友人からどうしても一緒に行って欲しいと頼み込まれて、波琉はタロット占いを専門とする店を訪れていた。友人の恋愛に関する占いが終わり、波琉の番がやって来る。友人と違って占いをそこまで信じない波琉はあまり気乗りしなかったものの、とりあえず友人と同じ恋愛についてを占ってもらうことに。シャッフルされたカードから、なんとなくでカードを1枚選ぶ。占い師の手によってそれが捲られると、『希望』や『ひらめき』などを暗示する正位置の星の絵柄が現れた。
「願い事を叶えるチャンスが到来だね。理想的な男性との出会い……もしくは君に今、想いを寄せている男性がいるのなら、その人との恋が期待できる。けれど──」
◇
週明けの月曜日。予鈴が鳴ると廊下がより一層騒がしくなる。それはギリギリに登校してきた生徒達の慌ただしさだけではない。程なくして「キャー!JOJOー!」と耳を劈くような黄色い声と「やかましい!」という怒号が辺りに響き渡る。しかし、喧騒は止むどころか一段と盛り上がり、教室にだんだん近づいてくる。この喧騒の中心人物──空条承太郎が八の字を寄せたまま教室に入ってくると、承太郎を取り巻いていた女子生徒達は入口から教室の中を覗き込んで「また後でね〜!」と承太郎に手を振って各々のクラスに散らばっていった。──これがこの学校の、このクラスの日常だ。
空条承太郎を知らない者はこの学校にはいない。不良のレッテルを貼られているものの、背が高くてがっちりとした体格にまるで彫刻のような端正な顔立ち──そして海を思わせる日本人離れしたエメラルドグリーンの瞳と、天に二物も三物も与えられたその容貌からファンクラブができる程、女子生徒達に人気があり、承太郎はいつも追いかけられていた。かく言う波琉もそんな承太郎に対して淡い想いを抱いている1人だった。最も波琉はファンクラブに入っている彼女達のように、黄色い声を上げることも承太郎を追いかけることもないが──。
波琉が承太郎を異性としてハッキリ意識したのは高校2年の夏の終わり。たまたま目が合ったというだけで先生から雑用を頼まれてしまい、次の授業に必要だという教材が入った段ボールを4階の社会科準備室から2階の自教室まで運んでいた時のことだった。割と横幅のある大きめの段ボールだったために足元が全く見えず、波琉は誤って階段を一段踏み外して足を滑らせてしまった。段ボールで両手が塞がっていて手摺りに掴まることもできず、危うく下まで転げ落ちそうになるところを波琉は後ろから誰かに抱き留められた。両肩に感じる手のぬくもりと、微かな煙草の匂いが鼻腔を擽る。助けてくれた感謝を述べながら顔を上げると、エメラルドグリーンの瞳と視線がぶつかった。その瞬間、波琉の心臓が大きく跳ねた。呼吸を忘れて、キラキラと光る美しい色に吸い込まれそうになる。──その瞳の持ち主が波琉の学年で有名な空条承太郎であると気づくのに、時間はかからなかった。
「──大丈夫か」
耳触りの良い声が波琉の鼓膜を震わせた。あまりの衝撃に言葉を発することができず、波琉は承太郎の問いかけに頷いて答える。「そうか」と短く呟いた承太郎に支えられて体勢を整えると、両肩に置かれていた承太郎の手が離れた。
「やれやれ……気をつけな」
承太郎は帽子の鍔に指を当てると、その場に波琉を残してすたすたと階段を下りていった。波琉は呆然としたまま、遠のいていく承太郎の背中を見送る。未成年が煙草を吸ってはいけないのに──承太郎から漂う大人の残り香に波琉の心はざわざわと落ち着かなかった。美しいエメラルドグリーンの瞳、鼓膜を震わせた承太郎の声が不意に思い出されて、心臓の拍動はより一層強くなっていった。その日を境に波琉は承太郎の姿を校内で見かける度にそっと目で追いかけ始めた。あれから学年が一つ上がり、高校3年生になった波琉は念願叶って承太郎と同じクラスになれたものの、未だに話すどころか近づくことすらできずにいた。
自分には承太郎を取り巻く彼女達のような勇気も度胸も持ち合わせていない。彼女達はどれだけ喧しいと怒鳴られても、決して臆することなくJOJOが私に声を掛けてくれたとポジティブに捉える。もし自分があの迫力のある声で喧しいと一喝されてしまったら、きっと立ち直れなくなってしまう。波琉は彼女達のポジティブさが少しだけ羨ましかった。波琉にできるのは遠く離れたところからこうして見つめることだけ。波琉は頬杖をついて窓の外に視線を移す。──占いは当てにならない。これは、臆病者の恋なのだから。
最後のホームルームが終わると、承太郎はいの一番に教室から出て行った。その後を追うように女子達が「待って〜!」と声を上げて廊下を駆けて行く。その一連の流れを見送ってからゆるゆると腰を上げた波琉は、承太郎や取り巻きの女子達が走り去った方向とは反対に歩き出した。
渡り廊下を渡って東棟の4階、一番奥にある図書室を訪れた波琉は借りていた小説を返却すると、新しく借りる本を求めて本棚の間を歩き回った。──ふと目についた本を引き抜き、背表紙のあらすじにざっと目を通す。興味を惹かれた波琉はそのまま本を手に窓際のソファー席へ移動し、腰を下ろした。週に一度、必ず訪れる図書室での時間が波琉にとって至福の時間だった。喧騒から離れ、ひっそりとした静けさの中で聞こえるのは自分の息遣いとページを捲る紙の音だけ。
小一時間程、読書に没頭していた波琉はキリの良いところで切り上げると、パタリと本を閉じて貸出カウンターへ向かった。本を借りた波琉は図書室を後にし、たんたんとリズミカルに階段を降りていく。授業が終わってから1時間も経てば校舎内はすっかり人気がなくなっていた。どこからともなく聞こえるトランペットの音に耳を傾けながら静謐さを湛えた昇降口に降り立つと、波琉はぴたりと足を止めた。昇降口前に1人で佇む大きな人影を見たからだ。後ろ姿でもそれが誰だかすぐに分かる。真っ先に教室を出たからとっくに帰っているものだと思っていたのに。誰かを待っているように見てとれる承太郎が気になって、波琉はチラチラと目をやる。友達──いや、もしかしたら恋人を待っているのかもしれない。そんな考えに至った瞬間、ちくりと針で刺されたような痛みが心臓を襲った。承太郎は女子に人気があるのだから、恋人がいても何もおかしくはないはずなのに。波琉は上履きからローファーに履き替えると、目線を足元に落とす。クラスメイトとはいえ、またねと挨拶することもできずに波琉は静かに承太郎の横を通り過ぎた。階段を降りようとする直前で承太郎の「おい」と呼びかける声が聞こえてきて、波琉は反射的に足を止めてしまった。自分が呼ばれたわけではないのに立ち止まってしまうなんて。自意識過剰だ、と心の中で呟いて歩き出そうとすると、もう一度同じ声が聞こえた。だが、それに返事をする者はいない。もしかして、いや、そんなことあり得るわけがない──そう否定しながらも波琉は振り返らずにはいられなかった。おずおずと後ろを見ると、ガラス扉の脇に背を預けたままの承太郎がじっとこちらを見つめていた。帽子の鍔の下から覗くエメラルドグリーンの瞳に、波琉は思わず体が竦む。
「一度しか言わねぇから、よく聞け」
「は、はいっ」
何の脈絡もなく発せられた言葉と承太郎に声を掛けられた驚きで声が上擦る。──今までこっそり見つめていたことがバレたのだろうか。気持ち悪いからやめろなどと言われるのだろうか。波琉の脳裏には承太郎に怒られることばかりが過る。心臓が鷲掴みされているかのようにきりきりと痛んだが、風に乗って波琉の耳に届いた言葉は波琉の予想とは全く異なるものだった。
「好きだ、俺と付き合ってくれねぇか」
「……えっ、うん、?」
波琉は自分の耳を疑った。聞き間違いだろうか。好き、とは。付き合ってくれ、とは。目をぱちぱちと瞬かせて必死に頭を働かせるものの、狼狽えることしかできない。波琉はすぐ後ろに階段があることも忘れて思わず後退りした。刹那、がっくりと膝が曲がってバランスを崩す。あっ、と波琉は来たる衝撃に備えて目をぎゅっと瞑った。──しかし、いくら待てど体に衝撃が来ることはなかった。ふと、嗅いだことのある煙草の匂いが鼻先を掠める。薄目を開けると、眼前には改造された学ラン。まさか、と体を強張らせながらそろそろと視線を上げると恐ろしい程に整った承太郎の顔が目に映った。波琉の口から「ひえっ」と声が漏れ出る。助けられたのは、これで2度目。承太郎の片腕がしっかりと背中に回されていて、波琉の体を支えていた。先程までガラス扉の脇にいたはずの承太郎にどうして抱き寄せられているのか──。だが、その疑問は口を結んだままじっとこちらを見つめてくる承太郎のせいで、すぐに頭から吹き飛んでしまった。宝石のように眩い瞳からの熱視線にぐつぐつと頭が茹だりそうになる。──どうにか、なってしまいそうだ。承太郎の眼光に耐えきれなくなって、波琉は咄嗟に視線を落とした。
「怖がらせるつもりはなかった。……すまなかったな」
静かな声がぽとりと落ちてきた。背中に回されていた腕が離れる。ハッとしたと同時に波琉の横を「じゃあな」と承太郎が通り過ぎた。翻った学ランの裾が視界の端に映り込む。
「あ……」
違う、そんな、つもりじゃなかった。このままでは怖がっていると誤解されたままになってしまう。だが、否定したいのに喉に引っかかって声が思うように出ない。焦り始める波琉の脳裏に、ふと先日訪れた占い師の言葉が浮かんだ。──けれど、チャンスが訪れたからといって行動しなければ意味がない。自分の直感を信じろ、と。波琉はスカートの裾を強く握りしめて、自分の心を奮い立たせる。
「ま、待って……!」
思っていたよりも大きな声が出て、自分でも驚いた。階段を降りきった承太郎の足がぴたりと止まる。
「あの!わたし、空条くんのこと、怖いとか、そんなんじゃなくて……!」
承太郎がゆっくりと振り返った。波琉は承太郎の視線を受けて気恥ずかしさでいっぱいになるものの、必死に言葉を紡いだ。
「その、びっくりしたと言うか……空条くんを前にすると緊張する、と言います、か」
──初めて、そのエメラルドグリーンの瞳を間近で見たあの日から。
「わたしも、空条くんが好き、だから……」
段々と尻すぼみになっていき、最後はきちんと声に出せたのかは分からない。波琉はきょろきょろと視線を彷徨わせた。まるで時が止まったような錯覚に陥る程、辺りは静寂に包まれている。自分の心臓の鼓動だけがやたらと大きく聞こえた。
「返事は『はい』ってことで良いんだな」
じんと響いた承太郎の声に、小さく頷く。
「早く慣れてもらわねぇと困る」
「あ、その、善処……します……」
「なら、帰るぜ。波琉」
承太郎は帽子の鍔を摘むと、さっと踵を返して歩き始めた。一瞬遅れて波琉は気づく。なんで、どうして、名前──。逸る鼓動に思考が飲み込まれていく。
「ま、待って!空条くん……!」
承太郎を小走りで追いかけた波琉は少し躊躇いがちに隣に並び立つ。承太郎の様子を横目で窺おうとすると、承太郎もまたこちらを向いていてばっちりと視線が交わった。まさか承太郎に見られているとは思っていなかった波琉は小さく肩を揺らす。
「……承太郎でいい」
「え?」
「呼び名だ」
「え、っと、承太郎……くん……」
緊張した声で名前を口にすると、承太郎の顔は帽子の影に隠れてしまった。
「くん≠ヘいらねぇが……まあ、最初はそれで勘弁しといてやる」
だが、口端に微笑が浮かんでいるのが見えて波琉は小さく息を呑んだ。早く慣れろと言われたもののドキドキする瞬間があまりにも多すぎる。果たして慣れることなんてできるのだろうか──。今まで知らなかった承太郎の表情を前にして、波琉は顔に熱が集まっていくのを感じた。
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20210108
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