中央刑事裁判所オールドベイリーの資料室に足を運んだある日、バロックは大法廷で数度対峙した、極東の島国からの留学生・成歩堂龍ノ介が見慣れない人物と顔を突き合わせ、卓机テーブルいっぱいに資料や文献を広げて何やら書き物しているのを見つけた。

「……東洋の弁護士がここで何をしている」
「バ、バンジークス検事ッ!……こ、こんにちは!えっと、その、まだまだ近代裁判について分からないことも多いので!ここで勉強をしておりました!」

バロックからの問いかけに龍ノ介は椅子から立ち上がると、直立不動の姿勢で威勢良く答えた。相変わらず激しく目が泳いでいる龍ノ介を一瞥して、バロックは同席者の姿を目に捉える。初めて見る《日本人》の顔。

「……あっ!こちらはボクの友人でして、語学留学生として大英帝国に来た──」
「神坂波琉と申します」

神坂波琉と名乗った少女はすっと立ち上がると、美しい所作で深々と一礼する。

「……バロック・バンジークスだ」
「バンジークス検事様のことは龍ノ介様より聞いて存じ上げております。どうか、お見知りおきくださいませ」

あどけなさを感じさせる顔立ちと、向けられた黒目がちな瞳がバロックの心にやけに印象深く残った。
──そんな資料室での邂逅以来、バロックは波琉と顔を合わせることが多くなった。己が《死神》などと恐れられ、尚且つ《日本人》を激しく憎んでいるということは、倫敦ロンドン市中に飛び交う噂や同郷の龍ノ介から聞いているであろうにもかかわらず、波琉はバロックに対して怖気ついたりすることをしなかった。むしろ律儀に目の前まで近寄り、丁寧な所作で挨拶をしてくる。それはどれだけ話しかけづらい雰囲気を醸し出してみても関係なかった。これだから《日本人》というのは──。バロックはそのしぶとさに呆れる他なかった。しかし、こうも丁寧な挨拶を向けられては幾ら《日本人》を憎んでいると言えど無視などできず、バロックも徐々に簡単な挨拶を返すようになっていった。


ヴォルテックスから頼み事を請け負ったバロックは中央刑事裁判所オールドベイリーへとやって来ていた。足を踏み入れるとエントランスホールに設置された長椅子ベンチに波琉が座っているのを見つけた。ほぼ同じタイミングでこちらに気づいた波琉は長椅子ベンチから立ち上がると、小走りで駆け寄ってくる。その姿はまるで小動物のように思えた。

「バンジークス検事様……!こんにちは」
「……そなたか。今日もあの弁護士の手伝いであろうか」
「はい、そうでございます。少し早めに着いてしまい、ここで待ちぼうけしていたところです」
「そうか」

挨拶から始まったこの簡単なやり取りを切り、早々にこの場から離れたいと思っているにもかかわらず、口からは自然と言葉が零れ落ちてくる。ふと、波琉とのやり取りを楽しんでいる自分に気がついた。いや、楽しいはずがないとすぐさま否定するが、奇妙な感覚が胸にこびりついて離れない。その正体が掴めないまま、何気ない言葉のやり取りをしばらく続けていると、バタバタと忙しない足音がエントランスの方から聞こえてきた。

「……どうやら、来たようだぞ」

エントランスホールに龍ノ介の姿が現れる。龍ノ介は波琉とその隣にいるバロックに気がつくと、軽く会釈をする。バロックも龍ノ介に対して恭しく挨拶を返すと、再び視線を波琉に戻す。

「では、これにて失礼する」
「……あっ!お引き止めしてしまい、申し訳ございませんでした!」

申し訳なさそうに一礼した波琉をちらりと見やったバロックは外套コートを翻し、エントランスホールを後にする。中央階段を途中まで上ったところで背後から「お待たせして申し訳ありません……!」と龍ノ介の大音声が聞こえてきて、バロックは思わず足を止めて振り返った。エントランスホールの真ん中で申し訳なさそうに後頭部に手をやる龍ノ介が波琉に向かって何か話しており、対する波琉は龍ノ介の言葉に口許を手で押さえながら笑っていた。──バロックはそんな波琉の表情からしばらく目が離せなかった。まるで花が綻んだような、目が眩む程の笑顔のせいで。


それから数週間後。所用のため、久しぶりに資料室に出向いた時だった。扉を開けると「お慕い申し上げております」と、聞き覚えのある声がバロックの耳に届いた。一体この神聖な裁きの庭の一角で何をしているのか、気になったバロックは気配を消すとゆっくり書棚に近づき、その影から様子を伺う。そこには閲覧用の卓机テーブルを挟んで、波琉と龍ノ介が見つめ合っている光景が広がっていた。バロックは波琉側から様子を見ているため、波琉の表情は窺い知れなかったが、龍ノ介のひどく動揺した表情と先程聞こえてきた言葉から、波琉が龍ノ介に対して好意を抱いているという結論に辿り着いた。途端にバロックの胸の中でどす黒い色をした何かが渦巻く。《日本人》が何をしようが誰を好いていようが全く関係のないこと。そう己に言い聞かせても、胸がひどく騒ついて仕方がなかった。やがてその騒つきが不快感を通って吐き気に変わっていき、バロックは足音を立てないよう細心の注意を払いながら、資料室を飛び出した。嘔吐感をなんとか堪えながら近くのトイレに駆け込むと、水道場に向かってせり上がってきた異物を吐き出した。

「──!」

吐き出された物を目にした瞬間、バロックは驚きのあまり目を見開いた。水道場には散らばったのは美しい真紅の花。カメリアと呼ばれる日本より輸入された花だった。バロックは己が花吐き病と呼ばれる奇病を発症したことよりも、思い煩った相手の方が俄かに信じることができなかった。何故、よりによって憎むべき《日本人》である波琉なのか。

「馬鹿な──……」

バロックは己が吐き出した真紅の花の意味を素直に認めることができなかった。
気の済むまで吐き散らし、ようやく落ち着きを取り戻したバロックは水道場に散乱したカメリアを手早く処理した。《死神》とあろう者が片想いを拗らせて花を吐いているなど──とんだお笑いぐさだ。跡形もなく花の処理をし終えると、バロックは平然を装ってトイレを後にする。しかし、そこで運悪く花吐き病の原因となった波琉とばったり出くわしてしまった。波琉が龍ノ介に言った言葉がふいに思い出され、心がひどくささくれ立った。不快感が全身を駆け巡る。先程花を吐いたばかりなのに、まだ吐き気を催すのか。バロックは忌々しげに心の中で舌打ちをしながら、所用を済ますために再び資料室へと向かう。そんなバロックの心中を知らない波琉は顔を綻ばせてバロックへ近づいていった。いつものように「こんにちは」と声を掛けてきた波琉をバロックは一瞥するだけで、言葉を返すことなく波琉の横を通り過ぎていく。

「え……?」
「……」
「バ、バンジークス検事様?」
「──」
「お待ちください、バンジークス検事様ッ!わ、私は検事様に何か失礼なことをしてしまったのでございましょうか……!」

一変した態度に動揺した波琉はすぐさまバロックの前に回り込むと、引き留めるように腕を掴んだ。触れられた瞬間、胸の内に閉じ込めた想いが溢れ出そうになり、バロックは反射的にその手を思いきり振り払った。せり上がってくる想いを懸命に喉元でとどめながら、バロックは《死神》という名に相応しい冷酷無比な眼差しを向ける。

「何か失礼なこと、だと……?何を勘違いしているか知らないが、私は《日本人》という民族をひどく嫌悪しているのだ」
「あ……っ!」
「思い出したのであれば早々に立ち去るが良い。そして、できることなら……もう二度と私の前に姿を現さないことだ……《日本人》よ」
「……」
「……」
「……っ、今まで、大変申し訳ございませんでした」

黒目がちな瞳に涙の薄い膜が張る。波琉は目のふちを赤くしながらお辞儀をすると視線を足元に落としたまま、逃げるようにしてバロックの前から立ち去った。バロックは後ろ髪引かれる思いで、駆けていく波琉の背を見送る。──どうせなら、泣き喚いてくれた方が良かった。いや、いっそのこと罵詈雑言のたぐいを投げつけてくれた方がまだ救いを得られた。しかし、波琉はそのどちらもすることなく、最後まで礼節を欠かさなかった。傷つけてしまったという罪悪感が全身にのしかかる。やがて募りに募った罪悪感は一気に喉をせり上がる。

「──ぐ、っ……!」

襲いかかるそれをぐっと堪え、バロックは所用もままならないまま、中央刑事裁判所オールドベイリーを出た。外に停留させている個人馬車に息も絶え絶えに辿り着くと、「急ぎ屋敷へ帰れ」と御者に伝えて車内に乗り込んだ。バロックのただならぬ様子に気づいた御者はいつも以上の速さでバンジークス邸へと馬車を走らせた。屋敷に到着するや否や、バロックは脇目も振らず屋敷の中へ入る。外套コートと上着を脱ぎ捨て、首元からクラバットをもぎ取った。なだれ込むように自室へと駆け込んだ瞬間、今まで我慢していた嘔吐感が抑えきれなくなり、バロックは身を屈めて床に花を吐き散らした。

「げほ……っ、げほ……っ!」

長い間我慢していた分、大量の花がバロックの口元から零れ落ちる。はらりはらりと舞い散るのは赤ではなく、白と桃色のカメリア。その色の意味合いにバロックは思わず嘲笑を浮かべた。

「……あれだけ、傷つけておきながら」

《日本人》を憎む心と恋しいと思う心、そしてその事実を認めたくない心がバロックの中で嵐のようにせめぎ合っていた。




それからのバロックは周りにいる人間がひどく心配する程の激務を日夜こなしていた。ただただ己の胸に燻り続ける炎を掻き消すためだけに。しかし、バロックの胸に灯る炎は消えることはなかった。波琉の姿を見なくなった今もバロックは定期的に少量の花を吐き続けていた。
そして一ヶ月程が経った。ベーカー街に店を構える質屋の店主が殺害された事件の公判が終わり、バロックは控室を後にする。ポケットへ入れていた懐中時計を取り出し、時間を確認する。──高等法院へ向かう前に一度検事局に戻る余裕はある、か。バロックは懐中時計をしまいながら中央階段を下りきると、先程まで大法廷で言葉の剣を交わした龍ノ介がエントランスで誰かと会話しているのが見えた。龍ノ介の眼前には無邪気な笑顔を見せる波琉。久方ぶりに目の当たりにした姿、そして龍ノ介に向けられている笑みに心臓が激しく脈打つ。バロックは波琉に気づかれないように素早く近くの部屋に駆け込むと、部屋に設置されている卓机テーブルに両手をついて胸にとどめていたものを吐き出した。大量の花を吐き出すのは随分久しぶりのことで、全身に震えが走った。花が散る。胸の奥底に閉じ込めて、思い出さないようにしていた波琉の表情や声色の一つ一つを思い出しては、また花が散った。バロックはひどい悪循環に陥る。赤、白、桃色──色鮮やかなカメリアが卓机テーブルを染め上げた。これ以上花を吐くと後処理が面倒になると、バロックは必死に自分の心を宥める。決して溶け出さないように心を凍らせて。そうして幾分か落ち着きを取り戻し、息をついたのも束の間、唐突に蝶番が軋む音が聞こえて、バロックは体を硬直させた。

「……バンジークス検事様、その、大丈夫でございますか……?」
「──!」
「……た、大変申し訳ありません。血相を変えてこちらに駆け込む検事様をお見かけして……その、検事様の前に姿を見せてはいけないと分かってはいるのですが、どうしても気になってしまいまして」

そう言いながら、おずおずと室内に踏み込んでくる足音。バロックは再び息を吐いて平静を保つと、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「──問題ない。少し、寝不足が祟っただけだ」
「……そう、でございますか」
「そなたが気にすることではない。……それよりも、弁護士の元に戻った方が良いのではないか?」

己の口が発した言葉に波琉と龍ノ介が肩を並べて談笑している姿が浮かび上がり、バロックは思わず口元を押さえた。

「検事様……!大丈夫でござ──」

来るなと言うはずの声は嘔吐感によって掻き消されてしまった。

「は、な……?」

波琉の息を呑む音が聞こえた。とうとう見られてしまった。決して叶うことのない恋に苦しんで、花を吐くおぞましい己の姿を。掌に吐き出されたカメリアをバロックは忌々しげに握り潰す。

「……検事様は、花吐き病を患って、おられるのでございますか?」

ぽつりと呟かれた波琉の言葉にバロックは口元を手の甲で拭うと、口端に自嘲の笑みを浮かべる。

「……汚らわしいにも程があるだろう?」
「……っ、そんなことは、ございません。美しい、カメリアだと思います」
「なに……?」

じろりと視線を向けると波琉は卓机テーブルに散らばるカメリアを哀切を帯びた瞳で見つめていた。なんて表情をするのかとバロックの胸が軋む。

「バンジークス検事様の想い人は……この花のように、さぞかし素敵なご婦人なのでございましょうね」

切なげに笑った波琉の小さな両手がバロックの握りこぶしにそっと添えられる。視線はずっとバロックの手に向けられたまま。

「誰かを愛おしいと思う心を、汚らわしいなどと仰らないでくださいませ。このカメリアが、私を想って吐き出されたものではないと分かっていても、そう言われるのは苦しゅうございます……」
「──!」
「……あっ、その、出過ぎた真似をいたしました。《日本人》の私から好意を寄せられるなど、甚だご迷惑なことでございましたね。……それから、二度と姿を見せるなと言われたにもかかわらず、検事様の前に姿を現してしまったご無礼、重ね重ねお詫び申し上げます。──もう金輪際、現れることはいたしませんゆえ」

バロックの拳に重ねていた両手をパッと離した波琉は申し訳なさそうに頭を下げる。視線を最後まで合わせようとせず、そそくさと部屋から出て行こうとする波琉に憤りを感じたバロックは、反射的に波琉の腕を掴んで引き止めた。

「……っ、バンジークス検事様?」
「本当に、いい迷惑だ」

波琉の肩を掴み、己と相対あいたいさせる。しかし、波琉は頑なに視線を合わせまいと俯きながら目を泳がせていた。波琉といい、龍ノ介といい、目を泳がせるのは《日本人》の一種の悪い癖なのか。バロックは波琉の顎を持ち上げて、無理矢理視線をかち合わせた。波琉の瞳が、揺れる。

「あ、その件については、大変申し訳なく──」
「どれだけ追い出そうとしても、何故、そなたは私の心にふてぶてしく居座り続けるのだ」
「え……?」
「──この花は、そなたを想って吐いた。無邪気に近づき、最後には平気で裏切る《日本人》という民族をひどく憎んでいるにもかかわらず、だ。だが……それ以上に、私はそなたを好いている。……もう、どうしようもない程に、な」

どんなことをしても消えてくれなかった炎が、バロックの凍らせた心を溶かしていく。胸の奥に閉じ込めていた感情が濁流のように流れ出していく。波琉が恋しいと、愛おしいと思う気持ちが。その気持ちと共に一旦おさまっていたはずの嘔吐感が駆け上がってきて、バロックは慌てて口元を押さえた。波琉から顔を背けて異物を吐き出すと、胸のつかえが取れたような、かつてない清々しさが胸に広がった。押さえていた手をゆっくりと口元から離すと掌には白銀色の百合が一輪。

「……白銀の、百合」

その声に振り返ると波琉が百合を見つめて、ポロポロと涙を零していた。初めて見る波琉の涙にバロックは柄にもなく狼狽える。

「な、何故泣く……?」
「ああ、その、違うのですこれは、私は嬉しいのです……!検事様が、私を好いてくださっていたなど、まるで夢のようで──」

波琉が言い終わる前に、バロックはその小さな体を腕の中に閉じ込めた。

「バ、バンジークス検事様……ッ!」
「そなたは……あの弁護士を好いているとばかり思っていた」
「……え?」
「偶然、聞いてしまったのだ。資料室で、そなたが弁護士に向かって『好いている』と口にしているのを」
「それは……その、龍ノ介様に『バンジークス検事を好いているのですか?』と聞かれただけにございます。私がお慕いしているのは、その、バンジークス検事様だけでして、決して、そんなやましいことなどは……!」

そうだったのか──。ずっと胸に渦巻いていたどす黒い感情が霧散していく。勝手に勘違いして勝手に絶望して、波琉を傷つけてしまった。バロックは腕の力を緩めると、波琉の顔を覗き込む。

「私はそなたに手酷いことをして、傷つけてしまった。数々の無礼、お許しいただけるだろうか……?」

バロックは涙に濡れた波琉の下瞼をそっと親指で拭うと、ぽつりと言葉を零した。

「私はかつて最も信頼していた《日本人》に裏切られた。……以来、理不尽なことだと分かっていながらも、私は《日本人》という民族を憎まずにはいられなかった。それは今もなお変わらない。だが……それでも、それでも私はそなたに傍にいてほしいと思ってしまうのだ」

ひどく烏滸おこがましいことを口にしているのは分かっている。だが、波琉といることで何かが変わるような予感がした。倫敦ロンドンの深い闇に十年もの間、囚われ続けている己を波琉が闇の外へ掬い出してくれるような、そんな予感。

「……はい。私も、バンジークス検事様に心から信用していただけるよう、精一杯努力したいと思います」

ふと、あの時の苦々しい記憶が蘇り、もしかしたら波琉にも手酷く裏切られるのではないかと一抹の不安がぎる。しかし、眼前で曇りなく笑う波琉を、こんなにも胸がいっぱいになる程の恋しい想いを、そしてカメリアの花を吐き散らした意味を、バロックは何より信じてみたいと思った。


title by 花洩
20170914 - req boxより『どうかその花に〜』設定で夢主ではなくバロック・バンジークスが花吐き病を患っていたら

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