昼休みを挟んでの微睡む午後一の日本史の授業。しかし、授業の始まりを告げるチャイムが鳴っても、このクラスの日本史を受け持つ教師は一向に姿を現さなかった。無情にも時間は過ぎていき、徐々に教室内は騒めきで満たされていく。「そろそろ様子見に行った方がええんちゃう?」と痺れを切らした誰かがそう言った瞬間、勢い良く教室の扉が開かれる。一瞬にして静まり返ったクラスの全注目を浴びながら現れたのは、違うクラスの授業を受け持っている教師だった。

「えー……柴崎先生は今、ちょっと手が離されへん状態になってます。申し訳ないけど今日の授業は自習っちゅーことで。ちなみにプリント預かってるから、教科書を見ながら穴を埋めるように!ちゃんとすんねんぞ!」

プリントを配り終えると、そそくさと退出しようとする先生の姿を全員が見つめる。ピシャリと扉が閉められ、靴音が足早に遠ざかっていくのを聞いたクラスメイト達は『自習』という言葉にガッツポーズを大きく掲げた。配られたプリントには目もくれず、各々好き勝手にやり始める。自分の前後左右に座っていたはずの生徒達もプリントを机上に放置して、早くも中心にできた輪の中に次々と仲間入りしていった。波琉はというと、ガヤガヤと喧しい音を遮断するために鞄から音楽プレイヤーを取り出していた。ぐるぐると本体に巻きつけていた水色のイヤホンを解いて両耳に差し込むと、シャッフル再生にして音楽を流し始める。心地良い音色が聴覚を支配する。よし、と心の中で呟いた波琉は配られたプリントと教科書を広げ、アップテンポなメロディに乗せて教科書から答えを見つけてはプリントを埋めていった。──そうしてようやく左半分を埋め終わったところで突然、誰かの腕が伸びてくる気配がした。ハッとして顔を上げるよりも早く、それは波琉の髪を掠め、右耳のイヤホンを外した。今まで遮断していた周りの喧騒が耳をつんざく。目の前にはある男が座っていた。背凭れに片肘をつき、こちらを見るのは波琉がこのクラスで一番苦手意識を持つ男だった。南烈、豊玉高校の中でもトップクラスの曲者が揃うバスケ部のキャプテン。

「え……っと、なんか用?」

波琉と南はクラスメイト以外の接点はない。話したことも話しかけられたこともなく、これが南とのファーストコンタクトだった。南が何故自分の前の席に座っているのか、そもそもどうして彼にイヤホンを奪われているのか。波琉には全くもって見当がつかなかった。

「暇やったから。それからお前が何聴いてんのか気になった。──ふーん、こういう音楽聴くんやな」
「ちょっ、イヤホン返してや」

取られたイヤホンのコードに手を伸ばすが、南はイヤホンを取られまいと耳を手で覆って防御する。

「別に片方ぐらいええやろ。あ、この曲知ってんで」
「ほんまに?……じゃなくてプリントやってんねんけど」
「そんなん、後でちょちょいってやったらええねん。なあ、プレイヤー貸してや」

ほら、と南は左手を出してくる。特段プレイヤーに聴かれたくない音楽を入れているわけではないが、他人に自分のプレイリストを見られるのはなんだか恥ずかしい。そう思ってプレイヤーを渡すのに躊躇していると、南は急かすように更にずいっと手を伸ばしてきた。その様子に何をしても諦めてくれなさそうだと折れた波琉はスカートのポケットに入れていたプレイヤーを取り出し、渋々南の掌に置いた。

「おおきに」

南はそれを受け取ると慣れた手つきでボタンをカチカチと押す。中に入っている曲を見ているようだった。その間、波琉は南の手元に視線を動かしてボーッと眺める。白くて細い指だ。すらっと伸びるそれは関節の辺りで少し膨らんでいる。きっと、バスケの練習での怪我の跡なのだろう。

「曲変えてもええ?」
「あ、うん、ええけど」

カチッと一つ音が鳴ると、流れていたアップテンポな曲から落ち着いた曲に変わった。柔らかいアコースティックギターの音色に乗せて、少しクセのある声が耳元を通り過ぎる。恋する女の子の気持ちを綴った、優しくて切なくて、じんわりと心の奥が温かくなるようなこの曲は波琉が最近好きになった曲だった。波琉は目を閉じて自分だけに聞こえるように小さく口ずさむ。──こんな風に誰かを思い焦がれたことは、まだない。けれど、いつかこんな素敵な恋をしてみたいと思った。

「──好きや」
「うん、わたしも」

どうやら南もこの曲が好きらしい。意外だなあと思いながら曲に聴き入っていると、トントン、と机を叩く音がした。瞑っていた目を開けて南を視界に捉えると、少しだけ眉を寄せて不満げな表情をしていた。

「そういう意味とちゃうねん」
「何が?」
「さっきの好きやってやつ」

言っている意味が分からなくて首を傾げると、南は小さく息を吐いて背凭れから波琉の机に肘を立て直す。ぐいっと2人の距離が縮まった。

「せやから──」
「うん」
「せやから、お前が好きや言うてんねん」

南の口から小さく零れた声は周りの喧騒に飲み込まれる。けれど、確かに波琉の耳は南の言葉を聞いた。

「え?」
「……1回で理解せぇ、アホ」
「ご、ごめん……」

飄々とした南の真意が掴めない。何を考えているかよく分からない視線が波琉を射抜く。初めて会話をした人間にいきなり好きと言うのは一体全体どういうことなのだろうか。咀嚼しきれない南の言葉が喉元につっかえる。──もしかして、からかわれている?これは昔流行った罰ゲームか何かかもしれない。きっと、そうだ。タチの悪い罰ゲームなんだ。ごちゃついた頭の中を整理した矢先、南の口から予想外の言葉が紡がれる。

「オレは本気やで」
「え?」
「まあ、なんや。覚悟しとけっちゅーことや」

その言葉に完全に思考が停止する。まるで魚のように口をパクパクさせている波琉に「お前ほんまおもろいなあ」と南は不敵な笑みを浮かべる。その表情にぐらりと視界が揺れた。──ああ、やっぱりこの人は苦手だ。



title by へそ
20160707(前サイトよりリメイク)

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