護衛艦「ケートス」と「アスピドケロン」の2隻は派遣先のエストレア国に到着した。ここからは各部隊それぞれの配属先に赴き、任務に従事する。
衛生科部隊の任務は隊員の健康管理や傷病者の治療だけでなく、公衆衛生や医療指導など多岐に渡る。その中でも波琉は港から約30km程内陸に位置する野戦病院での任務に就くことになっていた。──そこは武力衝突や長引く不況により、病床や医療資源が逼迫する事態に陥っていたエストレア国立病院の周囲に設置された陸軍が統括する病院であり、現在は民間と陸軍の共同で負傷者の治療や医療を受けられない市民の診察を行なっている。
波琉は自分が乗ってきた「ケートス」を見上げた。海軍のほとんどは海賊対処作戦の任務に当たる。砲雷科部隊所属の理鶯や青天目はその任務の中でも前線に就くのだろうか。ぼんやりと考え込んでいると、近づいてくる車輌の走行音に現実に引き戻される。野戦病院から来た、迎えの陸軍車輌だ。──ここからは研修でも訓練でもない。狼谷を筆頭にして車輌に乗り込むと、自然と身が引き締まる思いがした。
こうして、波琉にとって初めての海外任務が始まったのだった。
連日連夜、この野戦病院には傷病者が運び込まれる。有事下では外傷だけでなく、劣悪な環境によって引き起こされる精神的・身体的ストレスからなる様々な内因性疾患や精神疾患にも罹患しやすいからだ。波琉達は傷病者への診察、治療、そして──心身のケアまで様々な業務に明け暮れていた。今までの研修や訓練とは比べものにならない緊迫した状況の毎日に、波琉は有事下の真っ只中にいることを身に沁みて感じていた。
「ふぅ……お疲れ様……」
「……くるみも、お疲れ様」
朝からひっきりなしに行われていた診察にひと段落がつき、波琉はくるみと共に仮眠室のベッドに腰かけていた。ミネラルウォーターを口に含むと、全身に水分が行き渡る。
「生き返った……」と波琉とくるみの声が重なると、2人は顔を見合わせて笑みを零した。
「そういえば、波琉は毒島軍曹とは連絡を取ってるの?」
「えっ?」
予想だにしなかったことを聞かれ、声が少し上擦った。くるみは口角を上げて少し浮ついた表情でこちらを向いている。
「と、取ってるわけないじゃん。連絡先すら知らないんだから」
「え、そうなの!なんで!?」
「なんでって言われても、別に配属先が違うし」
「えー……聞いておけば良かったのにー」
「連絡を取ることもないのに、聞くのはおかしいじゃん」
「そんなことないと思うけどなー」
「いやいや、そんなことあるよ。って、もう……!寝るよ……!」
どこか残念そうな表情に変わったくるみを横目に波琉はベッドに潜り込む。
目まぐるしい任務漬けの毎日に今の今まで考える余裕などなかったはずなのに──不意に理鶯が心の中に滑り込んできた。とくりとくり、と僅かに鼓動が逸る。波琉はそれを押し隠すようにぎゅっと目を瞑った。
日誌を書き終えた波琉は各部隊の報告書にざっと目を通す。エストレアに来て2ヶ月。各部隊の活躍もあって、徐々にデモ隊の衝突や海賊被害は少なくなっており、おかげで一時はパンクしかけていた病床にも余裕が生まれるようになった。しかし、外傷は治れど紛争によって受けた心の傷は長期的な影響を及ぼす──。まだまだ油断ならないと感じながら、波琉はノートPCを静かに閉じた。
ふぅ、と息をつく。今夜の院内は珍しく落ち着いている。今のうちに一息入れようと思ったところで、胸ポケットに入れていた携帯がピピピ、と鳴り出した。ディスプレイに表示されていたのは登録されていない番号。軍から支給されたこの携帯は基本的に緊急時や本部とのやり取りでしか使わないため、波琉は衛生科部隊の面々と、この野戦病院に配属されている数人の隊員達の番号しか登録していなかった。一体誰からだろう──?波琉は少し首を傾げると、通話ボタンを押して携帯を耳に当てた。
「はい、横浜海軍基地衛生科部隊の神坂です」
『夜分遅くに突然申し訳ありません。横浜海軍基地砲雷科部隊の毒島です』
スピーカー越しに柔い低音が耳朶に触れる。
「え、あ、毒島軍曹……?」
『お忙しいところ驚かせてしまい、大変申し訳ありません。実は、ドクター十六沢から番号を教えていただきまして』
「くるみから……?」
いつのまに──。先日から一度、所用で艦へ戻っているくるみの顔が頭に浮かぶ。そういえば以前、毒島軍曹とは連絡を取っていないのかなどと聞かれたことを波琉は思い出した。
『ドクターは今、業務中でしょうか?』
「あ、いえ、今ちょうど休憩を挟もうと思っていたところです」
そう言って波琉は椅子から立ち上がり、外へと繰り出した。爽やかに吹き抜ける夜風が波琉の体を優しく包み込む。こうして理鶯とゆっくり話をするのはいつぶりだろう。海軍基地や護衛艦内ではよく顔を合わせ、話をする機会があったというのに──不思議な感覚に陥る。
「随分と久しい、ですね」
『ええ。赴任先が違いますと、なかなか顔を合わせる機会もありませんから』
「そうですね……。あの、ところで、何かありましたか?」
『いえ、特段何かがあったわけではないのですが……』
理鶯は言葉を切る。──甲板にでも出ているのだろうか、微かな波の音が電話越しに聞こえてきた。
『ドクターはどうしているだろうかと思いまして』
「えっ……?」
『確か、初めての海外派遣だったかと。調子はいかがですか?』
──あ、そういうことか。びっくりした。波琉は胸に手を当て、理鶯には聞こえないように静かに深呼吸をする。
「そうですね……正直に言いますと、毎日狼谷先生達についていくのに必死です。けれど、とても充実しています」
例え有事下であっても、このエストレアには人々の生活の営みがあり、そして文化があると知った。ここでの経験や人々との交流は波琉の中で何にも変え難いものとなっていた。
波琉は今までにあったことを噛み砕いて、理鶯に話し始める。有事下の治療の大変さから始まり、現地のスタッフや地域の子供達との交流まで。こんなことを口にしていいものか迷った波琉だったが、電話口の理鶯はとても穏やかな調子で相槌を打ってくれた。対面ではないものの、理鶯と話をしていくうちに波琉の心はじんわりと温かくなっていく。
「毒島軍曹の方は、いかがですか?」
『こちらは──』
優しく、海のように穏やかな声色が鼓膜を揺らす。理鶯の話を聞きながら、波琉はエストレアの空を見上げた。そこには無数の星がきらきらと瞬いている。距離が離れていても同じ星を見ているのだと思うと、なんだか少しだけ心がむず痒くなった。
「──神坂先生」
声をかけられ振り返ると、神妙な面持ちをした看護官がテントの中から顔を出していた。波琉は看護官に向かって頷く。
「すみません、仕事が入りました」
『とんでもないです。小官の方こそ急に電話などしてしまって申し訳ありません』
「いえ……!お電話ありがとうございました」
おかげで息抜きができたと、波琉は理鶯に感謝を伝える。
「それではまた。おやすみなさい」
『はい、おやすみなさい』
終話すると、波琉は思考を仕事モードに切り替えて再びテントの中に入っていった。
◇
その日は、透き通った美しい青空が広がる晴れた日だった。
狼谷の元に一本の電話が入った。
「はい……はい……えっ──」
受け答えをしている狼谷の声が少しずつ固くなっていく。ただ事ではないと、この場に緊張が走った。
「……分かりました……はい、それでは、失礼いたします」
電話を切った狼谷がくるりと振り返って、この場にいた全員の顔を見渡す。──その表情はひどく憔悴していた。
「……日本でクーデターが起きた、そうだ」
「え?」
「仔細は分からないが、首謀者は言の葉党──」
西暦XXXX年。日本国内で言の葉党によるクーデターが起こった。
言の葉党は今から19年前に東方天乙統女により立ち上げられた、女性による女性のための政党だった。立党当初から武力ではなく、対話による平和的政治を目指すことを謳っており、現在は《争いを続ける醜い野蛮な男を排除し、女性のみの政権を樹立する》という公約を掲げ、飛躍的に勢力を拡大しつつあった。だが、その言の葉党がまさかクーデターを起こして政権を奪取するとは。──夢にも思わなかった出来事に衝撃と動揺が広がっていく。
「それから──全軍、エストレアから撤退せよとの命令が下った」
エストレアへの派遣部隊だけではない、世界各地に派遣されていた全部隊に対して、新たな内閣総理大臣となった東方天乙統女は即時撤退の命令を下したのだった。過去の大戦の教訓から文民統制が敷かれている日本では軍の最高指揮官は内閣総理大臣にあたり、これに従わなければならない。──どよめきが収まらないまま、直ちに全ての任務は中止となり、即時撤退に向けての作業が行われた。
そして、護衛艦「ケートス」と「アスピドケロン」の2隻は一両日中にエストレアから出港することとなった。やらなければならないことが、この国ではまだまだあったというのに──。突然のことに困惑する患者や現地スタッフの表情が頭にこびりついて離れない。まさに、志半ば。波琉は後ろ髪を引かれる思いを胸に抱きながら、小さくなっていくエストレアの地を護衛艦の窓から見つめていた。
往路とは違い、艦内は非常に重苦しい雰囲気に包まれていた。総員待機せよとの命令により、医務室にはただの1人もやって来ることはなく、狼谷もまた幹部会議に呼ばれて医務室の席を連日空けていたため、波琉は何もすることができなかった。どうにも手持ち無沙汰な状況が落ち着かない波琉は何とか自習をしようとノートや医学書を開いたものの、気がつけば言の葉党が起こしたクーデターのことばかりを考えてしまっていた。
現時点で分かっていることは言の葉党は国内の電波を全てジャックし、クーデターの様子を生中継して全国民に知らしめたこと。そして“ヒプノシスマイク”という得体の知れないものを使用して行なわれたこと。《H法》という名の法案が公布・施行されたこと。そして、その条文には「人を殺傷する全ての武器の製造禁止、及び既存の武器の廃棄」の一文があること。──国防を担う陸海空の三軍もこの法案に抵触してしまうのか。もし、そうだとすれば日本に戻った自分達の処遇はどうなるのか。だが、前代未聞の事態に国防省も混乱を極めているためか、これ以上の情報を知ることはできなかった。
まるで、ふわふわとした悪い夢を見続けているような、モヤモヤとした蟠りが解けないまま無為に時は過ぎていき──数日が経ったある日の夜。波琉は医務室へ戻る廊下をぼんやりとした足取りで歩いていた。かつてこの艦内に漂っていた穏やかな雰囲気はもう、ない。たった数ヶ月前のことが遥か昔の出来事のように感じられた。
「……ドクター神坂」
「──あっ、」
声をかけられて顔を上げると、目の前に理鶯がいた。その表情はどことなく、固い。
「どうか、されましたか……?」
「……これを、ドクターに」
「え?」
目の前にすっと理鶯の握り拳が現れる。波琉は慌てて両手を受け皿にして、その握り拳の下に差し出した。ゆっくりと開かれた理鶯の手から何かがキラリと光って波琉の掌に落ちる。丹念に磨かれたであろう銀色のそれに、波琉の心臓は嫌な音を立てた。唐突に死の匂いを感じて、波琉の心はざわざわと落ち着かなくなっていく。2枚式ドッグタグの片割れ。冷たく、ずっしりとした感触を掌に感じながら波琉は理鶯を見やる。
──どうして、これを。
──一体、これから何を。
聞きたいことは山ほど出てくるのに、肝心の言葉が喉の奥に張りついて出てこなかった。
「──それでは、小官はこれで」
「……あっ、ま、待ってください!」
理鶯から渡されたドッグタグの片割れをそっと両手で包み込むと、波琉は深く息を吸い込んで吐き出す。
「……っ、必ず、お返しします」
声が震えそうになるのを堪えて、波琉は精一杯の言葉を口にした。真っ直ぐ、そして力強く、コバルトブルーの瞳を見つめる。理鶯は一瞬だけ目を伏せると、普段と変わらない美しい敬礼を行なった。そしてそのまま、波琉に背を向けて足早に廊下を駆けていった。遠ざかる理鶯の背が少しずつ滲んでいく。心の奥底から込み上げてくるものを我慢するようにドッグタグを握りしめた両手に顔を寄せると、波琉はしばらくの間その場に立ち尽くしていた。
そして、総員が寝静まったその日の深夜。2機のヘリコプターが人知れず、護衛艦「ケートス」から飛び去っていった──。
約1ヶ月半の航行を経て、護衛艦「ケートス」と「アスピドケロン」はエストレア国から日本に無事帰還した。
国内の状況を全く知らない隊員達を出迎えたのは数多の言の葉党党員だった。クーデターが嘘ではなかったのだと、じわじわと現実味を帯びていく。
「これよりH法に基づき、全ての武器を没収する。また、この時をもって軍は解体する!こちらの指示に従い、艦内にあるもの全てを外に出すように!従わない者は公務執行妨害とみなし、ただちに身柄を拘束する!」
拡声器から放たれた言葉に動揺が広がっていく。言の葉党党員の指示に従い、護衛艦に積載されていた武器や装備品が次々と外に運び出される。基地内に保管されていたものは、この1ヶ月半の間にほとんど運び出されてしまったようだ。──がらんどうになった横浜海軍基地は、波琉の記憶の中にある場所では無くなっていた。
混乱の渦中にある横浜海軍基地で、波琉は理鶯のことを考える。ドッグタグの片割れを受け取ったあの日から、波琉は理鶯の姿を見かけなくなったのだ。理鶯だけではない、頸木や何人かの隊員達の姿も。彼らは煙のように消え、行方知れず──。
しかし、波琉は理鶯の安否を知ることができなかった。何故なら、新政府からの通達によりこの横浜の地から離れざるを得なかったからだ。
星影に翳す
Where are you bound for?
20240126
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