アリスのためいき



01

早く、大人になりたい。

「おい、るい。こんなところで寝るなよ。風邪引くぞ」

学校が終わり宿題も終え、メルルの店へやってきたチェスターが休憩室で見たのは、ソファに仰向けに横たわり眠っているるいの姿だった。シキやアリスたちの姿はない。どうやら店にいるらしく、シキと客の声にかすかにレジの音が混ざって聞こえてくる。

るいに近付き顔を覗き込む。

「…爆睡かよ」

小さな寝息が聞こえる。どうやら休憩中にお茶を飲んでいて、そのままうたた寝してしまったらしい。近くのテーブルに飲みかけの紅茶が入ったティーカップが置いてあった。

でも、気持ちはわかる。今日は暑すぎない日差しで、時折カーテンを揺らすそよ風は優しい。お昼寝が心地よく感じる午後だ。昨日は少し暑かったし、明日は雨が降りそうだとメルルが言っていた。こんな日のお昼寝はさぞ気持ち良いだろう。

チェスターは室内を見回す。本当なら、メルルの店を任せられている身分でサボって昼寝など言語道断だと思う。けれど、るいは知らない土地からやってきて、慣れない環境でアリスたちと関係を深め、ワンダーランドの人々と触れ合い、エドガーやセイランから時折頼まれごとをしながら、さらにお店の手伝いまでしている。チェスターの勉強だって、たまに教えてくれる事もある。

疲れて、いるんだろう。いつも気を張っているに違いない。そう考えると、とても彼女の束の間の眠りを妨げる気持ちにはならなかった。

隣の部屋からブランケットを持ってきて、ふわりとるいの上にかける。るいの体に触れたブランケットは、空気をそっと押し出しながら、るいの体の形に合わせるように落ち着いていった。

「…甘い香りがする……」

ブランケットの隙間から生まれた風に乗って、はちみつのような、野花のような、甘い香りがチェスターの鼻先をくすぐった。最初は窓から入ってきた香りなのかと思ったが、不意に意識して呼吸すると、その香りがるいの髪から香ることに気付く。

チェスターはるいの眠るソファの隣に膝をついた。

(やっぱり、この髪の香りだ…)

そういえば、るいはワンダーランドに来た最初の頃に『化粧品や石鹸類がなくて困った』と嘆いていた。最初のうちは手持ちの化粧品を使っていたらしいが、無くなった後はどうしていたのだろうか。チェスターには興味がない話だったので、詳しく聞いていなかったけれど。

その髪の香りが気になり、そっとるいの顔を覗き込む。結局、シャンプーはメルルと同じものを使うと言っていた気がする。メルルの陽だまりのようなあたたかい香りも好きだが、るいからは違う香りがする。蜜菓子のような、知らない花のような。甘い香り。

「俺の知らないとこで、隠れておやつでも食べてるのか?」

ぼそっと呟くと、チェスターの声が聞こえたのか、るいが少し肩を揺らした。驚いて体を引こうと思うが、るいはすぐにまた小さく寝息を立て始める。チェスターは一呼吸間を置いてから、安堵の息をついた。

「…るい」

気になる。もっと、知りたい。

――そんな欲求が生まれてしまう。出来ればその瞳が開いているときに。ワンダーランドには珍しい、星空を閉じ込めた夜空のような、全てを吸い込む力強い宝石のような真っ黒な瞳で。優しい声音と、優しい香りで。

「チェスター?」
「…!!!」

るいの寝姿に見入っていたチェスターの頭上から、控えめな声が名を呼んだ。控えめではあったが、心ここにあらずといったチェスターには、その声が落雷か爆発のような大音量に聞こえて、口から心臓が飛び出すかと思うほど盛大に驚いた。

チェスターの意識とは関係なく体が跳ね、反動でその場に尻もちをついてしまう。声がした頭上を見上げると、こちらも驚いたように目をまん丸にしたシキがチェスターの顔を覗き込んでいた。

「シキ!? 脅かすなよ、びっくりするだろ!」
「あはは、ごめんごめん」

チェスターが怒鳴るように抗議すると、シキは両手を挙げて謝意を示したが、口元は楽しそうに笑っていた。チェスターはしぶしぶ立ち上がり、お尻に…ついてはいないと思うが、一応埃を払っておく。

「るい君に、何しようとしてたの?」

チェスターが身支度をしていると、不意にシキがそう訊ねてきた。驚いてシキの顔を見ると、彼は不思議そうに首を傾げている。チェスターは声を掛けられる前にじっとるいを見つめていた事を知られたと気付き、フイとそっぽを向いた。

「べ、別に、何も……」
「…ふうん?」

シキの不思議そうな声を聞いて、いたたまれなくなったチェスターは店に出ようと踵を返した。るいを起こしてちゃんと店番させろよ、と言い放つと、シキの横を通り抜ける。けれど、その時に耳元に聞こえたシキの声に、チェスターは反射的に振り返った。

「るい君ってさ、甘い香りがするよね」
「!!!」

チェスターは表情が強張る感覚を覚えた。けれど、そこから数秒の時間も置かないうちに、今度は顔が熱くなるのを感じた。何も言わずにその場を後にすると、背後からシキがるいを起こす声が聞こえてきた。しばらく、シキやるいの顔をまともに見れない気がする。

るいは優しい。宿題も教えてくれるし、アリスを持たないチェスターとクロージーの相手もしてくれる。店のわからないことも、年下だからと侮らずに聞いてくれる。そうやって、優しく扱われながら過ごす日々も決して嫌いではないけれど、

やっぱり今でも、早く大人になりたい。



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