純白のシャツがより一層肌に纏わり付く夕方。日直に当たっていた波琉はクラスメイトがいなくなった教室で1人、日誌の書き込みや黒板掃除、担任から頼まれた掲示物の張り替えの仕事をこなしていた。通常、日直の仕事は2人1組で行うものの、肝心のもう1人は県大会前の大事なタイム測定があるとかなんとか──ホームルームが終わるとすぐに教室を飛び出して部活へ行ってしまった。開けっ放しの窓の向こうからは、鬱陶しい程の蝉の声と生温い微風が吹き込んでくるだけ。爽快さの一つもありはしない。べたつく肌に嫌気が差しながらも黒板掃除をしていると、いきなり突風が巻き起こり、教卓の上に避難させていたチョークや古い掲示物が風に押されて床へ落ちてしまった。
「あーあ……」
その場にしゃがみ込み、落ちた衝撃で割れてしまったチョークと散らかった掲示物を拾い集めていると、何やら廊下から男女の言い争うような声が聞こえてきた。こちらへどんどん近づいてくる声は徐々に鮮明になっていき──教室の後ろ扉が勢い良く開かれる音と共に波琉の耳を劈いた。声の主達が教室に入ってきたのを感じて、波琉は反射的に動きを止める。見知った声だった。
「なんだよ、鬱陶しいな」
「先輩!わたし本気なんです!」
男の声の主はクラスメイトの三井寿。もう1人の声に波琉は聞き覚えがなかったが、会話からして、最近三井の周りをうろうろしているという2つ下の女子生徒のものに違いない。2人が一体何故ここにやって来たのか、ふとした疑問が頭を過る。だが、その疑問は女子生徒のある一言によって頭から吹き飛ばされてしまった。ちょうど2人からは波琉の姿と教卓とが重なっているらしい──この教室にもう1人の人間がいることも知らず「三井先輩のことが好きなんです!」と女子生徒は叫んだ。世紀の大告白に波琉はぎょっと肩を揺らした。
三井寿。特段仲が良いというわけではないが、この春まで不良として名を馳せていた男だった。だが、ある事件をきっかけに三井は更生し、元いたバスケ部に復帰した。顔立ちは良い方だったようで、長かった髪を切り、脱・不良をすると、あれよあれよと年下を中心に人気が上がっていったのだった。
「だから言ってんだろ、付き合えねぇって」
「どうしてですか!」
「……好きな奴が、いる」
「それはわたしの知っている人ですか?」
「お前には関係ねぇ」
「わたしには知る権利があります!」
まさか、どこかの漫画で読んだことあるような展開に遭遇するなんて。不思議なことも起こるのか、と思った。ピリピリとした空気が張りつめる。にしても、あの三井に好きな人がいるとは──。ただならぬ雰囲気に、波琉は固唾を呑んで次に三井が発するであろう言葉を待ち構える。
「オレが好きなのは……神坂波琉って奴だ」
ん?どういうことだ?と頭の中で三井の言葉を咀嚼し、噛み砕く。そうして理解した瞬間、波琉は自分の置かれた状況に血の気が引いた。この教室には3人の人間しかいない。自分と三井に好意を持っている女子生徒、そして自分に好意を持っている(らしい)三井。もし何かの拍子にここにいることが見つかってしまえば──考えただけでぞくぞくと恐怖が背中を這った。修羅場を恐れた波琉は物音を立てないよう、そろりと教卓の下に滑りこんだ。身体を小さく折り畳んで息を潜める。
「これで満足だろ。分かったならとっとと行け。これから部活なんだよ」
振られた女子生徒は聞き取れるギリギリの声で「分かりました」と呟く。泣いているのだろう、微かに鼻をすする音がした。パタパタ、と上靴の音が遠くなっていく。人の気配を感じなくなるまで教卓の下でじっとしていた波琉は、そろそろと様子を窺いながら教卓から──。
「こんなとこで何やってんだ」
「ぎゃあああああ!!」
脱出しかけたところで、ぬるりと右側から三井の顔が現れた。あまりにも不可抗力だったために波琉は教卓の角に頭を打ち付ける。ごつん、と鈍い音がした。
「色気のねぇ声」
「ど、どうして……!」
「バーカ、足元が見え見えなんだよ」
「あっ!」
しまった。足元を見られているとは露知らず。この非常にまずい状況に波琉は息を呑む。まさか、三井の好きな人がわたしだなんてそんな馬鹿な話。なんとか話を逸らさないと──。後頭部をさすりながら波琉は必死に思考を張り巡らせた。
「な、んでここに……部活、じゃなかった、の?」
「ああ……これ」
三井が手に持っていたのは、今日が提出期限の進路希望調査表。希望欄には雑な字体で大学進学と書かれていた。出し忘れたのか、と波琉は小さく溜め息をついた。
「なら、早く出して練習、行ってきな、よ」
「ああ、そうだな……」
そう言いながらも、三井は波琉を逃さないように教卓の縁に両手を置き、しゃがみこむ。互いの息が吹きかかる程の距離、捲られた練習着の袖から伸びる、程良い筋肉がついた腕に不覚にもどきりと胸が高鳴る。
「さっきの話聞いてたよな」
「え、あーっと……」
「神坂、好きだ。……お前はオレのこと、どう思ってる?」
真っ直ぐな目で見つめられる。心を掴まれたような気がして、目を逸らせない。
「ど、どう思ってって言われても……三井はクラスメイトで……そんな、恋愛対象として見たことなんて……」
「俺のこと嫌いか?」
「嫌いじゃ、ない。……けど、そこまで深く知ってるわけじゃない、し」
返事はなかった。ただ、無言のまま三井の顔が近づいてくる。三井と教卓に挟まれ、逃げようにも逃げられない状況に反射的に目を瞑る。チョークを持った手が少し震えた。
「……え?」
──左瞼に柔らかい感触。固く閉じた瞼をゆっくり開けると、再び目が合った。三井の手が波琉の顎に添えられる。少しカサついた親指が優しい手つきで唇をなぞった。
「教えてやるよ、オレのこと」
三井の低い声が鼓膜を震わせた。まるで時間が止まったかのような、恐ろしい程の静寂な空間に呼吸するのを忘れてしまいそうになる。しばらく見つめ合っていた2人だったが、三井の手が名残惜しそうに離れていく。
「そろそろ、部活行くわ」
「……あ、う、うん」
1人、教室に残された波琉は唖然としたままその場から動けずにいた。三井になぞられた唇にそっと触れる。
教えてやるよ、オレのこと──。
先程の光景がフラッシュバックする。ただのクラスメイト、喋ることも深く関わることもなかった。それなのに今は三井の顔ばかりが脳裏を過る。眉間に刻まれた皺に、真っ直ぐに自分を射抜いてくる眼光、そして精悍な顔立ちをあれ程間近に見るのは初めてだった。──熱い視線を受け、高まった鼓動は治ることを知らない。
(瞼へのキスは憧憬)
title by へそ
20160608
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