流川楓。1年生にして湘北高校男子バスケ部のエース──と人は言うけれど、波琉にとって流川は授業中もずっと寝てばかりいるクラスメイトでしかなかった。




制服から袴に着替え、女子更衣室を出る。剣道部の部室に向かおうとしていた波琉はちょうどバスケ部の部室から出てきた流川とばったり鉢合わせした。湘北に入学して数ヶ月。クラスメイトでありながら、流川の目がしっかりと開いているところを初めて見た波琉は思わず「あっ」と声を漏らしてしまった。その声に、ふっと流川の顔がこちらを向く。波琉は流川の鋭い視線に射抜かれた。

「……おめーは」
「あー、えっと、神坂です。同じクラスの」

知らないと思うけど、という言葉はすんでのところで飲み込む。同じクラスという言葉に反応した流川は「あー……」と呟くや否や、目をしぱしぱと瞬かせ、物珍しそうに波琉が着ている袴を上から下に視線を向けた。

「……剣道、か?」
「うん、そうだよ」
「へー」
「……あ、なんか引き止めちゃってごめん。流川くんもバスケ頑張って」
「うっす」

互いに会釈をすると、流川はくるりと波琉に背を向ける。一番奥の体育館へと向かう流川の後ろ姿を見送って、波琉は肺に溜めていた息を一気に吐き出した。流川と会話をする日がくるなんて思ってもみなかった波琉は「緊張したなー」と独りごち、それから部室に足を踏み入れた。
練習が終わり、帰り支度をする。制服に着替え終えた波琉は忘れ物チェックのために剣道場と部室の見回りをしていた。今日は波琉が戸締まりの当番の日。しっかりと戸締まりをし、職員室に鍵を返しに行こうと歩き出した瞬間、体育館からボールの跳ねる音が微かに聞こえたような気がして、波琉は足を止めて振り返った。──バスケ部はまだ練習しているのか、すごいなあ。湘北バスケ部は全国大会出場、そして全国制覇を目標にしているという。波琉の足はドリブルの音に惹きつけられるように体育館へと向かっていく。音を立てないようにゆっくりと扉を引いて、僅かな隙間からこっそり中の様子を窺うと、一人でシューティング練習をしている流川の後ろ姿が目に飛び込んできた。波琉はハッと息を呑む。淡々とシュートを打ち続ける流川に波琉はたちまち目を奪われてしまう。素人の波琉の目から見ても、流川のシュートモーションは流れるように滑らかでとても美しく思われた。いつもはあの大きな体を小さく折り畳み、机の上に突っ伏して寝ているのに──。同級生の今まで知らなかった一面を目の当たりにした波琉は心の内を激しく揺さぶられたような感覚に陥る。すごい、と流川の姿をしばらく魅入るように見つめていた波琉はハッと我に返ると、そっと扉を閉めて踵を返した。
その日以来、自主練をする流川の姿が脳裏に焼きついて離れなかった波琉は、やがて流川に対して憧憬の念をいだくようになった。流川のバスケへの情熱に感化され、波琉は──同じ1年生ながらすでに試合で活躍している流川には遠く及ばないものの──自分ももっと剣道を頑張りたいと思うようになり、週に何度か剣道場に残っては自主練をするようになった。


自主練を終えて、帰り支度を済ませた波琉はまだボールの音が響く体育館へと足を向けた。自主練を終えた後、こっそりと流川の練習を見学することが日課になっていた。いつものようにゆっくりと扉を開けて、僅かな隙間を作って覗き込む──が、今日に限って手前のリングを使っている流川とバッチリ目が合ってしまい、波琉は思わず飛び上がりそうになった。しまった、慌ててこの場から立ち去ろうとしたものの、それよりも早く「おい」と背後から声をかけられてしまった。波琉はピタリと立ち止まり、ゆっくりと後ろを振り返った。

「……神坂?」
「え、あー、お、お疲れー……」

体育館の扉から頭を出して、こちらをじっと見ている流川に向かって波琉はぎこちない笑みを浮かべる。覗き見していた理由について、どう言い訳したものか考えを巡らせていると──。

「入れば?」
「え?」

流川からの思いがけない一言に波琉は耳を疑った。

「い、いいの?」
「まあ、別に」
「……じゃあ、あの、お言葉に甘えてお邪魔します」

流川に誘われた波琉はおずおずと体育館に踏み入った。こんな時間に体育館に入るのは初めてだ。全校集会や体育の授業で何度も使っているはずなのに、何処か神聖な空気を漂わせている体育館に波琉は自然と背筋を伸ばす。

「今まで練習してたのか?」
「あ、えっと、自主練をしてて」
「ふーん」
「で、帰ろうと思ったらボールの音が聞こえてきたから、誰か残ってるのかな……って。他の部活の練習を見たことなかったから新鮮で……つい……」

ここ最近ずっと覗いていた──とは口が裂けても言えなかった。

「……見たいなら、テキトーに座っとけば」
「え、あ、ありがとう」

コートの外、邪魔にならないであろう場所に「失礼します」と波琉は腰をおろす。流川は右腕に抱えていたボールでドリブルをつき始めると、シュート練習を再開させた。流川が放つボールは綺麗にゴールに吸い寄せられていく。ゴールネットが静かに揺れる様を波琉はじっと見つめていた。


それから波琉は体育館の中で流川の自主練を見学させてもらうようになった。
ひょんなきっかけから流川との接点ができたものの、教室では一切喋ることはなかった。流川が淡々とシューティングなどの自主練をし、波琉はそれをただ眺める──部活終わりの時間を少しだけ共有する不思議な関係。だが、この距離感は波琉にとって心地の良いものだった。

「ちょっと、タオル取ってくる」
「うん、分かった」

一息ついて、流川が体育館を出て行く。体育館に一人ぽつんと取り残されてしまった波琉は徐ろに腰を上げるとボールの入ったカゴに近づいていった。

「わ、おっきい……」

流川が持っている時はそうは思わなかったのに、いざ自分が手に持ってみるとボールはとても大きく感じられた。体育の授業でしかバスケットボールをしたことがなかった波琉は遠慮がちにその場でドリブルをつく。ダムダム、と耳触りの良い音が体育館に反響した。フリースローサークルの真ん中に立つと、波琉は先程までここからシュートを打っていた流川の姿を思い出して、ボールを胸元に構える。

「えいっ」

力任せにボールを投げたものの、波琉の投げたボールはリングはおろかネットにも掠ることなく奥の壁にぶつかると、そのまま真っ直ぐ波琉の元に転がってきた。とん、とん、とん、虚しく戻ってきたボールを拾い上げると、次は膝を思いきり曲げてボールを投げた。今度は辛うじてリングに当たったものの、そのせいであらぬ方向に飛んでいく。波琉はバウンドするボールを慌てて追いかけては再びゴールに向かって投げる。端から見ればきっとボールに遊ばれているようにしか見えないだろう──。波琉は何処か虚しさを感じながらも、再びフリースローラインに立った。ぐっと力を込めてボールを投げようとした瞬間、突然「ちげー」という声が頭上から降ってきて波琉はぴしゃりと動きを止めた。背後から2本の腕が伸びてきて、ボールを持っていた波琉の手を掴む。わっ、と声にならない声が唇から微かに漏れた。

「持ち方は──」

自分よりも大きく、そして意外にもしっかり骨張った流川の手に波琉は不覚にもドキッとする。まるで後ろから抱きしめられているような体勢と間近で感じる声と吐息に意識を持っていかれて、流川が何と言っているのか全く耳に入ってこなかった。

「──で、打ってみろ」

かろうじて聞き取れた『手首をきかせろ』と『リングの奥を狙え』というアドバイスを元に波琉はボールを手放す。ボールはゴールに向かって緩い放物線を描き──リングにガタガタと当たりながら、ゆっくりとゴールネットを通り抜けていった。

「は、入った……!」

驚きと感動で思わず後ろを振り返ると、想像していたよりも近くに流川が立っていて波琉は再び動きを止める。

「……ま、いいんじゃねーの」

相変わらずの無表情。しかし、流川の口角がほんの少し上がっているように感じられて、波琉は反射的に視線を足元に落とした。──心臓が僅かに逸る。

「練習の邪魔しちゃったね、ごめん。わ、わたしもう帰るから……!」

早口で捲し立てた波琉はコートの外に置いていた自分の荷物を腕に抱えると、流川の返事も聞かずに早足で体育館を後にした。


次の日の放課後。いつもより少し長めの自主練を終えて剣道場を出ると「神坂」と声をかけられた。振り返った先にいたのは流川で、制服に着替えて荷物を抱えていた。今日の自主練はもう終わったのだろう。

「る、流川くん……!今から、帰るの?」
「……ああ、おめーはまだ残ってたんだな」
「うん、今日は先輩と、一緒だったから」
「そうか、オツカレ」
「あ、ありがとう……流川くんも練習お疲れ様。じゃあ、また、明日ね」
「……おー」

流川と挨拶を交わし、職員室に鍵を返しに行った波琉は下駄箱でローファーに履き替えると、足早に昇降口を出た。外はすっかり日が落ちて暗くなっている。ふと、波琉は正門を微かに照らす街灯の下に自転車に跨っている人影を見つけた。見覚えのある影にじっと目を凝らす。──あれ、わたしより先に帰ったはずじゃ……。そんな疑問を頭に浮かべながら、波琉は人影に近づいていく。ぼんやりとした人影が鮮明になった時、影がふっと動いた。

「流川くん……どうして……?」
「待ってた」
「え?……わ、わたしを?」
「家まで送る」
「え、大丈夫だよ……!わたしの家、近いから!」
「それでも、あぶねーだろ。家、どっち」

押し問答を繰り返すものの、流川はなかなか引き下がってはくれなかった。このままじゃ埒が開かないと判断した波琉はとうとう観念し、流川の言葉に甘えて家まで送ってもらうことにした。
流川との間にほとんど会話はなく、チャリチャリと自転車が転がる音だけが耳朶に触れる。波琉は横目で流川の顔を盗み見た。流川は口を引き結び、真っ直ぐ前を見据えている。波琉は気まずさよりも流川と並び立って歩いているという事実に不思議な感覚を覚えていた。

「あ、家、あそこだから……もう大丈夫だよ」
「分かった」
「うん。流川くん、遠回りなのにわざわざありがとう」
「……別に、こっちは自転車だし」
「それでも、ありがとう。……じゃあ、おやすみなさい」
「オヤスミ」

流川は自転車に跨るとイヤホンを両耳につけ、颯爽と漕ぎ出していった。角を左折し、流川の姿はすぐに波琉の目の前から消える。波琉は流川が曲がった角をしばらく見つめてから、家の中へ入っていった。


翌日。教室に入ると、何処か興奮を抑えきれないような表情をした友人が一目散に駆け寄ってきた。

「ねぇねぇ!」
「ど、どうしたの?」
「ちょっと……!昨日、流川くんと一緒に帰ったんだって?」
「え!?だ、誰がそんなこと……!」
「なんか、隣のクラスの子が塾帰りに見たんだってさー。恋人同士みたいだったって!」
「こ、恋人!?」

友人はニヤニヤしながら腕を小突いてくる。

「流川くんといつのまに仲良くなってたのよー!」
「ち、違う違う!そんなんじゃないよ!たまたま、帰る時間が一緒になっただけで……!」

──結局、波琉は今日一日、休み時間ごとにたくさんの人から何度も何度も質問攻めに遭っては弁解し続ける羽目になってしまった。同じことの繰り返しにすっかり疲れ果ててしまった波琉はホームルームが終わると、一目散に剣道場へ向かう。ようやく一息つけると思った矢先、波琉の前に3人の女子生徒の姿が現れた。剣道場前で何かを待ち構えているその異様な光景に目を丸くしていると、その内の1人とばっちり目が合う。指をさされたかと思えば、あっという間に彼女達に詰め寄られていた。

「ちょっと!あなた!」
「は、はい……!?」
「今、流川くんは大事な時期なの!邪魔しないでくれる!?」
「もうすぐ大事な決勝リーグが始まるんだからね!」
「そうよ!そうよ!流川くんはあなたと違って全国区の選手なのよ!」

彼女達は矢継ぎ早に厳しい言葉を浴びせてくる。波琉はその迫力に気圧されて、一言も言葉を返すことができなかった。思いの丈を全て吐き出して満足したのか、彼女達は鼻を鳴らすと、さっと身を翻して体育館に向かって走り去っていく。まるで大きな嵐が過ぎ去った後のように、波琉はその場でただ立ち尽くす他なかった。

「あの人達、流川親衛隊のメンバーだよ」

いつのまにか背後に来ていた剣道部の同期に声をかけられて、波琉は我に返る。

「……あ、うん、そうだね」

波琉は心にモヤモヤしたものが芽生えるのを感じながら「流川くん!今日も頑張ってー!」と黄色い声を上げる彼女達の背中から、そっと目を離した。


部活が終わっても波琉は一人剣道場に残って、一心不乱に竹刀を振り続けていた。

「今、流川くんは大事な時期なの!邪魔しないでくれる!?」

──そんなこと。

「もうすぐ大事な決勝リーグが始まるんだからね!」

──そんなこと。

「そうよ!そうよ!流川くんはあなたと違って全国区の選手なのよ!」

振っていた竹刀が汗のせいで手からすっぽ抜けた。竹刀が派手に床に打ちつけられた音が剣道場に響き渡る。波琉は肩で息をしながら、ゆるゆると膝を折ってその場に倒れ込んだ。静寂が再び剣道場を支配する。──そんなこと、言われなくてもわたしが一番分かっている、のに。改めて突きつけられた事実に、波琉は下唇を噛みしめた。
流川親衛隊からの忠告を受けて以降、波琉は部活が終わると体育館には一切寄らず、真っ直ぐ家に帰るようになった。それは忠告を受けたからだけではない、自分でもそうした方がいいと判断したからだ。とはいえ、波琉の心にはそこはかとない気まずさだけが残った。勝手に見学していた身ではあるものの、やはり何も言わずに体育館へ行かなくなってしまったのは不味かったかもしれない。しかし、今更体育館にのこのこと顔を出すわけにもいかず──。なんとなく流川と顔を合わせづらくなってしまった波琉はなるべく流川が起きている時間に顔を合わせないよう、注意深く学校生活を送っていた。
そんな、ある日の放課後。いつも通り素早く着替え、更衣室からそろそろと顔を出した時だった。波琉の目の前に突然、ぬっと大きな影が落ちてきた。影の正体を認めた波琉は驚きのあまり目を大きく見開く。

「う、わっ、流川……くん……」
「おい」

感情の読めない表情に波琉は息を呑んだ。

「ちょっと来い」
「え、ちょっ……!」

流川に腕を取られた波琉は更衣室から引っ張り出された。波琉は足がもつれそうになりながら「待ってよ……!」と前を行く背中に向かって声を張り上げるものの、流川は制止の声も聞かずにずんずん歩いていく。剣道場や体育館から遠ざかっていく中、背後からどよめきが聞こえて、たまらず後ろを振り返る。そこにはバスケ部員達がいた。助けて、と懇願するが彼らは口をあんぐりと開けて棒立ちになっているだけで、誰も波琉を助けてはくれなかった。
必死の抵抗も虚しく、ぐいぐいと流川に連れてこられたのは体育館裏だった。そこでようやく波琉は腕を解放してもらえた。「流川くん……」と声を絞り出すと、流川がゆっくり振り返る。眉を寄せてこちらを見下ろす、その何とも言えない威圧感に波琉は怖気づく。静寂が支配する体育館裏、先に口を開いたのは流川の方だった。

「……なんか、したか?」
「どういう、こと、?」
「体育館、急に来なくなったろ。……オレは、おめーになんかしたのか」
「あー、それは……その、流川くん、今大切な時期でしょ?だから、邪魔しちゃ悪いかなーと思って」

波琉の返答に、流川は更に眉を寄せた。

「邪魔だなんて、思ってねー」
「え?」
「むしろ……おめーが傍にいると、落ち着く」
「る、流川くん」
「好きだ」

思ってもみなかった言葉に心を乱される。いっそう強くなった流川の威圧感に思わず一歩後退ると、すかさずその一歩を流川が縮めてきた。「嘘、でしょ?」と無意識に言葉を零すと、波琉は流川に再び手を取られた。声を上げる間もなく引っ張られ、そのまま、薄い──けれどしっかりと筋肉がついた胸に押し当てられた。流川は何も言わない。けれど、Tシャツ越しに伝わる鼓動は自分と同じ。流川の心臓はどくどくと、今にも突き破りそうな程に激しく脈打っていた。それが、流川の言葉が冗談ではなく本気であることを証明していた。波琉の頭は混乱に陥る。──待って、好きって、どういう、そんな、いつから。

「おめーは……神坂は、オレのことどう思ってんだ」

射抜くような力強い瞳に見つめられて、波琉は唾を飲み込んだ。

「え、えっと……」

何を、どう答えたらいいのだろうか。はくはく、と口が開いては閉じるを繰り返す。流川はクラスメイトで、部活終わりの時間を少しだけ共有する関係だ。友情と憧れが綯い交ぜになった感情がぐるぐると頭の中を駆け巡る。

「わたしも、流川くんといるのは、落ち着くよ。でも……その、ずっと友達だと思ってたから……急にそんなこと、言われて、も」
「なら、これから意識すればいい」
「──っ、」

不意に、ぽん、と頭に手を置かれた。たった一瞬の出来事だったが、波琉の思考を停止させるには十分だった。

「部活、終わったら待ってろ」

流川は一言そう呟くと、波琉の返事を待たずに先に体育館へ戻っていってしまった。ぶっきらぼう、けれど何処か優しさを含んだ声色に感じられて、波琉は思わず両手で顔を覆った。触れられた部分から熱が広がっていく。
波琉はもう、すでに流川のことを意識し始めていた。部活が終われば、一体どんな顔で会えばいいのだろうか──。考えれば考える程、鼓動は収まるどころかどんどん速くなっていった。








20201214 - req boxよりバスケ部以外の部活所属夢主と流川

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