《──運命さえ引き千切って僕ら駆け出してしまおうよ》
それはかつて一世を風靡した、身分の違う者同士の大恋愛を描いたベストセラー小説の一節。主人公のロマンチックな告白シーンに、当時学生だった波琉は自分にもそんな運命の相手が現れたらと胸をときめかせ、夢を見ていた。しかし、運命の人と出会うことなく時は流れ──社会人になった今、波琉は仕事に忙殺される日々を過ごしていた。


履き慣れないヒールのせいか、足が痛む。この日のために新調したインディゴブルーのワンピースに身を包んだ波琉は華金特有の賑やかな雰囲気が漂う街中を重苦しい空気を纏いながらずんずんと歩いていた。人波を掻き分けながら横断歩道を渡りきり、脇道に入る。足早に向かった先は大通りから一本外れた裏路地にひっそりと店を構えているバーのPort harbor。チリン、とドアベルが鳴る中で店内に足を踏み入れると、心地の良いムーディーなピアノジャズが耳朶に触れる。「いらっしゃい」とカウンターでグラスを拭いていた店主のアミリアと目が合った。

「アミリアさん、こんばんは」
「あら、今日は例の彼とデートする日じゃなかったかしら?」
「そうだったんですけど……」
「──その様子じゃ、また上手くいかなかったようね」
「あはは、その通りです」

アミリアに促されて波琉はカウンターの端席に腰を下ろす。金曜とあってかPort harborは普段よりも客が入っていて、テーブル席は2〜3人のグループでほぼ埋まっていた。

「なら、今夜は気が済むまで飲みなさいな」
「ありがとうございます」
「最初はいつもの濃いめハイボールでいいかしら」
「はい」

先にお洒落な小鉢に入ったお通しのナッツが目の前に出される。波琉はナッツを1つ口に入れると、鞄の中からスマホを取り出した。あの様子じゃ2回目はないだろうな、と頭の片隅で思いつつもトーク画面を開いて『今日はありがとうございました!とても美味しかったです』と文章を打ち込んだ。最後に、笑顔の絵文字を文末に添えてメッセージを送信する。大きく息を吐き出してスマホをカウンターに伏せて置くと、タイミング良くハイボールが差し出された。アミリアからハイボールを受け取った波琉はそのままグラスを口に近づけると一思いにぐっと呷る。ウィスキーの芳醇な香りが鼻腔を擽り、シュワシュワと弾ける強炭酸が喉元を程良く刺激した。最初の一口でグラスの半分以上を開けた波琉の勢いに「相変わらずいい飲みっぷりね」とアミリアが破顔した。

「それで?今日のお相手とはどんな感じだったのかしら?」

先程まで波琉は今流行りのマッチングアプリで出会った、商社に勤める男性とヨコハマの夜景が一望できるランドシティータワー内のレストランで食事をしていた。プロフィール写真からいだいた印象の通り、彼はとても人当たりの良さそうな爽やかな人物で、メッセージのやり取り同様に話も弾んだ。だが、楽しい時間を過ごしていたのも束の間、「そういえば神坂さんのご職業って公務員でしたよね?その中でもどういった系統のお仕事なんですか?」と、有耶無耶にしていた話題を掘り返す一言から形勢は逆転してしまった。食事の場で直接問いかけられ、これ以上は隠し通せないと悟った波琉は渋々口を開く。

「実は……ヨコハマ署で働いています」
「へぇ、警察事務ですか?」
「いえ、一警察官として勤務しています」

その瞬間、彼の表情が驚愕に変わる。僅かに引きつった目元を見て、波琉は心の中でひどく落胆した。「そうなんですか、すごいですね……」という言葉を最後に、先程まで弾んでいた会話は嘘のように尻すぼみになっていき、やがてその気まずい雰囲気を払拭できないまま解散という流れとなった──。

「もう嫌になっちゃいますよー」

アミリアに事の顛末を話し終えた波琉は僅かに残ったハイボールを飲み干す。「おかわり」と空になったグラスを返しながら呟くと、ふっと小さな溜め息をついた。
3年前に新しい政治体制になったとはいえ、このご時世でも合コンや街コンといったものは廃れずに残っていて──警察官という職業柄、出会いの場が少ない波琉も仕事の合間を縫ってそれなりにコンテンツを利用していた。色んなタイプの男性とマッチングして、メッセージのやり取りや食事を何度か経験したが、どの男性とも上手く行かずに全戦全敗。繰り返し失敗してきたこそ、今回こそはと慎重に行動してきたはずだったのに。

「──警察って職業を理解してくれる人なんているんですかねー」
「案外近くにいるんじゃないかしら?」
「近く、ですか」
「『灯台下暗し』ってよく言うでしょ」

微笑んだアミリアに言われ、周りにいる同期や後輩といった顔を次々と思い浮かべたものの──いやいやいや、と頭を軽く振って追い払う。出会いの少ない業界ではあるものの、同じ職業の人間だけは勘弁したい。

「本当に近くにいるなら、こんなに苦労しませんってー」

再びナッツを頬張り、カリカリとした歯応えを楽しみながら波琉は壁面をぼんやりと眺めた。そこには波琉の知らないウィスキーやリキュールのボトルがたくさん飾られている。あのお酒は一体どんな味がするのだろう、どんなカクテルが作れるのだろうと想いを馳せていると、チリン、と来客を告げるドアベルが耳に届いた。そして、一拍置いて「あら、毒島くん。いらっしゃい」とアミリアの声。『毒島』という言葉に反応して振り返ると、目を引くような赤毛が目に飛び込んできた。──その男は知り合いの毒島メイソン理鶯だった。
理鶯とは数ヶ月前にこの店で知り合った。仕事終わりにたまたま立ち寄った時、同じヨコハマ署勤務であり先輩の銃兎が理鶯と飲んでいる場面にたまたま遭遇したことが始まりだった。銃兎を介して互いに自己紹介し、成り行きで2人の飲みに混ぜてもらうことになった。銃兎がチームを組む理鶯が元軍人であることは風の噂で聞いていたものの、実際に会って話をしてみると想像していたよりも穏やかで物腰が柔らかい。たった数時間という短い時間ながらも理鶯と打ち解けた波琉は、それ以来パトロール中に街中で理鶯と会うようになった。だが、こうしてPort harborで会うのは意外にも銃兎と一緒に飲んだ以来。プライベートでは久しぶりだなあ、と理鶯の方を見ていると、不意に視線が絡まった。その瞬間、理鶯の目が僅かに見開かれる。かち合った視線に会釈すると、理鶯が微笑をたたえながらこちらに近づいてきた。

「波琉か」
「こんばんは、毒島さん」
「一瞬、誰だか判断が出来なかった。──美しい青色だな、とてもよく似合っている」
「わ、ありがとうございます……!」

ワンピースを褒められて、波琉は嬉しさに胸が弾む。

「もし波琉が良ければ、隣に座ってもいいだろうか」
「あ、もちろんです!どうぞ」
「すまないな」
「今日はお一人なんですね」
「ああ、少し飲みたくなってな」
「奇遇ですね!わたしもなんです」
「──はい、波琉は濃いめのハイボール。毒島くんはいつものウイスキーのロックね」

アミリアからお酒を受け取ると、どちらともなくグラスを軽くぶつけて乾杯する。

「……ところで、今日はいつもと装いが違うが、何処かへ出かけていたのか?」
「あー……実は今日、マッチングアプリで出会った男性と食事に行ったんです」
「……ほぅ。だが、浮かない顔をしているな」
「まあ、ちょっと上手くいかなかったんですよー」

軽い調子で話を切り上げようとしたものの、2人の会話を聞いていたアミリアが「毒島くんにもさっきの話、聞いてもらったら?」と、すっと言葉を挟んできた。アミリアの言葉に波琉は慌てて顔の前で手を振る。

「え!?そんな大した話では……!」
「小官で良ければ話を聞こう」

理鶯の快い返事にアミリアは笑顔で頷くと「じゃ、他の客の相手をしてくるから毒島くん、後はよろしくね」とそそくさと移動してしまった。知り合いではあるものの、まだそこまで込み入った話をするような仲までには至っていない理鶯と不覚にも2人きりにされ、僅かに緊張が走る。すでに聞く態勢を取り始めている理鶯を前に、波琉は咳払いをして居住まいを正すと「話せば長くなるんですけど……」と話し始めた。──いつもよりピッチが早いこと、そして理鶯がとても聞き上手なこともあって波琉の緊張感は徐々に薄れていき、気がつけば今日の出来事だけでなく、過去に出会ってきた人々についても堰を切ったように吐き出していた。

「あっ、すみません……!なんか、わたしばっかり喋っちゃって」
「いや、気にする必要はない。だが、色々と苦労していたのだな」
「あははは……」
「そうだ、景気づけに1杯馳走させてくれないか」
「いいんですか?」
「もちろん。最近気に入ってるカクテルがあってな。……度数が少し高いが、大丈夫か?」
「大丈夫です、毒島さんありがとうございます」

波琉の答えに理鶯は微かに笑みを浮かべると、常連客と談笑しているアミリアを呼ぶ。

「アイオープナーを2つ作ってくれ」

理鶯の注文に一瞬、驚きの表情を見せたアミリアだったが「毒島くんも意外にロマンチストなのね」と何処か含みのある笑みを浮かべると、グラスを用意してカクテルを作り始めた。アイオープナーという名前は聞いたことあるものの、実際に飲んだことはない。一体、どんなお酒なんだろうと波琉は手際良くカクテルを作るアミリアの手元を興味深く見つめていた。

「はい、おまたせ。アイオープナーよ」

差し出されたカクテルグラスにはヨークイエローの液体が注がれている。店内の照明を受けたそれは美しい輝きを放っていた。

「……波琉も気に入ってくれるといいのだが」
「あ、はい。では、いただきます」

波琉はアイオープナーを口に運ぶ。その瞬間、独特で不思議な味わいが口いっぱいに広がった。

「ん、独特な味ですね……。でも、美味しいです」
「そうか、良かった」

ふと、会話が途切れる。アミリアはいつのまにか常連客の元へ戻っていて、波琉は理鶯との間に流れ始めたそこはかとない気まずさを紛らわすかのようにもう一度グラスに口をつけた。目を見張る程、癖になる味。味わいながらちびちびとアイオープナーを飲んでいると、今までしんと静まり返っていたスマホが小さく震えた。波琉は画面を覗き込み──そして、がっくりと肩を落とす。同僚からの他愛もないメッセージが届いただけ。先程送ったメッセージへの返信は通知になかった。

「やっぱり、警官って敬遠されるのかな……」

心の中で思っていたことが声になって溜め息と共に零れ落ちる。

「……小官はそうは思わないがな」

返ってきた慰めの言葉に波琉は口角を持ち上げる。

「そう言ってくれるの、毒島さんくらいですよー!あー、毒島さんのように警察の仕事に理解ある人に出会えたらいいんですけどねー」

酔った勢いもあって波琉は軽い冗談を口にする。だが、理鶯は真剣な面持ちで覗き込むように顔を近づけてきた。縮まったその距離感に鼓動が跳ねる。

「では、小官と付き合うのはどうだ?」
「え……?」

予想だにしていなかった返答に面食らう。毒島さんも冗談を言うことなんてあるんだと思っていると、理鶯は表情を一切変えずに言葉を続ける。

「小官は他の男と違って警察の人間だからと言って敬遠しない。それに波琉の予定にもフレキシブルに対応できるぞ」
「ぶ、毒島さん……酔ってますか?」
「酔ってなどいない」
「えっ、じゃあ……」
「小官は波琉に初めて会った時から運命を感じていた」

呼吸が、止まる。理鶯のコバルトブルーの瞳に射抜かれて、アルコールでぼーっとしていた頭が徐々に冴えていく。理鶯の瞳には普段目にする凪いだ海のような穏やかさはなく、見たこともない色が滲み出ていた。心臓が今までにない早鐘を打ち始める。

「それって、つまり、その……」
「波琉が好きだということだ」

理鶯の言葉はまさに青天の霹靂だった。何か言わなければと思うものの、言葉が喉に引っかかって上手く出てきてくれない。理鶯を見つめたまま狼狽えていると、不意に理鶯の表情が柔らいだ。──その柔和な笑みに、目が眩む。
『運命』とは人の想いを超えた力。波琉は胸の中で何かが沸き立つ気配を感じ取った。



企画「表白」様に提出
20201119

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