※大逆2本編後。ネタバレあり

自分の中に芽生えた想いを何と呼ぶのかを自覚したバロックはそれ以来、職務の合間を縫って波琉との逢瀬を重ねた。そこには何気ない言葉が、二人の間を行き交う穏やかな日々が流れていた。

「十年という長い年月、私達《日本人》に対して抱き続けた想いを簡単に解きほぐせないことは分かっております。けれども……私はバンジークス検事様に心から信じてほしいと思うのです。そのために、私は精一杯の努力をしたいのです」

真っ直ぐな瞳で真っ直ぐな言葉で微笑んだ波琉をバロックは暗闇の中に射し込む一筋の光のようだと思った。温かで優しく、闇の中に佇んだままでいた己を導いてくれるような。時折、そのあまりにも眩しい光を本当に信用していいものかと勘繰った時もあったが、波琉はそれを咎めることなく、寄り添い続けてくれた。それは十年の時を経て、深い闇に葬られていたはずの事件の真相が暴かれても変わりはしなかった。
英国イギリス史上最大の事件と謳われた《プロフェッサー事件》の衝撃的な真相はこの国の司法を、そして由緒正しい法曹界の名門・バンジークス家の権威を大いに揺らがせた。世間に知られてしまえば倫敦ロンドン市民の信用を失う恐れがある程に。しかし、バロックは『真実を追求する者』として──たとえ自身が後ろ指を指されることになろうとも──事件の真相を世間に公表することに何ら躊躇いはなかった。
己の手で真相を公表して以降、新聞では連日《プロフェッサー事件》の記事が一面を飾った。警視庁ヤード、検事局、そしてバンジークス家には多数の新聞記者や市民達が押し寄せた。飛び交うは非難轟々の言葉達。それを覚悟の上で公表したにもかかわらず、やはり心ない言葉が日夜問わず耳に入ってくるのはさすがのバロックも堪えた。──それはかつて己に中央刑事裁判所オールドベイリーの《死神》という異名がつけられた頃と状況が非常によく似ていた。しかし、その頃と決定的に違うのは波琉という存在がいることだった。バロックといることで波琉も多少なりとも被害をこうむっているはずだったが、それをおくびにも出さず、バロックの前では気丈に振る舞い続けた。波琉のその強さと真相を知ってもなお変わらない心が、バロックにとって頼もしくあり、大きな精神的支柱となっていた。
人間の心というのは移ろいやすいもので、一月ひとつきも過ぎれば嘘のように人々の関心は新しいものに目移りしていった。そうして《プロフェッサー事件》の話題が少しずつ下火になり始めた頃、バロックは波琉からあることを告げられた。

「年が明けると、私の留学も終わるのでございます」

波琉は極東の日本からやって来た留学生だ。そう、最初から期限付きの恋であることは分かりきっていた。改めてその事実を眼前に突きつけられるとバロックの心はちくりと痛んだ。だが、波琉には波琉の人生がある。己のエゴで波琉を英国イギリスに引き止めることなど、できるわけがなかった。できることはただ一つ。今までと変わらずに波琉との穏やかな時間を過ごすだけだった。
そして──とうとう波琉の帰国する日がやって来た。日が昇り、空が少しずつ白み始めた頃。旅行鞄トランクを片手に忙しなく人々が行き交うプラットホームにバロックと波琉はいた。

「お忙しいところ、ここまで送ってくださりありがとうございます」
「……本当は港まで送りたかったのだが」
「ここで、十分にございます」
「……そうか」

仕事の都合により、ここでの見送りが最後となる。バロックは港まで同行できないことをもう一度詫びると、波琉の左手を取った。己よりも随分と小さな手、それにどれだけ助けられただろうか。幾度となく掬い上げられただろうか。バロックは流れるような所作で手の甲に唇を寄せる。波琉が故郷の日本へ帰った後、幸せにそして健やかに生きていくことを願って。それが自分ではない誰かと生涯を共にすることになったとしても。

「息災で……な」
「はい、バンジークス検事様も」

出発の刻を汽笛が告げる。名残を惜しむように二人の手がゆっくりと離れていく。この別れが今生の別れになる。言葉にしなくとも互いに理解していた。波琉は深々と一礼すると、旅行鞄トランクを持って汽車に乗り込んだ。ボックスシートの窓側に座った波琉が窓を開け、顔を出したところでゆっくりと汽車が動き出し始めた。バロックと波琉は一言も言葉を発することなく見つめ合っている。まるでお互いの姿を目に焼き付けるかのように。汽車は速度を上げ、だんだん遠ざかっていく。それでもバロックは波琉を見据えたまま動かない。それは波琉の姿が完全に見えなくなるまで続いた。
バロックの姿が完全に見えなくなると、波琉は窓から顔を引っ込めた。今になって哀切が波琉に容赦無く襲いかかる。一つの恋が、終わった。バロックはこの大英帝国の司法を担う誇り高き検事であり、由緒正しい貴族の身分だ。たとえ、その権威が失墜してもその事実は変わらない。極東の小さな国からやって来た自分とは住む世界も何もかもが違う。今まで傍にいることができたのは、ほとんど奇跡に近いものだったのだ。波琉は膝に乗せていた巾着から徐ろに一枚の栞を取り出す。栞には薄青色の花が美しい姿のままで閉じ込められていた。それはかつて波琉が零したバロックへの恋心、決して色褪せることのない想い。バロックの瞳と同じ薄青色を波琉は愛おしむようにそっと撫でる。宝石のように美しい瞳を思い出して、無性に瞼の裏が熱くなった。

「私、は──ッ」

波琉は栞を抱きしめるように胸元に引き寄せると、人知れず涙を流した。




あれから季節は巡り巡った。相変わらず倫敦ロンドンの犯罪発生率は上昇し続けており、バロックは多忙な日々を極めていた。バロックに対して、後ろ指を指す人間や罵倒を浴びせる人間は少なからずまだ存在していたが、バロックはただ前を向いて『真実を追求する者』としての職務を全うしていた。《死神》という存在は──憧れであり、目標であった存在はもう、いないのだから。
執務室でこれから始まる裁判の資料に改めて目を通していたバロックは切りの良いところで顔を上げると、短く息をついて背凭れに体を預けた。ふと、波琉の姿が脳裏に浮かび上がり、バロックの胸が微かな痛みを伴った。波琉が倫敦ロンドンから旅立ってもうかれこれ一年近くになる。波琉は故郷の日本で健やかに日々を暮らしているのだろうか──。バロックはデスクの引き出しに手をかける。そこには波琉へ宛てた手紙が書きかけのまま眠っていた。
一度、波琉から手紙が届いた。桜色の便箋には美しい英国語イングリッシュで無事に日本へ到着したこと、久方ぶりに龍ノ介や寿沙都と顔を合わせ、話に花が咲いたこと。そんな波琉の近況が事細かにしたためられていた。バロックはその手紙に対する返事を未だ出せずにいた。伝えたいことは山ほどある。だが、あの日引き止めなかった後悔の念を手紙にしたためてしまいそうで怖かった。傍にいてほしいと、どうしようもなく恋しいと。そして──できることなら自分の手で波琉を幸せにしたいと。しかし、それは口が裂けても伝えてはいけない言葉だった。バロックは思わず目頭を押さえた。今にも溢れ出しそうな波琉への想いに抗いながら。──コンコン、と控えめなノックの音でバロックは我に返る。開かれた扉の隙間から部下の亜双義がちらりと顔を覗かせる。

「バンジークス卿、そろそろ時間です」

亜双義の言葉にもうそんな時間だったかと時計を確認する。先程までの感傷を奥底に追いやり、バロックはいつもの落ち着きを払った表情に戻る。デスクに散らばった資料をサッとまとめてバッグに入れると、バロックは外套コート帽子ハットを着用し、執務室を後にした。


完璧な証拠、完璧な証人を持ってして審理を終えたバロックは亜双義と共に颯爽と廊下を歩いていた。これから高等法院へ赴き、審理の報告をしにいくためだ。午後からも別件の審理が執り行われるため、急がなければならない。バロックはポケットから懐中時計を取り出し時間を確認すると、エントランスに続く中央階段を足早に駆け下りた。階段を下りきってエントランスホールに足をつけたその時、艶やかな色を纏った人影が入口で佇んでいるのが目に留まり、バロックは思わず足を止めた。胸が騒がしくなる。──何故、ここに?いや、違う。これは都合の良い白昼夢だ。波琉はもう倫敦ロンドンにいない。恋しいと思う己の気持ちが見せる幻覚なのだとバロックは瞬きを繰り返す。しかし、その人影は消えるどころかバロックに気がつくと、美しい所作で深々と頭を下げた。それは紛れもない現実。まさか──。バロックは柄にもなく息を凝らした。

「……バンジークス卿、高等法院への報告は俺がしておきます」

入口に佇む人物を目の当たりにし、ひどく動揺した様子のバロックに何かただならぬものを感じ取った亜双義はバロックに一礼すると、この場から静かに立ち去った。亜双義がいなくなり、バロックは波琉と二人きりになった。他に行き交う人もおらず、しんと静まり返ったエントランスホールはまるで世界から切り離されたような疎外感を放っていた。波琉が大きな旅行鞄トランクを抱えてゆっくり近づいてくる。波琉の姿がだんだん鮮明になっていくにつれ、バロックの心は淡く甘く疼いていく。──変わらない。美しい立ち振る舞いも黒目がちな瞳も柔らかな表情も、何もかも。

「バンジークス検事様、ご無沙汰しております」

波琉の凜とした声が辺りに響く。

「不肖ながら倫敦ロンドンに戻ってまいりました」
「……戻った、だと?」
「……日本へ帰った後、私は女学校を退学したのでございます。両親や親戚一同にはこっぴどく叱られてしまいましたが、なんとか皆を説得して再び英国イギリスへ渡ることを認めてもらいました。もう二度と、故郷に帰るつもりはございません」
「……それは、一体」

波琉は目を閉じて一呼吸置くと、バロックを真っ直ぐ見据えた。その瞳には何かを決心したような真剣さが帯びていた。

「生まれた国も育ってきた環境も文化も身分も、私達は何もかも違います。乗り越えなければならない壁が高く聳え立っていることも、その先に数え切れない困難が待ち受けていることも重々分かっております。──それでも……それでも、私は、貴方様と共に生きてゆきたいのです」
「──っ」

波琉の目のふちがじんわりと赤く染まっていく。涙を零すまいと必死に堪えながら、波琉は自身の想いを掻き集めては言葉にして紡ぐ。波琉の、予想をはるかに超えた思いがけない言葉にバロックは手で目元を覆い隠すと短く息を吐いた。奥底に閉じ込めたはずの感情が堰を切ったように流れ出る。押さえ込もうと懸命に抵抗しても、自分の意思に反して外へ外へと引きずり出されていく。ゆるゆると顔を上げると、波琉の瞳に射抜かれた。懐かしい、光。そのあまりの眩しさにバロックは軽く目眩を覚える。

「ご迷惑、だったでしょうか……?」

その言葉に、声色に、バロックはついに抵抗することを止めた。

「……っ、私はそなたをもう二度と、離せそうにもない」

たとえ倫敦ロンドンでの生活が嫌になったとしても、やはり日本に帰りたいと言われたとしても波琉を手放すことはもう考えられなかった。それでも良いのかと、波琉の覚悟に問いかけると黒目がちな瞳が一瞬、揺れ動く。しかしすぐに柔らかな表情を浮かべ波琉は嬉しそうに目を細めて笑った。

「──離さないでくださいませ」

零れ落ちた涙が一筋、頬を伝う。初めて見た波琉の涙は息を呑む程に美しかった。バロックはあの時惜しみながらも手放してしまった波琉の左手を掴み取ると、その場に片膝をついて波琉を見上げた。そして、静かに言葉を紡ぐ。

「病める時も健やかなる時も私はそなたと共にあることを誓おう。……そなたは、誓ってくれるだろうか?」
「はい。もちろん、誓いますとも」

一瞬の躊躇いもなく。波琉の返答に微かに笑んだバロックは手の甲、そして掌にと口づけを落とした。

「──愛している、ハル」
「私も……バロック様をお慕い申し上げております」

涙を零しながらも、まるで花が綻んだかのような笑みを見せる波琉にバロックは胸が熱くなった。愛おしいと心が囁く。本当に、どれだけこちらの心を奪い続ければ気が済むのか──。バロックは胸の内から溢れ出る想いの丈を言葉にしてもう一度伝えると、波琉の手を握る自身の手先に力を込めた。


title by 花洩
20170914 - req boxより『どうかその花に〜』のその後の幸せな話

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