それは穏やかな日差しが窓から射し込む休日の午後。家でまったりとした時間を過ごしていた波琉の元に1件の電話が入った。テーブルの上で震え続けるスマホを手に取って、画面に表示された名前を確認する。電話の主は隣町に住む親戚の叔母。久しぶりの連絡に、晴れやかだった気分が一瞬にして鬱々とした気分になる。──天災は忘れた頃にやって来るとはまさにこのこと。電話を無視したくなる自分の心を落ち着かせるように軽く咳払いをすると、明るい声を意識しながら電話を取る。
「……もしもし?」
『波琉ちゃん、久しぶり〜!突然ごめんね〜!』
「叔母さん、ご無沙汰してます。いえ、大丈夫ですけど……いきなりどうしたんですか?」
『最近あまり連絡できてなかったでしょう?元気にしてるかな〜と思って』
「ええ、ぼちぼちと言ったところでしょうか……」
『まあ、若いからって無理だけはダメよ?何かあったら私に言ってちょうだいね?』
「はい、それは……はい、ありがとうございます」
『──ところで、波琉ちゃんに会わせたい人がいるんだけど、今度の休み空いてるかしら?』
唐突な話の切り替わりにやっぱり来たか、と波琉はゆっくりと天を仰いで、叔母には聞こえないように静かに嘆息を漏らす。叔母はとても明るい溌剌とした女性なのだが、少しお節介が過ぎるのが玉に瑕だった。こうして叔母から来る連絡はいつも決まって、紹介したい人がいるというお見合い話。──ちなみに波琉に恋人がいたのはもう随分と前のことで、社会人として働くようになってからは縁遠いものとなってしまった。そんな自分を心配してくれる叔母の優しさはありがたいことなのだが、いかんせん叔母が連れてくる男性は誰も彼も少しクセの強い人ばかり。前回の相手なんて特に──とほろ苦い記憶が脳裏を過り、波琉は項垂れる。
「ええ、まあ……」
『波琉ちゃん!今度は大丈夫!しっかりと私が保証するわ!』
その文言を聞くのももう何回目だろうかと心の中でツッコミを入れつつ、波琉は「そうですか……」と小さく苦笑いを零す。
『今回はね、海軍に仕官している人なのよ〜!ね、どう?軍人よ、軍人』
「は、はあ……軍人、ですか?」
この国に存在する軍隊──とりわけ海軍は1年のほとんどが海の上という隔離された環境下にいる。そんな特殊な場所に身を置いている人物と話なんて合うのだろうか?いや、合うわけがないと叔母の話に耳を傾けながら、波琉は直感的に思った。これは早急に断りを入れなければ。
『一等軍曹の方なんだけどね、これがまたアメリカと日本のハーフで……!本当にイケメンなのよ!』
「あの、叔母さんの心遣いはありがたいのですが、本当にもうお見合いは懲り懲りでして……」
『お見合いだなんて!そう固くならなくてもいいのよ!すこーしお茶をするだけだから、ね?』
「は、はあ……」
『じゃあ、場所と時間が決まり次第連絡するわね!』
「え、ちょっと!」
こちらの答えを言い出す前に、ぶつりと電話を切られてしまう。相変わらずのマシンガントークに波琉はやれやれと肩を竦めた。
それから数日後、叔母から時間と場所を知らせるメールが送られてきた。少しお茶をするだけと言っていたにもかかわらず、選ばれた場所はヨコハマの街を一望できるランドシティータワー──それも展望フロアに入っている雰囲気のあるカフェ。これをお見合いと言わず、一体何と言うのか。波琉はメールの文面を見ながら、小さく苦笑いを浮かべた。
約束の日。波琉はランドシティータワーにやって来ていた。タワー内の特徴的な形をしたオブジェ前で叔母と合流し、展望フロア直通のエレベーターに乗り込む。わずか40秒で展望フロアに到着したエレベーターが開くと、眼下に広がるヨコハマの街は今日も青と白のコントラストで彩られていた。そんな晴れやかな街とは裏腹に波琉の心はどんよりと沈没している。今すぐに帰りたいという気持ちがむくむくと湧き上がってくる。重たい足を半ば引きずるようにして、波琉は前を歩く叔母に続いてカフェに足を踏み入れた。彼のことだからもうすでに到着しているかもしれないと、店内のあちこちを物色するようにゆっくりと歩いていた叔母が「あっ」と短い声を上げた。叔母が見つめる視線のその先──眩い白を基調とした軍服を着用した1人の青年がピンと背筋を伸ばして微動だにせず座っていた。あの人が今回の相手なのだろう。心なしか叔母の歩調が僅かに速くなる。
「毒島さん、お待たせしてすみません」
叔母がにこやかに声をかけると、青年は肩越しに振り返って椅子から立ち上がり、敬礼を行う。そのキビキビとした動作に波琉は呆気に取られる。
「いえ、小官もつい先程来たばかりです」
「そうだったのね。さっ、毒島さんも波琉ちゃんも座って座って。──あ、すみません、ホットコーヒーを3つで」
促されるまま、波琉は青年の目の前に腰をかける。
「こちら、海軍一等軍曹の毒島さん。そして私の姪の波琉です」
「……初めまして、神坂波琉です」
「お初にお目にかかります。毒島メイソン理鶯という者です」
綺麗な赤毛の爽やかな短髪に、凪いだ海のような青い瞳。欧米の血を引いているとあって青年──理鶯の顔立ちは彫りが深く、それでいて端正だ。彫刻のように美しい造詣に一瞬見惚れてしまうが、理鶯の表情には笑顔ひとつなく、とてつもなく冷たいイメージを覚えた。なんだか取っつきにくそうだ──それが波琉の理鶯に対する第一印象だった。
年齢から始まり、趣味やどんな仕事をしているのかなどといった簡単な自己紹介と互いの連絡先を(叔母の催促により)交換したところで、隣に座っていた叔母が忽然と立ち上がった。
「あらやだ!これから用事があるのをすっかり忘れていたわ!波琉ちゃん、毒島さんごめんなさい。私はここでお暇させていただくわ。あとは、お若い2人で」
ふふふ、とにこやかに常套句を呟いた叔母は嵐のように慌ただしくカフェを後にした。相変わらずだ、と叔母の背中をしばらく見ていた波琉はハッとして理鶯に顔を向ける。
「あの、すみません……。私の叔母が」
「いえ、そんなことは。とても賑やかで明るい女性ですね」
「あはは、そう……ですかね?……あー、毒島さん何か食べられますか?」
「む、ああ──」
自分の方が少し年下ということもあり、気を遣ってメニュー表を取ろうと手を伸ばすものの、理鶯に先手を取られる。驚きで目を見開く波琉をよそに、理鶯は「どうぞ、先に選んでください」と見やすいように角度をつけて波琉の目の前にメニュー表を差し出した。
「え、あ、ありがとうございます……えーっと、わたしはこのホットサンドで」
「ふむ、では小官も貴女と同じ物を」
メニュー表だけでなく、素早くベルボタンを鳴らし店員を呼び出したのも、店員に2人分の注文を頼んだのも理鶯。──自然に行われた動作に波琉はただ唖然とするしかなかった。
「どうかされましたか?」
「ああ、いえ、なんでもないです」
「そうですか、もし体調が優れないのなら無理せずおっしゃってください」
「はい、ありがとうございます」
そこで、はたと会話が途切れた。妙な沈黙が通り抜ける。何か話題を振らなければと考えるも、初対面、そして今までの人生において関わったことがない軍人という職種。どういった話題を振れば会話が弾むのか、波琉にはてんで分からなかった。理鶯も理鶯で──口下手なのか、それとも元から話す気がさらさらないのか──口を引き結んだまま。波琉は気まずさを抱えながら、ホットサンドが来るのをひたすら待ちわびた。注文してから10分、ようやくホットサンドが届き、波琉は胸を撫で下ろす。目の前に置かれたホットサンドはこんがりとした焼き色がついていて、芳ばしいトーストの匂いと共に食欲をそそられた。理鶯との気まずさを一瞬忘れた波琉の口角が自然と持ち上がる。「美味しそう……」と小さく呟きながら両手を合わせて、ゆっくりと両手でホットサンドを手に取る。中身が飛び出さないように細心の注意を払いながら頬張ると、口の中いっぱいに美味が広がった。あまりの美味しさに我を忘れて口をもぐもぐと動かしていると、真正面から熱烈な視線を送られていることに気づいた。あっ、と一瞬にして気まずさを思い出した波琉は冷たい汗が背中を伝うのを感じながら、そろりと目線を上に動かした。案の定、理鶯にまじまじと顔を見つめられていたのだが、今まで無表情だったはずの理鶯の口角が僅かに上がっているように見えて、波琉は意表を突かれる。
「とても美味しそうに食事をするのですね」
「……っ、あっ、すみません。子供っぽい……ですよね?」
今度は一気に顔に熱が集まる。おずおずとそう問いかけると「そんなことはないですよ」と首を横に振りながら理鶯は言った。
「食事をする時は幸福でなければなりませんから」
「え?あ、はい……」
「美味しそうに食べる姿はとても素敵ですよ」
「あ、ありがとうございます?」
「──では、小官もいただくとしよう」
褒められたのかよく分からない言葉に小さく首を傾げて、波琉は手に持っていたホットサンドを再び頬張った。──静寂に包まれた空気の中で黙々とホットサンドを食べ終えた2人はカフェを後にする。この後の予定は、ない。気まずさを拭えないまま波琉は駅に、そして理鶯は港に浮かぶ島式埠頭に構える海軍基地に、それぞれ帰路に就く。波琉は理鶯に向き直ると「今日はありがとうございました」と頭を下げた。
「小官の方こそ。神坂さんは帰りは電車ですか?」
「はい、なので毒島さんとはここで──」
「では、駅までお送りしますよ」
「え?でも基地とは反対方向で……」
「小官に送らせてください」
真っ直ぐに目を見てくる理鶯の親切心を無碍にすることができず、波琉はこくりと頷いた。駅までの長いようで短い道程を並び立って歩く。相変わらずの沈黙が続く中、波琉はちらりと隣を歩く理鶯を横目で見た。笑顔らしき表情を見たのはあの一瞬の出来事のみ。唇を引き結び、前を見据える理鶯が今何を考えて何を思っているのか波琉には見当もつかなかった。結局、一言も声を発さないまま、目的地である駅に辿り着いてしまった。大通りに面した改札前は忙しなく人が往来している。
「わざわざ送っていただいて、本当にありがとうございました」
深く頭を下げて、背を向けようと動き出した瞬間、「あの、」と理鶯に引き止められる。
「はい?」
「……いえ、なんでもありません。お気をつけて」
不自然な間を置いて敬礼した理鶯に見送られながら、波琉は改札をくぐり抜けた。やっぱり話が合わなかったな、と波琉は思った。今日の様子だともうお互いに連絡することも二度と会うこともないだろう。これは最初から分かりきっていたことだ。しかし、決して交わることのないと思っていた世界で生きている人と一時でも関われたのだから、それだけでも貴重な経験として人生の糧にしよう──。そんなことを考えながら波琉は家路を急いだ。
玄関に入った途端、緊張感から解放されたのか、今日一日の疲れがどっと体にのしかかってきた。「疲れた……」と独りごち、ふらふらとした足取りでリビングに入るとソファーに勢い良く体を沈める。一応、叔母に連絡を入れなければと、鞄からスマホを取り出すと画面には毒島さん≠ゥらの新着メッセージ通知が表示されていた。ぎょっとして波琉はソファーから勢い良く起き上がる。動揺する指で通知をタップしてトーク画面を開くと、つい数十分前に駅前で別れたばかりの理鶯からのメッセージが目に飛び込んできた。
《今日は一日、ありがとうございました。神坂さんはもう家に着きましたか?》
驚き、そして固まる。社交辞令と言えど、こうして律儀に連絡を入れる理鶯の丁寧さに波琉は思わず感心する。
《ご丁寧にありがとうございます。今、家に着いたところです》
《無事に着いたようで何よりです。それから……先程は言えなかったのですが、もし神坂さんが良ければ、また食事に誘ってもいいでしょうか?》
「え?」
見間違いかと思い、理鶯からのメッセージをもう一度見直す。ゆっくりと一つずつ文字を追っていくが、そこにはやはり紛うことなきお誘いの言葉が盛り込まれていた。会話らしい会話などほとんどなかったのに──?と波琉は戸惑いを覚えながら言葉を慎重に選んで、大丈夫ですよという旨を返信する。
《良かった。では、また連絡します》
とは言え、国家公務員である軍人と一般的な会社で働く会社員ではそう都合良く予定など合うわけがない。これもまた彼なりの社交辞令なのかもしれない。波琉は理鶯からのメッセージに返信をしないまま、深く長い溜め息を零して再びソファーに倒れこむ。そして目を瞑り、今日一日の忙しない出来事を思い返した。
「貴女はとても美味しそうに食事をするのですね」
ずっと無表情だった理鶯の口元が僅かに上がったように見えた瞬間が、ふと頭の中を過る。
(もし、毒島さんと打ち解けられたら……もっと色んな表情を出してくれるのかな?)
「なーんて、そんなこと」
あるわけないか、と波琉は胸の内に膨らみかけた想いを即座に打ち消した。
◇
そうそう都合良く予定など合うわけないと軽く見ていた波琉だったが、意外にもすぐに理鶯と会うこととなり──やがて不定期ではあるが、食事に誘い誘われる仲までになった。最初は気まずさばかりが支配していた食事の席も回を重ねるごとにぽつぽつと会話が増えていき、理鶯との距離は自然と縮まっていった。毒島さん≠ニ呼んでいたのが理鶯さん≠ノ、神坂さん≠ニ呼ばれていたのが波琉≠ノ。徐々に口調も堅苦しい敬語が外れ、砕けたものに。──また、ロボットのようだと思っていた理鶯の表情の僅かな変化にも波琉は気づけるようになった。もちろん互いの仕事が忙しいため、頻繁に連絡を取り合うことはできず、会うことができたとしても専ら波琉の仕事が終わってからの2〜3時間程度。そんな限られた時間の中では食事をすることしかできなかったが、いつの間にか理鶯と連絡を取り合う時間や食事を共にする時間が、波琉にとって楽しみなものになっていた。
そうして理鶯と関わっていくうちに波琉は理鶯の様々な一面を知っていった。食事をする時はとても楽しそうにしていること。こちらのご飯を食べる様子をまじまじと見つめてくること。会話の中に時折英語が混ざること。意外にも天然っぽい部分があって可愛らしいこと。そして、波琉が困惑してしまう程に徹底したレディーファーストをしてくること。──優しく穏やかで、スマートな立ち振る舞い。見た目だけでなく中身までもが魅力的な理鶯を好きにならないはずがなかった。
そんなある日。久しぶりに理鶯からメッセージが届いた。
《夜分遅くに突然すまない。来週の土曜日休みなのだが、久しぶりに会えないだろうか?》
《その日はちょうどわたしも休みなので、大丈夫ですよ!》
《そうか、それは良かった。もし、予定が入っていなければの話なのだが、明るいうちから会わないか?実は少し行ってみたいところがあってな…》
《行きたいところですか?》
《水族館、なのだが》
「水族館……!」
なんとも理鶯らしい場所に波琉は思わず笑みを零す。
《いいですね!行きましょう!》
《ありがとう。では──》
待ち合わせ場所と時間を決めて、メッセージのやり取りを終える。短いやり取りだったが、波琉の心は弾んでいた。
「楽しみだなぁ……」
メッセージのやり取りを読み返して、ぽつりと呟く。理鶯と知り合ってから数ヶ月が経つが、初めて食事をする以外で会うことになる。そう思うだけでドキドキが止まらない。理鶯の中ではただ普通に遊びに行くという感覚なのだろうが、波琉の中では立派なデートに位置付けられていた。となれば、いつものオフィスカジュアルな服装ではなく、プライベートの服装からコーディネートを考えないと──。久しぶりの男性とのデートに着ていける服はあっただろうかと、少し先の予定にも関わらず波琉は慌ててクローゼットを開いて、何着か服を取り出す。
(理鶯さんはどういう系統の服が好みなんだろう……?)
綺麗め?可愛い系?それともセクシー系?鏡の前で服を当てながら、波琉は考える。ああでもない、こうでもないと悩んでいたが、鏡に映る波琉の顔は何処か嬉々とした表情を浮かべていた。
待ちに待ったデートの日はあまりにも気持ちが高ぶりすぎて30分も早く待ち合わせ場所である駅に着いてしまった。ちょっと早すぎたなあ、と思いながら改札を出てすぐの柱巻き広告に背中を預ける。理鶯がやって来るまでの間、ネットニュースでも読み漁って時間を潰そうと、波琉は鞄からスマホを取り出した。画面をスクロールして興味の惹かれる記事を探していると、今までスルーしていたジャンルに不思議と目が留まり、スクロールする指が止まった。波琉の目が捉えたのはアメリカ海軍が海外派遣について検討していると書かれた記事。──理鶯さんは今まで海外派遣の任務に携わったことがあるのかな?と、何故か騒ついた心に記事の見出しをタップするのを躊躇っていると、ふと目の前に影が落ちた。
「Did you miss me?」
聞き慣れた流暢な英語が頭上から聞こえてきて、波琉はハッとしたように顔を上げる。
「理鶯さん!」
「すまない、待たせてしまったか?」
「い、いえ!わたしも少し前に着いたばっかりです!」
楽しみにしすぎて30分も早く着いていたとは流石に言えず、波琉は咄嗟に誤魔化した。手に持っていたスマホを慌てて鞄に入れて、気持ちを切り替える。
「そうか」
「はい、では早速行きましょうか」
「……」
「……理鶯さん?」
黙ったまま、じーっと見つめてくる理鶯の真摯な瞳に波琉の心臓は僅かに逸る。
「──I like your outfit.」
「……え?」
「いや……何でもない。さあ、行こう」
「は、はい」
一体、理鶯さんは何と口にしたのだろうか?そんな疑問を頭の隅に留めて、波琉は理鶯と他愛もない会話を交わしながら目的地までゆっくりと歩いていった。──水族館前に辿り着くと、家族連れやカップル達がそこかしこに溢れかえっている。楽しそうな彼らの表情を見ながら、周りから見た自分達も恋人同士に見えたらいいな、と波琉は密かに思った。
入場ゲートをくぐり抜けた先に現れた巨大水槽を見上げる。様々な種類の魚達が水槽の中を泳いでいるのを思わず目で追いかける。あまりの感動に「すごいですね……!」と理鶯に声をかけるも返事はない。不思議に思って隣を見やると、理鶯は口を引き結んでまじまじと水槽を見つめていた。水槽から漏れた明かりに照らされた顔はまるで好奇心旺盛な少年のよう。波琉はそんな理鶯の表情に小さく笑みを零して、もう一度水槽を見上げた。
館内をゆっくりと歩きながら世界の地域・海域ごとの生態系を展示した水槽をじっくりと眺めたり、ふれあいコーナーでは小さなサメやエイのザラザラ、ヌメヌメとした感触に声を上げて驚いたり、ここでしか見られないジンベエザメの大きさを身をもって体感したり──波琉と理鶯は童心に帰ったかのように目一杯水族館を楽しんだ。ゆっくりと館内を回り終えて外に出ると、すでに空はオレンジ色に染まっていた。
「今日は小官の我儘に付き合わせてすまなかった」
「いえ、水族館に来るのは子供の時以来だったのでとっても楽しかったです!」
「ならば良かった」
何が楽しかった、何がすごかった──そんな会話を重ねながら島内を散策していると、急に視界が開けて、コンクリートで整備された桟橋が目の前に現れた。
「──あっ、理鶯さん見て!」
目に飛び込んできたのはキラキラ輝く夕陽、そしてその陽光が反射して、何処か幻想的な雰囲気を醸し出す海。水平線できっちり分けられた青と橙のコントラストに思わず感嘆の声を漏らす。
「綺麗だな」
「……そうですね」
会話が途切れ、2人は波音を聴きながら静かに海を眺めた。最初はこの沈黙が気まずいとばかり思っていたはずなのに、今ではこの沈黙さえも心地良く感じる。昼と夜の狭間で波打つ海はとても美しく、波琉は理鶯と同じ景色を見ているこの時間が何よりも変えがたいと思った。
(──やっぱり、理鶯さんのことが好きだ)
波琉は改めて自分の想いを認識した。
「理鶯さん、あの……」
意を決して顔を上げると、浜風に髪をそよがせながら真っ直ぐ海を見据える理鶯の横顔に思わず見惚れてしまった。しかし、海を眺めるその横顔が今まで見たこともない柔和さを湛えているのに気づいて、波琉はすんでのところで言葉を飲み込んだ。なんて慈しむような、なんて愛おしそうな目で海を見ているのか。まるで海に恋焦がれているような。初めて見る理鶯の表情に波琉は悟った。──ああ、この人はこの海に身も心も、そして命さえも捧げているのだと。
「……っ、すまない、何か言っただろうか?」
理鶯の顔がこちらを向いた。かち合う瞳はいつも通りに凪いでいる。しかし──あんな表情を間近で見せられてしまったら、もう何も言えない。
「い、いえ……」
「ん?」
「……あの、もう少し、こうして海を眺めていていいですか?」
「ああ、もちろん。……小官も、同じことを思っていた」
自分の想いは決して報われることはないと気づいてしまった。けれど、理鶯との関係を壊したくはない。じくじくと疼く心臓の痛みと膨れ上がった想いに蓋をして、波琉は良き友人としてこれからも理鶯の隣にいることを選び取った。
title by るるる
20181101(20190529加筆修正)
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