午後の診療時間が終了し、波琉はコーヒーが入ったタンブラーを片手に1人で船首甲板へ向かっていた。狭い船内から一気に視界が開けて、美しく穏やかな海が眼前に広がる。すでに日は沈み、空の大部分は鮮やかなプルシアンブルーに染まっているが、水平線の近くはまだオレンジのようなピンクのような、何とも言えない幻想的な色が薄くたなびいている。
じっと水平線を眺めながら、コーヒーの苦味を味わう。ここから見える景色を、わたしは何回見てきただろうか──。
波琉は視線を胸元に落として、服の下に隠していた長めのアクセサリーチェーンをゆっくり引っ張り出す。現れたのは銀色に輝く2枚式のドッグタグ。かつて軍にいた頃に配布されたものだ。波琉は自分の名前が刻印されたものとは別に短いチェーンで取りつけている3枚目のタグを手に取ると、その表面を親指でそっと撫でた。


西暦XXXX年。世界の人口の3分の1が失われるに至った第三次世界大戦が終結して数年の歳月が経過したが、大戦の影響で多くの国は財政が破綻──治安の悪化が進み、各地では未だ武力抗争が続いていた。
波琉は戦後の復興が続く中で陸軍軍医だった父の背中を追いかけて軍医科歯科大学に入校し、6年かけて医学と幹部となるための資質や技能を学んだ。そして卒業と同時に医師免許を取得、更に厳しい幹部育成教育訓練を数週間受け、晴れて海軍軍医准尉となった波琉は同期の歯科医・十六沢いざさわくるみと共に4人の軍医が勤務している横浜海軍基地の衛生科部隊に配属され、そこで念願だった軍医としての生活をスタートさせていた。
第三次世界大戦後の海軍は主に、年々増加傾向にある海賊船や不審船の対処、様々な国から流れ着いた亡命船の保護や難破船の救助など周辺海域の哨戒任務を負っていて、後方支援部隊に属する衛生科は横浜海軍基地全隊員の健康維持、病気や怪我予防のための健康診断に対応している。
その基本的な医務室での職務に加えて、新人軍医である波琉は上官から軍医に必要な専門を超えた幅広い臨床医学を学び、そして週に2回は基地に隣接する海軍病院に赴いて、研修を受けながら内科医としての研鑽を日々積んでいた。
そうした目まぐるしい生活や基地の環境にようやく慣れ始めてきた頃、ある1人の若い隊員が医務室にやって来た。

「失礼いたします……!訓練中に足を挫いてしまい、診察をお願いしたいのですが」

その隊員の顔に波琉は見覚えがあった。──以前、臨時の健康診断を担当した、砲雷科部隊に所属する青天目なばためという隊員だった。

「分かりました、こちらにどうぞ」

診察スペースへ促すと、片足を少し引き摺るようにして青天目がゆっくりと歩いてくる。彼の右足首には氷嚢が巻かれ、すでに応急処置が施されていた。一度それを外した波琉はどのような状況で受傷したのか青天目に問診をしながら、患部の状態を丁寧に診ていく。患部に腫れはなく、自力で歩けていることから軽度の捻挫と診断した波琉はテーピングを巻いて足首をしっかりと固定させた。

「無理をすると更に悪化してしまうので、だいたい1週間程度は激しい動きをする訓練は控えた方がいいですね。診断書を書くので、上官に渡してください」
「はい、分かりました」

パソコンを操作し、診断書を作成する。プリントアウトを始めると同時に医務室の扉が再び開いた。青天目の「毒島軍曹!」の声につられて顔を上げると、パッと目を引く鮮やかな赤毛が波琉の目に飛び込んできた。
あっ、と思わず声が出そうになるのを堪えた次の瞬間、まるで凪いだ海を思わせる双眸と視線が交差する。彼は一切表情を変えることなく、波琉に向かってさっと敬礼をした。

「初めまして、小官は毒島メイソン理鶯、階級は一等軍曹で砲雷科に所属しております。先程訓練中に負傷した青天目一等兵の様子を窺いに参りました」

理鶯の敏速で美しい敬礼と挨拶に、波琉も居住まいを正して返礼をする。

「は、初めまして。わたしは神坂波琉と言います。階級は准尉、内科を専門としています。──青天目一等兵の診察なら今終わったところです」

プリンターから吐き出された診断書にボールペンでサインをして青天目に渡すと、波琉は改めて理鶯に向き直る。

「先程本人にも伝えましたが、1週間程度は激しい動きをする訓練は控えた方がいいですね」
「承知いたしました。上官にもそう伝えておきます」

二言三言やり取りをした後、理鶯と青天目が医務室を出て行く。理鶯の手によって扉が閉められたのを見届けてから波琉はぽつりと「あの人が、噂の毒島軍曹か……」と呟いた。
一度見たら忘れない鮮やかな赤毛に、コバルトブルーの双眸を持つ理鶯は通常15年程の勤務を経て任官されることが多い一等軍曹に、24歳という若さで異例のスピード昇進を果たした非常に優秀な軍人だった。その名は広く知れ渡っていて、波琉の耳にも横浜海軍基地に配属される前から届いていた。
そんな理鶯とは──医者という専門的な職業が故に階級は波琉の方が上に位置するものの──同齢であり、かねてから一度話をしてみたいと思っていた波琉だったが、実際に話をしてみると少しとっつきにくい印象を受けた。何を考えているのかこちらに悟らせないその表情は目鼻立ちのハッキリした端正な顔立ちも相まって、さながらロボットのようだと思った。
医務室での邂逅以来、波琉は様々な場所で理鶯と遭遇する機会が増えた。しかし、他の上官や下士官兵達のように言葉を交わすことはほぼなく、理鶯から敬礼を受け、それに対して返礼をする──ただそれだけ。相変わらず理鶯はどんな時でも表情を変えない。そのポーカーフェイスぶりを目の当たりにする度に、波琉の中で理鶯に近寄り難い気持ちが増していった。




金曜日、ほんの少しだけ浮ついた雰囲気が基地内に立ち込める。何故なら職務や生活の全てを基地や艦艇で過ごす隊員達にとって、2日間の外泊が認められて一旦任務から解放される日だからだ。
この日は運良く臨時健診の要請も入ってこなかったため、波琉はくるみと共に横浜海軍基地医務室の責任者である上官の狼谷かみたにから午前と午後の課業時間をかけて、有事の際の対応や外科的処置についての講習をみっちり受けていた。
午後の課業が終わると、海上警備に当たっている部隊を除く大多数の隊員達は外出・外泊許可を基に横浜の街へと繰り出していく。
波琉は──いつものように勉学に時間を使いたかったのだが──このところ、平日も休養日も関係なく勉強漬けの毎日を送っていたせいで「医師として研鑽を積むのは良いことだが、息抜きしなさすぎだ」と狼谷から軽く注意を受けてしまい、息抜きをするためにくるみと共に居住区の外れにある商業区域へ足を運んでいた。そこはありとあらゆる商業施設が併設されていて、基地内でありながら繁華街のような賑やかさを伴っている場所だ。
波琉達は安くて美味しいと評判の飲み屋の暖簾をくぐり抜ける。店内では基地で休養日を過ごす予定の隊員達ですでに溢れ返っていた。
お疲れ様です、と互いに敬礼し合いながら空いている席を探して店の奥へ進んでいくと、奥まった場所のテーブル席で理鶯と青天目の2人がお酒を飲んでいるところに出くわした。理鶯は表情を変えないが、青天目はあっと驚いて、すぐに満面の笑みを浮かべる。

「神坂先生に十六沢先生!お疲れ様です!お2人揃ってお越しになるとは珍しいですね」
「ええ、今日は息抜きをしに!」
「そうでしたか……!」
「──もし、よろしければ一緒に飲みませんか?」

くるみと青天目のやり取りに、理鶯が意外な言葉を口にする。唐突な誘いを受け、波琉はどうぞお気遣いなくと言いかけたが、それよりも先に波琉の心情を知らないくるみが「本当ですか!わー、ありがとうございます、毒島軍曹!」と返し、嬉々として理鶯達の輪に入ろうとしていた。くるみの行動を制止する間もなく「神坂先生もこちらへどうぞ!」と青天目から席を譲られ、波琉はあれよあれよと理鶯の真向かいに座る羽目になった。図らずもかち合った視線に波琉は僅かに肩を揺らす。

「お二人は何を飲まれますか?」
「私はビールを!」
「あ、えっと、わたしはレモンサワーを」

しばらくして注文したビールとレモンサワーがテーブルに届くと、4人でグラスを突き合わせて乾杯をする。久しぶりのアルコールに波琉は思わず息をつく。レモンの酸味が五臓六腑に沁み渡った。
行き足がある青天目と気さくな性格のくるみのおかげもあって、話は随分と盛り上がった。特に砲雷科ならではの話は軍医である波琉にとっては新鮮で、そして刺激的だった。
やがてハイペースでビールを飲み続けたせいで、いつも以上に饒舌になったくるみは理鶯と青天目に対していかに歯が大切かを力説した後、まるで電池が切れてしまったかのようにぱたりとダウンし──それから程なくして、青天目もくるみの後を追うようにで机の上に突っ伏して眠りこけた。
酩酊せずに平静を保っているのは波琉と理鶯の2人だけ。今までの賑やかさとは一変して静まり返ったこの場に、波琉は何とも居た堪れない気持ちに駆られる。視線を彷徨わせていると、不意に理鶯が口を開いた。

「ドクター神坂、申し訳ありません。青天目は普段ここまで酔い潰れることはないのですが、お二人と初めて飲んだこともあって気分が高揚してしまったのだと思います」
「こちらも、十六沢先生が色々と絡んでしまってすみません……」
「いえ、とんでもない。とても為になる話を聞かせていただきました。──ところで、ドクター神坂はお酒が苦手でいらっしゃるのですか?」

そう言って理鶯は波琉のグラスを手で指し示す。理鶯達の輪に加わって約2時間が経過したが、波琉は2杯目のレモンサワーをようやく半分まで飲み終えたところだった。

「あ、いえ……!そういうわけではないのですが……明日は病院研修があるので、少し控えておこうかなと」
「そうなのですか。休養日であってもお忙しいのですね」
「はい、まだまだ勉強することがいっぱいで。でも先日、根を詰めすぎだと狼谷先生からとうとう注意を受けてしまったんです」
「なるほど、それで今日はドクター十六沢と……」
「ええ。そうなんですけど、これではどっちが息抜きをしに来たのか分からないですね」

腕を枕にして寝続けるくるみの顔をちらりと見やって、波琉は苦笑する。多少なりとも体に入ったお酒の力もあって、少し苦手意識を持っていた理鶯との会話は不思議と途切れることなく続いていき──話題は取留めのない話からプライベートなものへと変わっていた。

「──差し支えなければお聞きしたいのですが、何故、軍医になろうと思われたのですか?」
「実は、わたしの父が陸軍軍医だったんです。その姿に憧れまして。海軍を選んだのは、その、単純に海が好きで……」

そう口にすると、理鶯の目に見たことのない驚きの色が混ざった。

「……奇遇ですね」
「え?」
「小官の父も軍人でして。幼少の頃からずっと父のような軍人になりたいと思っていました」
「えっ、そうだったんですか」
「はい。それに──」

理鶯は一旦言葉を切ると、少しだけ口端に笑みを浮かべて「小官も海が好きです」と口にした。波琉は思わず息を呑む。──こんな、柔らかい表情も、できるんだ。
理鶯が相好を崩すところを初めて見た波琉は理鶯の顔を食い入るように見つめてしまった。

「小官の顔に何かありますでしょうか?」
「え、あ、いえ!なんでもありません!」
「そうですか、ならば良いのですが」
「はい……あー、そろそろ、お開きにしますか?その、2人ともすっかり寝てしまいましたし」
「ええ、そうですね。時間も時間ですし」

2人で寝落ちしてしまったくるみと青天目を叩き起こし、なんとか店を出る。火照った頬に夜風が当たって気持ちが良い。波琉はくるみを、理鶯は青天目を背負って居住区に向かって歩き出した。

「今日は突然お誘いしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「そんな、気にしないでください……!その、他の部隊の方と飲む機会がなかったので、とても新鮮でした」
「──そう言っていただけると、お誘いした甲斐がありました」

ぽつぽつと話しながら歩いているうちに、いつの間にか宿舎の前まで戻ってきていた。
ここからは別々のルートで宿舎に入ることになる。自然と歩みが止まり、波琉は顔を上げて理鶯を見た。

「毒島軍曹、今日は本当にありがとうございました」
「いえ、小官の方こそ。──また、こうしてお話ししませんか?」
「あ、はい、それは……もちろんです」
「……良かった。では、おやすみなさい。明日の研修、頑張ってください」
「はい、ありがとうございます。……おやすみなさい」

波琉は理鶯に背を向け、女子宿舎の方向へと歩き始めた。相変わらずくるみは背中で深い寝息を立てている。
「全く……」と、波琉は軽くぼやいて──不意に、海が好きだと言った理鶯の柔らかい表情を思い出した。

「……でもまあ、飲みに行って良かったかな」

小さな星々が瞬く空を見上げ、思わず笑みが零れる。今まで見えなかった一面を垣間見たことで、理鶯に対する印象が少し変わったような気がした。



星のみぞ知る
I wish to communicate with you.

20210323(修正:20240123)

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