飲み屋での同席をきっかけに言葉を交わすようになったことで、理鶯に対する苦手意識が徐々に薄まり始めてきた頃──エストレア国への海軍部隊の派遣が政府で正式に決定された。
エストレアはアフリカ沿岸部に位置する、第三次世界大戦以前から情勢が不安定な国だったが、終戦後は他国同様に経済が破綻したことによって各地で複数のデモ隊や武装集団と国軍との衝突が巻き起こっていた。その衝突を鎮圧するべく陸軍部隊が先駆けてエストレアへ派遣されていたものの、長引く不況により他国船から略奪を行う海賊が急激に増加してきたことに伴い、海軍部隊が新たに派遣されることになったのだった。
国防省から横浜海軍基地に配備されている護衛艦2隻に対して、派遣準備命令が発出されたその日から横浜海軍基地は有事対応となり、人員編成や装備品・物資の調達、補給等が連日連夜行われた。
波琉も派遣人員に名を連ねており、狼谷を中心に同行する薬剤官や看護官、衛生兵達との緻密なやり取りに並行して、隣接する海軍病院と協力しながら派遣隊員への臨時検診や予防接種を行うなどの多忙を極めていた。
そうして1ヶ月かけて念入りに準備された護衛艦の「ケートス」と「アスピドケロン」の2隻は派遣先のエストレアへ向けて、横浜港を出港した。
今回の派遣は海賊対処作戦を遂行する海軍部隊の派遣だけではなく、陸軍への追加人員と物資輸送も兼ねているため、波琉が乗船する「ケートス」には数十名程の陸軍隊員も乗っていた。出発から数日間は慣れない艦上生活で船酔いする陸軍隊員達の処置や対応にとにかく追われていたが、1週間も経てば医務室は落ち着きを取り戻していた。
だが、護衛艦内での衛生科部隊の役割はこれだけではない。横浜からエストレアまでの航行は1ヶ月半近くにも及ぶため、全隊員に海上という閉鎖された空間での生活をストレスなく過ごしてもらえるよう、怪我や病気の診察以外にも精神衛生を保つカウンセラーのような役割も担っていたのだった。
「──神坂先生ありがとうございました!またよろしくお願いいたします」
嬉々とした表情で医務室を去っていく隊員を笑顔で見送ると、ようやく業務にひと段落がつく。
カウンセリングと言っても波琉はただ話を聞いているに過ぎないのだが、どういうわけか日に日に医務室を訪れる隊員が増えていき、気がつけば波琉は1日に何人もの隊員の悩みや相談事から他愛無い世間話まで──ありとあらゆる話に耳を傾けていた。おかげでほとんど関わりを持つことのなかった部隊の隊員達との交流が広がったのは良かったが、やはり慣れない業務とあってか疲労の蓄積度は半端ない。波琉は凝り固まった肩をほぐすように両腕を一回転させると、椅子の背もたれに体を預けて軽く眉間を押さえた。
「お疲れさん、ようやく落ち着いたみたいだな」
ハッと我に返ると、休憩から戻ってきた狼谷がパーテーション越しにこちらを覗き込んでいた。波琉は居住まいを正し、返事をする。
「はい、今しがた」
「そうか、なら今のうちに休憩しておけ。休憩はできる時にしておかないとな。しばらくは俺が応対しておくから、少し長めの休憩に行ってこい」
「……ありがとうございます」
狼谷の言葉に甘えていつもより長めの休憩を取ることにした波琉は自販機が備え付けられた休憩スペース──酒保室を目指して歩き始めた。
普段の周辺海域における哨戒任務と違って有事対応の派遣任務だが、護衛艦内には穏やかな雰囲気が漂っている。延々と真っ直ぐな通路で数人の隊員達とすれ違いながら酒保室の前までやって来ると、波琉はちょうど酒保室から出てきた理鶯とばったり出くわした。理鶯は普段の軍服ではなく、ラフな運動着を身にまとっている。
「お疲れ様です、これからトレーニングですか?」
「ええ、軍人にとって日々の鍛練は欠かせませんから。……ドクターは休憩ですか?」
「はい、業務が少し落ち着いたので」
「そうでしたか。時にドクターのカウンセリングはとても素晴らしいと、青天目からよく聞いていますよ」
「そんな、カウンセリングだなんて大層なことはしていませんよ。わたしはただ皆さんのお話を聞いているだけです」
そう言って波琉は笑った。通路の傍らですっかり話し込んでいると、突然「メイソン」と理鶯を呼ぶ声が聞こえ、理鶯の背後からふっと人影が現れた。ホワイトベージュの髪色に眼光鋭い三白眼、この艦艇に乗船する陸軍部隊の1人──頸木だ。理鶯と頸木は所属する部隊は違うものの、同期入隊ということもあって仲が良く、艦内でも共に行動しているところを波琉は何度か見かけたことがあった。
目と目が合うや否や、頸木は引き締めていた表情を僅かに和らげる。
「ああ、失礼……お話し中でしたか。お疲れ様です、神坂先生」
「頸木軍曹、お疲れ様です」
頸木を交えて軽く世間話をした後、波琉はトレーニング室へ向かっていく理鶯と頸木の背中を見送る。2人の姿が見えなくなると、波琉は酒保室の中へ足を踏み入れ、自販機でいつもお世話になっている栄養ドリンクを購入したのだった。
翌日。今日は不審船に対する射撃訓練と急病人を想定した訓練が行われる。午前7時50分。朝食後に行われた訓練についての打ち合わせに狼谷の付き添いで参加していた波琉は一足先に医務室へ戻ってくると、看護官の1人が波琉の元に駆け寄ってきた。
「神坂先生、5分程前に毒島軍曹が訪ねに来られましたよ」
「え、毒島軍曹が?」
「はい。メモを残しておくとのことで、すぐに戻られましたが……」
「分かりました、確認しておきます」
看護官に礼を言ってデスクに近づくと、積み上げていたファイルの一番上に波琉がいつも使っている正方形の付箋紙が貼り付けられていた。波琉は付箋紙をゆっくり剥がして文面を確認する。そこには几帳面で律儀さを感じられる理鶯らしい字で、
本日2100、食堂にてお待ちしております。都合がよろしければお越しください。 Rio
と書かれていた。
数週間の航行の中で理鶯からこういった類のものが来るのは初めてのことだった。一体、何の用だろうかと様々な思いを頭に巡らせながら、波琉は理鶯からのメモを私用のファイルの内側に貼り直した。
──本日行われた訓練は全て無事に終了し、瞬く間に夜の自由時間となる。日誌を書き終えて時計を見ると、時間は20時45分を少し過ぎた頃。デスクの上を綺麗に片付け、食堂に行く旨を伝えた波琉は医務室を飛び出した。約束の5分前に食堂へ到着すると、すでに理鶯は椅子に座っていた。こちらに気づいた理鶯は「お疲れ様です」と椅子から素早く立ち上がる。
「突然、お呼び立てして申し訳ありません」
「いえ、お気になさらないでください。それよりもどうかされましたか?」
「大したことではないのですが……」
言葉を切り、僅かに間を開けた理鶯に波琉は首を傾げる。
「一緒にコーヒーを飲みたいと思いまして」
「え?」
「ご迷惑、でしたか?」
「……い、いえ!とんでもない!お誘いいただけて嬉しいですよ」
「ありがとうございます。夜ももう遅いですし、カフェオレで構いませんか?ミルクたっぷりのカフェオレは寝つきに良いものですから」
「はい、ありがとうございます」
理鶯に促されて椅子に座ると、理鶯は調理場の方へ向かっていく。しばらくして2つのマグカップを手に戻ってきた理鶯から波琉は片方を受け取る。いただきます、とマグカップに口をつけると程良い温かさのカフェオレが疲れた体に沁み渡った。
今日の訓練の話を皮切りに、理鶯との会話に花が咲いていく。職務の話からやがてお互いの好きなものや苦手なものの話題になった時、波琉はあっと思い出したように口を開いた。
「そういえば、青天目一等兵からお聞きしましたが、毒島軍曹の作るカレーは絶品だそうですね!毒島軍曹も調理場に立たれることがあるだなんて、驚きましたよ」
「ええ、哨戒任務や遠洋演習の際は無理を言って調理当番に組み込んでもらっているのです。小官にとって料理を作ることは趣味と実益を兼ねていますから」
「そうだったんですね……!わたしも一度、毒島軍曹特製のカレーを食べてみたかったです」
そう口にすると、理鶯は柔らかな笑みを浮かべる。
「機会がありましたら、カレーだけでなく小官の料理をご馳走いたしますよ」
「わ、本当ですか!楽しみにしてます!」
楽しい時間はあっという間に過ぎていき──就寝時間が近づいてきたところでお開きになった。食堂前で理鶯と別れ、女性居住区に戻ってきた波琉は寝支度を済ませて布団へ潜り込む。就寝時間を告げる艦内放送が流れると、波琉は目を閉じた。
不意に、理鶯との会話が脳裏を駆け巡る。料理好きだったなんて意外だなと、理鶯の新たな一面を知れたことに小さな喜びを感じ、心が温かくなる。その気持ちを胸に抱えながら波琉は深い眠りへと落ちていった。
それから数日後。相変わらず波琉は忙しい日々を送っていた。15分程の小休憩から戻ってくると、海軍少佐の五百雀が医務室を訪れていた。狼谷と話し込んでいる五百雀に、波琉はすぐさま姿勢を正し、敬礼を行う。
「五百雀少佐、お疲れ様です」
「ああ、神坂先生。お邪魔してますよ」
五百雀は波琉より4階級上の『少佐』だが、人当たりが良くとても気さくな人物だ。狼谷とはよく飲みに行く仲であり、横浜海軍基地の医務室にも頻繁に訪れていたこともあって、波琉にとっても五百雀は馴染み深い上官だった。
また2人でお酒の話で盛り上がっていたのだろうかと思いながらデスクに戻ろうとすると、波琉は五百雀に呼び止められる。「はい」と返事をして振り返ると、五百雀はにこやかな表情を浮かべていた。
「最近、うちの毒島と仲良くしてもらってるみたいですね」
一瞬、波琉の思考が停止する。同じ艦艇で生活をしているために以前よりも顔を合わせる頻度が増え、よく話をするようになった。しかし、だからといって特別に仲が良いというわけではない。むしろ他の隊員達と比べると今まで極端に交流がなかった分、ようやく周りと同じ普通のレベルになっただけだというのに──。
「いえ、そんな。何と言いますか……普通ですよ」
何処か辿々しくなってしまった返答に、五百雀は豪快に笑う。
「アイツは滅多に感情を表に出さない性分だが、先生と話をしている時は何処か雰囲気が柔らかいように見える。……ま、これからも毒島をよろしく頼みますよ」
よろしく頼むとは一体どういうことなのか──予想だにしなかった五百雀の言葉にどう答えるべきか考えあぐねていると、医務室の扉がガラリと開いた。
その音につられて入口に目を向けると、今まで話題の中心になっていた理鶯が現れた。狼谷と五百雀の「おっ」と重なった声が耳に届く。
「噂をすれば、だな」
「……小官がどうかいたしましたか?」
にたりと笑う狼谷に理鶯が首を傾げると、波琉は狼谷よりも先に理鶯に言葉を投げかける。
「毒島軍曹……!どうかしましたか?」
「五百雀少佐殿がこちらにいるとお聞きしたもので。少佐殿、少しよろしいでしょうか?」
「ああ、分かった。──それでは狼谷先生、神坂先生、私はこれで」
五百雀は立ち上がり、扉前で控えている理鶯の元へ向かっていく。その後ろ姿を見送っていると、不意に五百雀がくるりとこちらを向いた。視線がぶつかった瞬間、茶目っ気をたっぷり含んだウィンクが投げられる。そんな五百雀の行動に波琉はただただ戸惑うことしかできなかった。
◇
横浜港を出港して半月が過ぎた頃、護衛艦2隻はようやく寄港地に到着した。補給が終わるまでは自由時間となるため、久々に上陸した隊員達は皆、意気揚々としている。もちろん波琉も、もう1隻の「アスピドケロン」に乗船していたくるみを始めとする衛生科部隊の面々との再会に胸を弾ませていた。
寄港地の観光や食事、そして買い物を済ませた波琉はくるみと共に名所である海岸公園へと足を運んだ。太陽の日射しが燦々と降り注ぐ海。キラキラと反射する陽光に目を細めながら、波琉は目の前に広がる大海を見つめる。何処までも真っ直ぐに伸びる水平線がとても美しい。
隣にいたくるみは裸足になるや否や、一目散に波打ち際へと駆けていった。大はしゃぎのくるみに小さく笑みを零すと、離れたところで海水浴を楽しんでいる隊員達の楽しそうな声が響いてきた。みんなも楽しそうだなあ、と声につられて顔を向けた波琉の目は隊員達ではなく、そのすぐ近くに佇む鮮やかな色を捉えた。遠く離れていてもすぐに分かる、空と海の青によく映える赤毛──理鶯も自分と同じように砂浜から海を眺めていた。どんな表情で海を見つめているのか、ここからでは窺い知れない。けれど、きっと慈しむような優しい表情をしているに違いないと波琉は思った。
「波琉ー!波琉もこっちにおいでよ!冷たくて気持ちいいよー!」
くるみの声に、波琉は目線を正面に戻す。手招きするくるみに軽く手を上げて応えた波琉は、くるみと同じように裸足になると砂の感触を確かめながら波打ち際に近づいていく。寄る波が波琉の足の甲をそっと撫でた。
その夜は──寄港地での自由時間が良いリフレッシュになったのだろう──医務室にやって来る隊員がほとんどいなかったため、波琉は医務室のデスクで自習に励んでいた。ふと、キリのいいところで一旦手を止めると、凝り固まった背筋を伸ばして時計を見やる。集中して取り組んでいたためか、時計の針は思っていたよりも随分と進んでいた。そろそろ休憩しなくちゃ、と思った波琉は程なくして煙草休憩から戻ってきた狼谷と交代するように休憩に入った。医務室を出て、向かう先は船尾甲板。──なんとなく夜風に当たりたい、そんな気分だった。
ひたすら通路を歩き、ラッタルを駆け上がる。外へ通じる出入扉を開けると、眼前に広がる光景に波琉は感嘆の声を漏らした。空にはほとんど雲はなく、満天の星が輝いている。日本では見られないその美しい光景に波琉は一瞬にして心を奪われた。穏やかな潮騒に耳を傾けながら無数の星が瞬く夜空をしばらく見上げていると、扉が開く音がして波琉は反射的に振り返った。
「お疲れ様です、ドクター神坂も息抜きですか?」
「毒島軍曹……!ええ、そうです」
「差し支えなければご一緒させていただいても?」
「もちろんですよ、どうぞ」
「ありがとうございます」
隣に並び立った理鶯と共に、波琉は星空を眺める。
「──星が、綺麗ですね」
「はい。……わたし、こんなに綺麗な星空を見るのは初めてです」
あまりにも壮観な景色を前にして、お互いに口数が少なくなる。だが、理鶯との間に流れるその静謐な空気は不思議と心地が良かった。つい最近までは苦手意識を持っていたはずなのに──そんなことを考えていると、ふと、一筋の光が一瞬にして夜空を駆け抜けた。
「あ、流れ星……!毒島軍曹、今の見ま──」
したか?と、波琉は最後まで言葉を紡ぐことができなかった。何故なら、理鶯がひどく穏やかな表情でこちらを見ていたからだ。思いがけずかち合ったその眼差しに波琉の心臓は大きく跳ね、緩やかに鼓動が速くなっていく。どうしてわたしの方を見ているのか、いつから見ているのか──。理鶯のコバルトブルーの瞳が星明かりに照らされて、きらきらと揺らめいている。吸い込まれてしまいそうだ、と思った。声を発しようにも発することができず、波琉はただ理鶯の視線を受け止め続けていた。
潮騒だけが、耳朶に触れる。理鶯との間に流れる、今まで感じたことのない空気感に僅かながらに戸惑っていると、不意に理鶯の手が伸びてきて──その指先が目元を掠めた。
「──っ、」
瞬間、波琉は何が起こったのか理解できなかった。突然のことに驚いて大きく肩を震わせると、理鶯はハッと目を見開いて、伸ばしていた手をさっと引っ込めた。──理鶯の指先に触れられたところがじわじわと熱くなっていく。
「っ、申し訳ありません、目にゴミがついていたもので……」
「そ、そうでしたか……!」
「許可も無く、不躾なことをいたしました」
「いえ!そんな……!ゴミを取ってもらって、その、ありがとうございます!」
心臓が、煩い──。波琉はどくどくと胸の内を叩く拍動の強さを紛らわせるように夜の海に視線を落とした。ゆっくりと呼吸を繰り返して落ち着きを取り戻そうとするものの、理鶯に触れられた部分から広がった熱はなかなか冷めやらない。海の穏やかさとは裏腹に波琉の心にはさざ波が立ち始めていた。
星の海に溶けねども
I wish you a pleasant voyage.
20210522(修正:20240123)
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