時々連絡を取り合い、食事を共にし、都合が合えば遊びに出かける。淡い恋心を封印した波琉は理鶯の一友人としての距離感を保ちながら、なんら変わらない日々を過ごしていた──。
今日は約1ヶ月ぶりとなった理鶯との食事の席。積もり積もった話で盛り上がっていると、突然、理鶯が何かを思い出したように口を開いた。

「そうだ。今度、波琉の住む町に行ってみたいのだが」
「……え?」

予期していなかった言葉に驚き、固まる。そう言われても、と波琉は考えあぐねた。──ヨコハマ住みと言っても、波琉が住むのは都心からだいぶ外れた住宅街ばかりが立ち並ぶ閑静な町。唯一賑わっているのは駅前の商店街ぐらいで、みなとみらいのような娯楽施設も観光地と呼べるような場所もないからだ。

「ダメだろうか?」
「い、いやー……その、わたしの住んでるところ、住宅地ばかりで本当に何にもないですよ!」
「それでも構わない。どんな町で暮らしているのか、一度行ってみたいと以前から思っていた」

何もないと言う波琉とそれでも行ってみたいと言う理鶯の主張がぶつかり、しばらく押し問答を繰り返していたが──根負けしたのは波琉の方だった。

「……じゃあ、わたしの家でご飯食べて、映画でも観ます?」

無意識のうちにさらっと零れ落ちた言葉。理鶯の目が大きく見開かれる。数秒経って、ようやく自分が一体何を口走ってしまったのか気づいた波琉はサッと血の気が引くのを感じた。家に誘い入れるなど、まるで『貴方に好意を持っています』と言っているようなものじゃないか。──慌てて訂正を入れようとするも、理鶯が先に言葉を発する。

「いいのか?」
「え、ああ……えっと、はい……」
「そうか、楽しみにしている」

にこやかな表情に、今更冗談ですなんて言えるわけがない。再び料理を口にする理鶯を見て、波琉は心の中で大きく溜め息をつく。──自分自身で深く抉ったくせに、心の奥がひどくひりついた。


約束の日は雨が降りそうで降らない、微妙な天気だった。待ち合わせは17時半に駅前。理鶯が来るのを待っていようと少し早めに家を出たにもかかわらず、駅前のロータリーに到着するとすでに改札前に理鶯が佇んでいた。少しずつ近づいていくと、理鶯の近くを通り過ぎる女性達がざわざわと色めき立っているのが目に入る。──立っているだけで絵になるもんなあ、と波琉も波琉で自分が住む町に理鶯がいることが新鮮に思えて、無意識にその貴重な光景を目に焼き付けていた。

「理鶯さん!」
「ああ、波琉か」
「ごめんなさい、待たせしてしまいましたよね?」
「いや、小官もつい先程到着したばかりだ」

そう言って、なんてことないように微笑む理鶯に波琉もつられて笑みを零す。

「なら、良かった。……じゃあ、行きますか」
「ああ」

商店街のスーパーで少し買い物をしてから、並びにあるレンタルビデオ店に立ち寄る。波琉の好きな映画で構わない、と言われていたが、せっかくなら2人で楽しめる作品の方がいいに決まっている。様々なジャンルの映画やドラマが取り揃えられている店内を興味深く見て回る理鶯に「もし面白そうな映画を見つけたら、教えてくださいね!」と伝えて、波琉は店奥の洋画コーナーへ向かった。ここはやはり無難にアクションものか、ヒーローものか──。棚の上から順を追って探していくものの、興味を惹かれる作品は全て貸し出されているか、あったとしても続編の2や3ばかりで話の筋が分からないものばかりだった。困ったなあ、と思いながら棚を横に横に移動していくと、いつのまにかジャンルが恋愛系に変わっているのに気づく。

「いやいや、さすがに恋愛ものは……」

独りごちながら苦笑いを浮かべていると、ある1つの作品に目が留まった。それは他の作品とは違い、DVDジャケットが見えるようにディスプレイされていて、店長オススメ洋画作品!の文字と『あまりの切なさに大号泣』から始まる店長の感想がびっしりと書かれたPOPが貼り付けられていた。波琉は惹かれるように手を伸ばし、陳列棚からDVDを取り出すと、裏返してあらすじに目を通した。──あらすじを読み進めていく度に、波琉はまるで今の自分のようだと、主人公に親近感を覚えた。しかし、これは面白いとか面白くないとかを抜きにして観てはいけない映画だ。波琉は何事もなかったかのようにDVDを元の位置に戻そうとする。

「……これを観たいのか?」

頭上から声が降ってきたと同時に視界の端から大きな無骨な手が現れ、波琉の手元からDVDを掠め取っていった。反射的に振り向くと、すぐ後ろに理鶯が立っていて波琉は思わずたじろいだ。心臓がどくどくと嫌な音を立てていく。

「映画はこれで決まりだな」
「……え?」

パッケージからディスクだけを抜き取った理鶯は狭い通路をすたすたと通り抜けて、レジ場へ向かっていく。

「そ、それでいいんですか!?」
「ああ、波琉が観たいものなのだろう?」
「え、いや……」
「小官は恋愛映画というのは全く観ないが……うむ、とても新鮮だ」

あれよあれよと会計を済まされ、店を出る。思ってもみなかったDVDを借りる羽目になってしまったが、決して深い意味はない──そう、ないのだと、波琉は自分に言い聞かせるように何度も心の中で唱えながら、帰路に就いた。

「狭いけど、どうぞ」
「ああ、邪魔をする」

自宅へ招き入れると、波琉の緊張感はより一層増す。理鶯はそんな波琉の胸中を知ってか知らずか、興味深そうに部屋の中をぐるりと見渡していた。

「綺麗に整頓されているのだな」
「え、ああ、まあ」

本当は今日の午前中にバタバタと掃除をして、徹底的に綺麗にした──とは言えずに、波琉は曖昧に笑う。

「あー……理鶯さん、そろそろご飯を作りましょっか」
「すまない、そうだったな」

ご飯作りといっても、料理の下ごしらえは波琉がほとんど終わらせていて、後は食材を調理するだけだった。──波琉は理鶯の姿を横目で窺う。料理が得意だとは聞いていたものの、こうして実際に目の当たりにするのは初めて。想像していたより手馴れた動きを見せる理鶯に、さすが軍人だなあと思わず舌を巻いた。
そうして和気藹々とした雰囲気の中で作った料理とスーパーで買ってきた出来合いのお惣菜をプレートに盛り付けると、今日の夕食が見事に完成した。美味しそうな匂いに食欲をそそられながら、ローテーブルに料理と缶ビールを置いて、床に腰を下ろす。両手を合わせて、まずはビールで乾杯。「お疲れ様」と互いの缶を軽く当てて、ビールを一口流し込んだ。

「ご飯、口に合うといいんですけど」

料理を口に運び、ゆっくりと咀嚼する理鶯を波琉は緊張した面持ちで見つめる。ドギマギしながら反応を待っていると、うん、とひとつ頷いて理鶯の口が開かれた。

「──美味しいな」

目を輝かせた理鶯の一言にホッと安堵の笑みを零して、波琉もようやく料理に手をつける。今日の夕食に選んだ料理は普段からよく作るものだったが、理鶯と一緒にキッチンに立って作ったことが大きいのか、波琉にはいつも以上に美味しく感じられた。
食べて、飲んで、他愛もない会話を重ねて料理を平らげた後は、とうとう映画鑑賞が始まる。波琉は新しい缶ビールを2つ冷蔵庫から取り出し、ソファーに座っている理鶯に手渡す。「ありがとう」「どういたしまして」と言葉を返して理鶯の隣に腰を下ろすと、図らずも肩と肩が触れ合う。あっ、という驚きは運良く声にならなかった。波琉は平常心、平常心と気持ちを落ち着かせる。触れた場所から熱が帯びてきたことには気づかないふりをして、波琉はDVDを再生させた。
映画自体は紆余曲折を経て結ばれるというありきたりな王道のストーリーではあったが、予想していたよりも何倍も面白かった。──面白かったのだが、念願叶って主人公とその想い人が結ばれた後に濃厚なラブシーンが入っていたのが唯一の誤算だった。洋画ではよくある展開だし、ラブシーンに恥じらう程子供でもない。しかし、一緒に観たのが理鶯というだけで波琉の心は気まずさでいっぱいになる。画面には映画主題歌と共にエンドロールが流れている。波琉は横目で理鶯の様子を窺ってみたが、理鶯はいつにも増して無表情で、何を考えているのか全く見当がつかなかった。やがて長い長いエンドロールが終わり、画面は再びスタートメニューへと戻る。沈黙が、重苦しい。この場を支配する気まずい空気を破るように、波琉は無理矢理口端を上げた。

「あー、ごめんなさい。なんか、あんまりな内容でしたね」

ははは、と乾いた笑いを浮かべながら、DVDデッキからディスクを取り出すためにソファーから腰を浮かした次の瞬間、ぐっと手首を強く掴まれた。え、と思ったのも束の間、視界がぐるっと回転し、波琉の体はソファーに沈み込む。まるで敵を制圧するような素早い動きで両腕と両足を押さえつけられ、あっという間に身動きができない状態になった。目の前には理鶯の──表情も顔色も普段通りに見える──顔。けれど、瞳だけが違う色を滲ませている。それがまるで知らない人のように見えて、心臓が早鐘を打つ。得体の知れない感情がぞくりと背筋を這い上がってくるような気がした。アルコールによって上昇した理鶯の体温が両腕から伝わり、じくじくと疼くような熱となって全身に広がっていく。

「り、おう……さん、酔って、ます……?」

戸惑いながら、名前を呼ぶと目の前の瞳がさざ波のように揺れて──唇に何か柔らかいものがぶつかった。海の匂いが、鼻を掠める。一瞬だけ交わった熱が離れて、ようやく何が起こったのかを理解した。鼻と鼻が触れそうな距離、熱を孕んだ瞳に射抜かれる。目を逸らすことができなかった。息すらも止めてしまう程の静寂の中で、先に目を逸らしたのは理鶯の方だった。

「──っ、すまない、小官としたことが……」

覆い被さっていた体が離れ、拘束されていた波琉の体は自由を取り戻した。ゆっくりとソファーから起き上がって、ソファーの端に項垂れるように座る理鶯の背中に手を添える。

「だ、大丈夫。……ほら、なんていうか、お互いにお酒が入ってますし!ちょっと酒に当てられてしまっただけというか!」

この友人関係を壊してしまわないようにするためには、お酒のせいにして無かったことにすればいい。

「理鶯さん、大丈夫。……まだ、戻れますから」

しかし、理鶯は険しい顔で俯いたまま。

「本当にすまない。今日は……これで失礼する」

ぽつりと呟くと、理鶯はソファーから立ち上がって足早に玄関へと向かっていく。僅かに反応が遅れた波琉も後を追うように玄関へ向かうと、ちょうど靴を履き終えた理鶯が今にも出て行こうとしているのが目に飛び込んできた。

「理鶯さん……!」

ドアノブに手を掛けた理鶯が波琉の声に反応して振り向く。しかし、瞳が合わされることはなかった。

「また、連絡する」
「……っ、分かり、ました」
「では、おやすみ」
「おやすみ、なさい」

ドアを押し開けて、理鶯が一歩踏み出す。家の中と外──たったそれだけのことなのに、ひどく距離を取られたように感じてしまった。波琉は玄関口から一歩も動けず、ドアがゆっくりと閉まっていくのを見ている他ない。やがて、ドアの向こう側にいる理鶯の背中が見えなくなり、固く冷たいドアが波琉と理鶯を分断した。──理鶯が出て行った後も波琉はしばらくの間、その場で立ち尽くしたままだった。
連絡すると言っていたにもかかわらず、次の日もその次の日も──1週間経っても、理鶯から連絡が来ることはなかった。波琉はこちらから連絡してみようかと考えてみたものの、今更なんと送っていいのか分からず、結局メッセージのやり取りを再開することができなかった。これは完全に自然消滅のパターンかもしれないと波琉の気分が下落していく。友人関係を解消したくない一心で零した言葉のチョイスがまずかったか。映画のチョイスが、いや、そもそも家に誘い入れたことが間違いだった──などと考えれば考える程、負の連鎖に陥った。自分のやらかし具合にほとほと呆れていると、BGMと化していたテレビから『海軍』というワードが聞こえてきて、波琉は思考の海から浮上する。いつのまにかテレビはドラマからニュース番組へと変わっていて、大型の軍艦が訓練を行なっている様子が映し出されていた。理鶯もこの艦艇に搭乗しているのだろうかと考えると、心臓がぎゅっと締めつけられた。

「忙しいんだよね、きっと」

テレビに向かって、小さく呟く。理鶯から一向に連絡が来ないのはきっと、連絡する暇もないくらいに多忙を極めているからなんだろう──たとえ真実がそうでないとしても、波琉はそう思うことにした。
結局、それから一度も連絡を取り合うことがないまま、波琉の方も会社が繁忙期に入り、仕事に追われる日々を送るようになってしまった。
そして、2ヶ月が経った。会社の繁忙期がようやく落ち着き、お疲れ会を称して同僚数人と飲みに行っていた波琉は日付が変わる間際に家に帰ってきた。ふらついた足取りでリビングに入ると、ソファーに倒れ込むようにして座った。背凭れに身を預け、ふう、と一息つく。じっと白い天井の一点を見つめていると、だんだんと瞼が重くなり、意識が遠のいていく。──ああ、着替えてお風呂にも入らないといけないのに……。そう思うものの体はぴくりとも動いてくれない。動くことを諦めた波琉が意識を手放そうとしたその瞬間、ポケットに入れていたスマホが短く振動して波琉はゆっくりと瞼を持ち上げる。手だけを動かして取り出したスマホを眼前に持って行くと、手の中でスマホが連続で震えた。通知は先程まで一緒にいた同僚からで、飲み会で撮った写真を送ってきてくれているようだ。ぼーっとした頭で何気なく画面に表示されていた通知を遡っていると、同僚からのメッセージの中に"理鶯さん"からのメッセージ通知が紛れているのを見つけた。錯覚、ではない。久しぶりに目にした名前に波琉は驚きで目を見張る。慌てて送信時間を確認すると、ほんの30分前。波琉は体を起こして、メッセージアプリを立ち上げる。

《夜分遅くにすまない。突然だが、明日会えないだろうか?何時でも構わない。少し、話をしたいことがある》

メッセージを読んで息が詰まった。波琉は今すぐにでも聞きたい衝動を抑えて、《返事遅くなってごめんなさい。15時以降ならいつでも大丈夫です》と返す。するとすぐに既読がついて、理鶯から次のメッセージが届いた。

《それでは15時に山下公園に来てくれるだろうか》

分かりました、と送信してスマホをテーブルに置くと自然と溜め息が零れた。話って一体何なんだろう……?さっきまであったはずの眠気が完全に吹き飛んでしまったせいで、波琉は頭の中でぐるぐると考えを張り巡らせてしまっていた。
──翌日、波琉は電車を乗り継いでベイエリアにやって来た。柔らかな日差しが降り注ぐ中、徒歩5分程の距離を歩いて待ち合わせ場所に到着する。公園中央口から噴水の脇を通って海側へ抜けていくと、半円状に張り出されたバルコニーに見慣れた後ろ姿を見つけた。空と海の青に映える赤毛、静かに海を見つめている姿に僅かに心臓が逸る。──これは緊張のせいだ。波琉は胸に手を当てながら深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。

「……よし」

意を決して、理鶯に近づく。残り数mのところで足音に気づいたのか、理鶯の顔がパッとこちらを向いた。凪いだ海の色をした瞳と久しぶりに視線がかち合う。

「波琉、」

ほんの一瞬、気まずさが心を支配するが、波琉は悟られないようにつとめて明るい声を出す。

「理鶯さん、お久しぶりです」
「……ああ、本当に久しぶりだな。長らく連絡が出来ずにいてすまなかった」
「え、謝らないでくださいよ……!任務で忙しかったんですよね?なら、仕方ないですって。わたしも最近まで会社の繁忙期で忙しかったし」
「……そうだったか、お互い様だな」
「はい」

一瞬の間を置いて、理鶯が口を開く。

「波琉、少し歩かないか?」

てっきりすぐに本題に入ると思っていた波琉は唐突な申し出に若干の躊躇いを覚えたが、素直に理鶯の申し出を受け入れる。理鶯はふっと表情を和らげると、「行こうか」と言って歩き始めた。以前であれば自然と隣に並び立っていたが、なんとなく理鶯の隣に行くことが憚られて、波琉は理鶯の少し後ろをついて行く。カモメの鳴き声が飛び交う中、ひたすら無言のまま海に沿って歩いた。波琉は理鶯の背中を見つめる。2人の間にはたった2歩分の距離しかない。それなのにこの逞しく大きな背中が何処までも遠い──と思った。次に波琉は海へと目を向ける。海は、相変わらず穏やかだ。青く、そして陽光が反射した水面はキラキラと美しい輝きを放っている。ヨコハマに住んでいると言えど、閑静な住宅街と喧騒なビル街を日々往復する波琉にとっては随分と久しい光景だった。少し先を歩いていた理鶯の足音が止み、波琉も反射的に立ち止まる。目線を再び前に戻すと、理鶯はゆっくりとこちらを向いた。その表情は何かを決心したような──。

「波琉」

名前を呼ばれて、思わず背筋を正す。

「実は海外派遣の任務に就くことになった」

淡々と紡がれた言葉の意味を波琉はすぐには理解できなかった。『海外派遣』──。そのワードを以前ネットニュースで見たことを思い出し、徐々に言葉の意味を理解していく。

「いつから、ですか?」
「……1週間後だ」

あまりにも突然の話に波琉は当惑した。何と言えばいいのか分からず、視線を地面に彷徨わせた。重たい沈黙がこの場を支配する。しばらく何も言い出せずにいると「知らせるのが遅くなって、本当にすまなかった」と小さな声が聞こえた。視界の端で理鶯の体が海に向いたのが見えて、波琉はゆるゆると視線を持ち上げる。先程と同じように、理鶯は遠くを見つめていた。その横顔は美しく、あまりに切ない。海を見つめる瞳はあの時と同じに見えた。慈しむような、愛おしそうな。──ああ、その瞳で見つめられる海がひどく羨ましい、封印したはずの淡い想いが脳裏を掠める。だが、衝動的に口をついて出そうになった言葉を理性がとどめた。今更言ったところで何になる。友人として隣にいることを選んだのも、関係を壊したくないからと無かったことにしたのも、全て自分だ。様々な感情が波琉の中でせめぎ合う。

「──理鶯さん」
「どうした?」

ひどく柔らかい声、振り向いた理鶯の優しい瞳と視線が交わる。──本当は「わたしの元に帰ってきてほしい」と言いたかった。

「理鶯さんが無事に任務から帰ってきたら、また一緒に……美味しいご飯でも食べに行きませんか?」
「──ああ、是非」
「っ、約束ですよ!」

波琉は精一杯の笑顔を見せた。──自分にできるのはこうして見送ることだけ。小指を差し出すと、一瞬の間を置いて理鶯も破顔した。自分よりも一回りも二回りも大きな理鶯の小指が触れる。互いの指を絡ませると『指切りげんまん』なんて子供じみた方法で約束を取り付けた。

「ゆーびきった」

絡まっていた小指は呆気なく解かれてしまう。その小指に残る余韻に、波琉はなんだか泣きそうになった。



ピピピ……、朝の目覚めを告げる電子音が聞こえる。波琉は布団の中でもぞもぞと動くと、ぐっと手を伸ばしてアラームを止めた。──今日で理鶯が任務に赴いてから1ヶ月。連絡を取ることは叶わないが、波琉は理鶯のことを常々考えながら日々を過ごしていた。また、いつも通りの一日が始まる。波琉は眠気まなこのままベッドから上体を起こして、サイドテーブルに置いていたリモコンでテレビをつけた。だが、画面にパッと映し出されたスタジオの様子がおかしい。いつもならスポーツ特集が始まっている時間帯なのに、何故かスタジオは異様な空気が漂っていた。

《アメリカ海軍の要請を受けて、先月から海外派遣の任務に当たっていた海軍の護衛艦が日本時間の今日未明、錨泊中に座礁したことが分かりました》

耳に届いた音声に、時が止まったような気がした。

《──付近では天候が急変しており、発達した低気圧の影響で──》

体の芯から凍てついていくような感覚に、どくどくと心臓が痛みを伴って脈打つ。波琉はあまりの衝撃にベッドから一歩も立ち上がることができなかった。真っ白になっていく頭をどうにか働かせると、最初に頭の中を駆け巡ったのは理鶯の安否。そうだ、と無意識にスマホを手に取ろうとして動きを止める。波琉は行き場をなくした手を引っ込めると、爪が食い込むほど強く握りしめた。どうか無事でいてほしい、願うのはただそれだけだった。──それからどれほどの時間が経ったか分からない。波琉はテレビの前から片時も離れることはなかった、否、できなかった。何度も同じ情報を繰り返し発信するテレビを放心したようにしばらく見つめていると、突如としてアナウンサーに新しい原稿が手渡される。新しい情報だろうか──波琉は思わずテレビに前のめりになった。

《ここで護衛艦座礁に関しての新しい情報が入りました。安否不明者の──》

事態が急転する。アナウンサーが安否不明者リストに載った名前を階級順に読み上げ始めた。理鶯の階級が徐々に近づくにつれて、心臓の音が増していく。波琉はそのリストに理鶯の名前が載っていないことを、ただただ祈った。

《続いて、一等軍曹──毒島メイソン理鶯、》

しかし、微かな希望は打ち砕かれる。その瞬間、波琉の世界は急激に色と温度を失った。



title by るるる
20190529

back