※大逆2本編後の話

彫刻のように均整のとれた顔は相変わらず息を呑む程に美しい──。そんなことを考えながら解剖記録に目を落とすバロックの顔をじっと見つめていると、記録を一通り読み終えたバロックがふと顔を上げ、眉間に皺を寄せた。

「私の顔に何かついているだろうか」
「えっ、あ、いえ!なんでもありません!」
「……ならば良いが」
「はい!では、失礼いたします……!」

ハルはバロックに深々と一礼すると、執務室を後にする。重厚な扉をゆっくり締め、深く息を吐き出した。
バロック・バンジークスは英国の優秀な検事であり、そしてハルの憧れだった。『検事』と『監察医』、職種は違うものの同じ司法に携わる者としてバロックの仕事ぶりには学ぶべきことが多くあり、様々な事件を通してハルはバロックの背中を見続けてきた。しかし、その長年の『憧れ』が『恋慕』へと姿を変えたのはつい数ヶ月前──英国犯罪史上最悪の事件と言われた『プロフェッサー事件』の真相が10年の時を経て、明かされた後のことだった。中央刑事裁判所オールドベイリーの《死神》という名に相応しい、冷たく陰鬱な空気を纏い続けてきたバロックがまるで憑き物が落ちたかのように時折柔らかな表情を浮かべるようになったのだ。今まで見ることのなかった一面を目の当たりにし、ハルの中で何かが弾けた。だが、ハルは自分の立場を弁えていた。何故なら大英帝国は厳格な階級社会。バロックは司法界の《純血種サラブレッド》と謳われる名門・バンジークス家の人間であり、かたやハルは中産階級の家庭に生まれ育った人間。──あまりにも家の格が違いすぎた。巷で流行している大衆娯楽小説の中には身分違いの恋愛や結婚を題材にした作品も幾つかあったが、それは所詮、おとぎ話に過ぎない。貴族は貴族同士、釣り合いの取れた結婚をするのがこの世の中の常識だ。
それに、バロック・バンジークスに纏わりついていた《死神》の呪いが無くなった今、名家の令嬢達がこぞって色めき立っている──とは知り合いの大探偵、シャーロック・ホームズの談である。《死神》の正体が暴かれる前はバロックへの黒い噂や疑惑が絶えなかった倫敦警視庁スコットランドヤード内も、今ではすっかりバロックがいつ身を固めるかとの噂で持ちきりだった。今はまだ『プロフェッサー事件』が尾を引いているものの、いずれ落ち着きを取り戻した暁には名家の令嬢を妻に迎えるのだろう。そんな未来を想像しただけで一抹の寂しさが過るが、これが正しい社会の在り方だ。寄り添うことは叶わずとも、仕事仲間として傍にいられるのであればそれで満足だと、ハルは思っていた。


事件が立て続けに起こり、研究室に籠りっぱなしの日々が続いていたが、ようやく仕事から解放されたハルは数日ぶりに家に帰ることができた。研究室を出て、背筋を伸ばしながら見上げた空はどんよりとした雲に覆われ、風も徐々に強さを増している。これは荒れそうだなと独りごちたハルの鼻先に、ぽとりと滴が落ちた。天気が荒れる前に帰ろうと、早足で大通り沿いを歩いていると一台の馬車が横を通り過ぎた。──派手さはないが、洗練された格調高いデザイン。そしてその外観にはバンジークス家の紋章があしらわれている。馬車がゆっくりと速度を落として停車するや否や、扉が開いて中からバロックが姿を現した。

「バンジークス検事……!」
「今、帰りか」
「はい!そうです」
「そうであったか。──ならば、家まで送ろう」
「えっ、よろしいのですか?」
「そなたさえ良ければ、構わない」

わざわざ馬車を止めてもらったのだ、ハルはバロックの厚意に甘え、家まで送ってもらうことにした。馬車に乗り込み、座り心地の良い座席シートに体を預けると、馬車は滑らかに走り始めた。馬蹄と車輪の軽快な音が耳朶に触れる。真向かいに座るバロックはすでに腕を組んで瞑目していた。仕事の付き合いは長いし、密かに想いを寄せてはいるが、バロックとは気兼ねなく話せる間柄というわけではない。そのため車内は静寂に包まれていたが、その静けさが不思議と心地良かった。ハルは視線を小窓から見える外の景色に移す。──本格的に雨が、降り始めた。

「──好いている」

馬車がハルの住む地区エリアの近くに差しかかり始めた頃、静寂を切り裂くように、ぽつりと聞こえたバロックの声。しかし、雨音と馬車の軽快な音をBGMにぼーっとしていたハルはバロックの言葉を聞き逃してしまった。「え?」とハルは真正面のバロックに向き直る。──アイスブルーの瞳と視線が交わった。その真剣な眼差しにハルは一瞬、呼吸を忘れそうになった。

「そなたを好いている、と言ったのだ」

それはあまりにも唐突で、ハルはその言葉の意味を咀嚼しきれなかった。ぐっと締めつけられたように心臓が痛む。

「えっ、と……それ、は……あの、」
「そのままの意味だ。冗談などではない」

バロックへの想いと階級社会のしがらみがハルの中でせめぎ合う。バロックの熱の籠った瞳を前に、心が揺らいでしまいそうになった。だが、もしこの想いに応えてしまったら、自分はまだしもバンジークス家の地位や名声が更に落ちるのは明白だ。──ハルは、崩れそうになる心の均衡バランスを必死に保つ。

「……っ、その、お気持ちはとてもありがたいですが……わたしにはお応えすることは、できません」

ハルは深く頭を下げた。やや間があって「そうか、分かった」と静かな声が耳に届いた。

「突然、すまなかった」
「っ、いえ……」

互いに口を噤む。先程よりも重苦しい静寂が車内を漂っていた。結局、気まずさを払拭できないまま馬車がハルの家の前に到着した。送ってもらった感謝の言葉を述べながら馬車を降りるが、ハルはバロックの顔を上手く見ることができなかった。
衝撃的な告白を受けてからというもの、ハルは心に大きな蟠りを抱えたまま日々を過ごしていた。脳裏を過るのは決まって断った瞬間だった。もう少し言い様があったのではないか、あれでは気まずさを残してしまったのではないか、と。現にこの数日間、ハルはバロックと顔を合わせていない。やってしまったなあ、ともう何度目かになる後悔の念に駆られながら高等法院を訪れたハルは、エントランスで亜双義一真の姿を見つけた。幸か不幸か、亜双義の近くにバロックの姿は見えなかった。

「アソーギ検事……!」
「ああ、これはドクター。首席判事に報告ですか?」
「ええ、そうです」

そう言ってハルは笑みを浮かべる。亜双義はバロックに師事し英国司法を学んでいる日本人だが、同世代ということもあってハルにとっては気兼ねなく話ができる仕事仲間であり、初めてできた異国の友人だった。世間話から始まった会話は弾みを見せながら、様々な話題へと発展していく。ふと、人の気配を感じて目を動かすと、視線の先にバロックがいた。ハルは顔を一瞬強張らせたものの、バロックの纏う雰囲気やこちらを見つめる双眸は以前と変わらないように感じられた。気まずさを残してしまう断り方をしてしまったと思っていたが、どうやら心配は杞憂だったようだ。ハルは良かった、と表情を崩してバロックと挨拶を交わす。──ふと、香水の匂いが鼻腔を擽った。
バロックも交えて3人で軽く話をした後、ハルは裁判の準備があるからと検事局へ戻っていく2人の背中を見送る。ふと、微かな違和感を覚えた。

「そう言えば今日のバンジークス検事、なんか香水の匂いが少しだけ強かったような……」

けれど、何事にも細かい拘りを持つ検事が、香水の種類を変えてもいないのに噴霧する量をいきなり変えたりするだろうか──。ハルは遠ざかっていくバロックの背中を見つめながら首を傾げる。

「うーん、気のせいか……」

そう独りごちたハルは踵を返して、目的地である首席判事執務室へと向かった。──その後はあの日の出来事がまるで夢だったかのように、バロックとは以前と変わらない良好な関係が続いていた。


それは倫敦ロンドンの空に久しぶりの晴れ間が覗き込んだ日のこと。バロックへ解剖記録を渡すために検事局へやって来たハルだったが、訪問のタイミングが悪かったのか、バロックも亜双義も席を外していた。また後で伺おうと執務室を後にし、階段を下りてエントランスまで戻ってくるとハルは入口付近でバロックの姿を見つけた。ちょうど良かった、ハルは声をかけようと口を開きかけたが、すぐさま閉じる。バロックの傍にクラシカルなドレスに身を包んだ見目麗しい女性がいたからだ。どうやら話をしているらしい。ハルは2人の話が終わるまで少し待っていようと、階段脇の壁に凭れて遠目から事の成り行きを見守る。話の内容は分からないが、バロックとその女性はとても仲睦まじく見えた。一体、2人はどんな関係なのだろう──。瞬きにも満たないほんの一瞬、ハルの心が僅かに疼いた。
女性が検事局から優雅に去っていく。女性の後ろ姿から視線を外したバロックと不覚にも目が合った。少しだけ油断していたハルは慌てて壁から背中を離すと、深く頭を下げる。バロックが徐々に近づいてくるのが足音で分かった。

「不躾な視線を送ってくる者がいるかと思えば、そなたであったか」
「す、すみません……」
「──して、私に何か用だろうか?」
「か、解剖記録が出来上がりましたので、お届けに参りました……っ」

無意識に胸元に抱え込んでいた鞄から封筒を取り出し、バロックに渡そうとする。だが、バロックは差し出された封筒には目もくれず、じっとハルを見つめていた。バロックから射抜くような視線を受けてハルはたじろぐ。あの、と言葉を発しようとした瞬間、今まで引き結ばれていたバロックの口が徐ろに開いた。

「やはり目というものは雄弁に語るものだな、ハル」

甘さを孕んだ低音がじんと耳に響き渡った。ファーストネームを呼ばれて、心の奥底で白波が立つ。息を呑んだハルは視線をさっと足元に落とした。その瞬間、ハルは今まで感じていた違和感の正体にようやく気がついた。以前よりも、ほんの僅かだが、バロックとの距離が近くなっていたのだ。ふわりと香った香水の匂いに心臓がざわざわと騒がしくなる。──気のせいなんかじゃ、ない。

「そなた、どんな目でこちらを見ていたのか自分で分かっているのか?」
「……えっ、」

再び顔を上げると、バロックの右手がすっと伸びてきて──指先を掠めた。一瞬の出来事に、ハルは戸惑うことしかできなかった。触れられたところがじんわりと熱を持ち始める。

「期待しても良いということか」
「え、あ、」

返すべき言葉が見つからず狼狽えていると、バロックがフッと小さく笑みを零した。

「まあ良い。わざわざご苦労だった。……それではドクター、私はこれで失礼する」

ハルの手からするりと封筒を引き抜いたバロックは、何事もなかったかのように颯爽と去っていった。足音が遠のいていくのを耳で感じながら、ハルは膝から崩れ落ちそうになるのをなんとか堪えて再び壁に背中を預けた。じわじわと熱が脳を侵していく。わたしは一体、どんな目で──。バロックの言葉を思い出すだけで恥ずかしさが増す。そして、とうとう耐え切れなくなったハルは声にならない声をあげて、両掌で顔を覆った。




翌日、資料を作成していたハルの元に、朝からずっと処置室に籠っていたマリア・グーロイネが解剖記録を持ってやって来た。

「これ、検事局まで届けて欲しいの」
「……わたしが、ですか?」
「うん。ハルも裁判用の資料作ってるんでしょ?ついでに持っていって。じゃあ、ロイネはしばらく寝台ベッドで仮眠を取るから」

そう言ってグーロイネはハルに解剖記録を押しつけて、再び処置室の中へと消えてしまった。ハルはその解剖記録に目を落とす。彼女が執刀したのはバロックが担当する事件の被害者。つまり、この記録はバロックに手渡さなければならないものだ。不意に昨日のことが思い出される。熱を帯びたアイスブルーの瞳、微かに触れた指先の確かなぬくもり、そして甘さを孕んだ──。

「……っ!」

鮮明に焼きついている記憶を慌てて頭の隅に追い払う。昨日の今日で、一体どんな顔をして会えばいいのだろうか。──はあ、と長嘆息が思わず口から零れ落ちた。
倫敦ロンドンの空は相変わらずすっきりとしない。グーロイネから頼まれた解剖記録と完成させた資料を持って、ハルは辻馬車で検事局へと向かっていた。一定のリズムを刻む馬蹄と車輪の音に耳を傾けながら、気を落ち着かせる。やがて検事局に到着すると、厳かな門扉をくぐり抜けて局内へ踏み込んだ。エントランスを真っ直ぐ突き抜けて階段を駆け上がり、バロックの執務室前に到着する。一度深呼吸をしてから扉をノックし、所属と名前を告げるとすぐに「どうぞ」と中から声が聞こえてきた。ハルは心の中で自分に活を入れると、意を決して執務室に足を踏み入れた。ぐるりと室内を見渡し、そして心の中で安堵する。部屋には亜双義だけしかいなかった。

「お疲れ様です、アソーギ検事だけですか?」
「ええ、バンジークス卿は首席判事に呼ばれて高等法院へ出向いています」
「そうですか」

よし、今のうちに資料を渡してさっさと帰ってしまおう──。ハルは足早に亜双義に近づく。

「頼まれていた資料と、あとこれはドクター・グーロイネからバンジークス検事宛ての解剖記録です。渡しておいていただけると助かります」
「ああ、承知した」
「では、わたしはこれで──」
「すまない、少しよろしいだろうか」
「え?」
「この部分なんだが……」

そう呟きながら亜双義は執務室の中央にある円卓テーブル上に置かれた事件現場の模型に向かって歩いていく。ハルのまとめた資料を受け、事件の詳しい状況を検討をしたいと言う。一刻も早く執務室から飛び出したかったハルだが、亜双義の頼みを断ることなどできない。どうかこの部屋の主が早く帰ってきませんように、と頭の片隅で思いながらハルは亜双義と共に事件の検討を始めた。

「来ていたのか」

突然、耳元で響いた声にハルの肩が思いきり跳ねる。亜双義とのやり取りに熱中していたせいなのか、扉が開く音も近づいてくる足音や気配さえも感じなかった。亜双義が「お戻りになりましたか」と言う。まさかと思いながら恐る恐る振り返ると、目の前にバロックが立っていた。ハルはバロックの足元をちらりと見やると、静かに息を呑む。端から見れば決して分からない──バロックの想いを知っているハルだけに伝わるよう巧妙に仕組まれた絶妙な距離感。ドギマギするハルを他所にバロックは平然とした顔で亜双義に話しかける。

「2人で事件の検討をしていたのか」
「ええ、頼んでいた資料を届けに来てくださったので。ああ、そうだ、検事にも解剖記録のお届けものです」
「うむ、確認しておこう。わざわざ届けてくれたこと感謝する、ドクター」

ハルはハッとする。「は、はいっ」と弾けるように返事をすると、バロックは僅かに口元に笑みを乗せて、窓際の仕事机へ足早に向かっていった。無意識に、その背中を目で追う。

「……ドクター?どうしました?」
「あ、いや、なんでもないです!えーっと、何処まで説明しましたっけ?」

気を取り直して、ハルは亜双義との話を続ける。やがて亜双義は何か思うところがあったのか、親指と人差し指を顎に添えて熟考の時間に入ってしまった。手持ち無沙汰になったハルは何気なく視線を彷徨わせる。亜双義の向こう側、資料に目を通しているはずのバロックがじっとこちらを見ていた。思いがけずかち合った視線に、呼吸のリズムが僅かに狂う。バロックは亜双義の方を一瞥すると、ハルに向かって魅惑的な笑みを浮かべて人差し指を唇に当てた。──その罪作りな目配せに、ひどく心が乱される。もうどうしようもない程に心の均衡バランスが崩れていくのが分かった。



企画「題名」様に提出
20210227

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