉の足取りは重かった。波琉もかつては好きな男子に手作りの本命チョコを渡したり、仲の良い友達と一緒にお菓子を作っては友チョコを交換しあったりと、それなりにバレンタインを楽しんでいた時期があったが、社会人として多忙な日々を過ごしていくにつれ、いつのまにかバラエティボックスタイプのチョコを購入するだけの──職場の恒例行事という形でしかバレンタインを楽しまなくなっていた。チョコを手作りすることはおろか、個人に渡すなんてもう久しくしていない。もちろん、良いなと思う人がいないわけではないが、その人とはまだ知り合って間もない。それに元軍人ということもあって、彼はこういったイベント事には無縁なタイプだとなんとなく察しがついている。とはいえ、こうしてカップル達の幸せそうな雰囲気をひしひしと感じ取ると、日頃の感謝という形としてでもバレンタインチョコを用意しておけば良かったかなと、ほんの少し後悔の念に駆られる。──いやいや、彼とは今日会う約束すら取りつけていないというのに。

「……早く帰ろっと」

心にむくりと湧き上がった気持ちを振り払う。今日は世間が賑わいを見せるバレンタインデーだが、普通の金曜日でもある。明日は休みだし、晩酌でもしながらゆっくりしよう──。気を取り直した波琉は駅に向かって足早に歩き始める。しかし、駅前に近づくにつれて、行き交う人々が何かを見てざわめき立っていることに気がついた。何かあるんだろうかと周りをきょろきょろ見回していると、不意に誰かに名前を呼ばれた。

「え、理鶯さ──!?」

視線の先にはついさっきまで考えていた彼──理鶯の姿が。ヨコハマ郊外の森に居を構えているはずの理鶯がどうしてここに──という疑問の前に、波琉は理鶯がその手に抱えている赤いバラの花束に目を奪われてしまった。体格の良い理鶯が持っていても少し大きいと感じるそれは100本近く束ねられているように見える。まるでこちらの帰りを今か今かと待ち構えていたような理鶯の佇まいに波琉は思わず足を止めた。驚きで固まったままの波琉をよそに理鶯は人混みを掻き分けてゆっくりと歩み寄ってくる。いやいや、まさか──。そう否定しながらも淡い期待が胸に去来して、とくんと鼓動が跳ねた。

「波琉」
「は、はい……!」

ほんの僅かな距離を残して立ち止まった理鶯が徐ろに片膝をつく。その自然な動作に、まるで映画のワンシーンみたいだと思った。瞬間、いつのまにかできていた人だかりから、わあっと大きな歓声が上がって波琉はハッと現実に引き戻される。そういえば、向こうのバレンタインでは男性から女性に贈るのが一般的だったような──。ふと、そのことが思い出されると心臓の鼓動がより一層激しさを増した。2月14日、バレンタインデー、そして赤いバラの花束。それらの意味が理解出来ない程、子供ではない。

「Will you be my Valentine?」

そう言って差し出されたバラの花束を反射的に受け取ると、想像以上の重さがずっしりと腕にのしかかってきた。その重さに驚きながらも、波琉の頭の中はすでに理鶯がなんと言ったのかでいっぱいになっていた。『バレンタイン』という単語だけは辛うじて聞き取れた。けれど、理鶯の聴き心地の良い声から紡ぎ出された英語は流暢過ぎて、それ以外の単語は聴き取ることができなかった。学生時代、もうちょっと真面目に英語を勉強しておけば良かったと心の中で強く後悔していると、それが顔に滲み出ていたのか、理鶯がふっと柔らかな笑みを零した。いつもは背の高い理鶯をこちらが見上げているからか、反対に今こうして見上げられていることがなんだか新鮮で──それでいて気恥ずかしい。

「今夜は波琉と一緒にいたいのだが、構わないだろうか?」

そんな殺し文句を恥ずかしげもなく、さらりと言いのける理鶯に波琉はただ首を縦に振ることしかできなかった。



title by 失青
20200509

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