気付いた時にはもう遅い



※軽く性表現


その男の人はいつも私とこのカフェで相席をする。
今日も今日とて、私がココアを飲んでいると「相席よろしいですか?」と一言かけられる。
断る理由も特にないので「いいですよ」と受け入れる。

他の席は、今日も空いている。

その人はいつも書生のような格好をしていて、それがまたよく似合うのだ。
そして文庫本を読みながらコーヒーを飲んでいる。これもいつもの光景だ。
特に会話も交わすこともない。交わしても「今日は(雨が)よく降りますね」とか「貴女はいつもそれですね」とか一言二言くらい。

彼が来てから小一時間くらいを私は既に冷たくなっているココアをちまちまと飲みながらこの席で過ごす。これが毎週日曜日の習慣だ。そしてきっと彼も今過ごしているこの時間は習慣なのだろう。

・・・まぁ、彼と会うのも来週できっと最後なのだが。私は相席の彼に挨拶くらいはしておこうと、そう思ったのだ。

「あの、」
「はい、なんでしょう」
「・・・その、私、来週引っ越すんです。」
「・・・ほう。」
一瞬彼は大きく目を見開き驚いたような表情を見せ、読んでいた本を閉じた。
「それはまた。お仕事の関係ですか?」
「いえ、・・・」
「・・・言いにくそうですね。」
「えっと、結婚、・・・なんです」
「おや、おめでたい。・・・という雰囲気ではないですね。」
「会ったこともない、相手で。・・・私の実家は、N県にある3世代続く和菓子屋さんなのですが、経営難で。もう店を畳むしかないところまできてたんです。そんな時にぽんと大金を出してくれる人がいたみたいで、大金を出す代わりに・・・私を嫁にほしい、って。両親も悩んだみたいですけど、結局は私を売るほかなかったみたいで。」
「随分横暴な人がいたもんですね。」
「・・・いえ、渡りに船には、違いないですから。」

被っているベレー帽をぎゅっと握り少し深くかぶった。
そりゃ、私だって見ず知らずの相手と結婚なんてしたくないのだ。けれど、それよりも実家が大切なのだ。

「なので、相席仲間の貴方にはご挨拶をと思いまして。今までありがとうございました。」
「これはご丁寧に。ふふ、特に何もしていませんがね。」
「・・・む、それもそっか・・・。んー、じゃあ、さよなら、です。」

そうだなぁ、名前くらい聞いておけばよかったかなぁと思いつつ席を立ちレジでマスターにお金を払った。
チリン、とドアを開けると鈴が鳴る。
午前中から降り続く雪は相変わらずである。
今住んでいるアパートには今週からアパートを引き払う準備とか諸々するため(というかほぼ監視)のために母がいる。嫌だな、と思いつつ家に向かって歩みを進めていた時だった。

「待って名前」

呼ばれた名前に振り返ると、先程別れた相席の彼。
・・・てか、名前。なんで知られてるんだろう。

「逃げませんか、私と。」
「・・・貴方と?」
「顔も知らない相手よりはまだ私の方が良くないですか?」
「確かに・・・?でも私貴方の名前も知らない。というか、何故私の名前を知ってたんですか」
「えっ・・・本当に俺のこと覚えてなかったのか。」
「えっ、どこかで以前お会いしましたっけ・・・」
「・・・こうすれば分かるだろうか・・・」

あんまり気乗りはしないけれど、と付け加え相席の彼は前髪をささっと崩しどこか重たい感じのする古風な眼鏡をかけた。
そこで私は高校のある同級生を思い出したのだ。

「夢野くん・・・だ」
「遅い。」
「ごめん・・・だって全然雰囲気違うもの。」

ああそうだった、いつもあの前髪から覗く翡翠。そうだそうだ、彼だ。夢野くんだ。いつも教室の片隅で本を読んでる大人しい男の子。で、私のファーストキスの相手。

「あぁ懐かしきかな唇泥棒の夢野くん」
「あれは事故でしょう」

忘れもしない高校2年の秋。当時同じ図書委員をしていた私と夢野くんは図書室管理の宮本先生がいつかやるいつかやると先延ばしにしていた管理しきれていない古書の整理をするために一般に解放している図書室ではない、図書室Bという部屋で整理をしていた。
宮本先生がズボラな性格なので高く平積みされているものも多かった。その時にぐらっと地震が来てそのタワーが崩れてきたのだ。夢野くんがその時に私に覆いかぶさって庇ってくれたのだがその際に唇同士が接触事故を起こしてしまったのだ。・・・うん、まぁそれだけのことなのだけども。

「で、どうしますか。この唇泥棒に身を委ねてみる気はありますか?」
「・・・うん」

差し出された手を取ってこの契約にのることにした。
取り敢えず彼の住んでるというマンションに匿ってもらうことなった。彼は現在作家をしているのだという。世間の流行に疎い私は彼の名前が世に出ているということも知らなかった。

快楽に酔いながらやっぱりあの頃の彼とは違うなぁ、と唇が接触した時の赤面顔をぼんやりと思い出しながら、今嬉しそうに私を下から私を突き上げる彼の顔を見ていた。
・・・そりゃぁ、私だってこうやって身体を許しちゃうくらいになってしまってはいるのだけれども。


「なんで相席だったの」

漸く息が整い始めた時に聞いてみた。

「最初は本当に偶然だったんですよ。席が空いてなくて店側から相席を促された。そこにたまたま名前がいた。」
「そうだよね、あの時私ウェイターさんからお願いされたの覚えてるし」
「貴女あの時驚いた顔してから会釈してたので覚えてたと思ったんですよ」
「いや、相席お願いされたの初めてだったことと随分な美男子がきたから驚いてたの・・・それにほら、夢野くん学生の時前髪分けずに下ろして眼鏡かけてたでしょ」
「それはどうも・・・それも貴女に言われてからですけどね。」
「・・・ん?なんか私言ったっけ」
「貴女本当に海馬ゆるっゆるですね。・・・ほら、地震の時に。」
「んんん・・・・あっ」

あぁ、そうだ。言った。

覆いかぶさるようになったあの時普段隠れてる夢野くんの眼がしっかりと見えて、あまりにも綺麗だったから言ったんだった。

「綺麗な翡翠だ・・・見せればいいのに、勿体ない。・・・的なこと言った。」

「記憶していないわけではないらしいね。・・・その時凄く嬉しかったんですよ、そんなこと言われたことなかったので。ましてや好きな女の子からでしたから。」
「え、夢野くん私のこと好きだったの。」
「・・・俺当時から結構分かりやすく接してたつもりなんですが、鈍すぎませんか。」
「ごめん、よく言われる」
「はぁ・・・最終的に私の手中に収まってくれたので良しとします。」
「・・・・ん、あれ?今私ってそういう状況?」
「そうですよ。名前は今日から7年もののストーカーに監禁されて毎日毎日犯されるんですよ」

あぁどうしよう。
気づいたけど夢野くんは変わってないのかも。今恍惚の表情で語る時の眼はあの時と一緒だ。

これって私選択ミスったんじゃないでしょうか?