スターチスの栞

※06話閑話を読んだ後に読むことをおすすめします。
 1pでまとめたから長い。とにかく長い。


「実は私は、誰かに命を狙われているらしいんだ。」

明るい口調で冗談めかしい言葉を言う彼女は悪戯っ子のような笑みで笑っているつもりだろうか。眉は八の字を書いていて、細められて見えづらい瞳には寂しさを抱きこんでいた。

...あの時の彼女の顔を僕は忘れることはないだろう。
これは僕達がまだ一年生だった時の話だ。

◆  ◇  ◆

半年近くも通っていたら当然のように学校へ往復する道も慣れた景色として日常の一部へと溶けこんでいく。その道を家に帰る方へ歩いていると視界の隅でヒラヒラと何かが落ちた。駅前の道はそこそこ混んでいて、それを落とした人は気付いていないのか人混みをすり抜けて行く。

見覚えのある後ろ姿。当たり前だ。だって彼女は僕と同じクラスなのだから。

彼女が落とした物を拾って後を追う。声をかけると彼女はビクッと肩を震わせ強張った表情で振り返った。

「潮田君、だっけ?」

声をかけられると思っていなかったのかその目は戸惑いで揺れていた。ぎこちない笑顔を張り付けて彼女は、沢田さんは首を傾げた。

「これ落としたよ。」

彼女が落としたのは押し花の栞。薄桃色の用紙と紫色の小振りの花がラミネート加工されたものだ。

沢田さんはそれを見てえっと声を上げた。すぐに手に持った本を開いてあ〜と手で顔を覆う。

「全然気付かなかった...ありがとう。」

不器用な笑みを浮かべ沢田さんは頭を下げた。僕は沢田さんの姿に意外だなって思った。

・ ・ ・

「一目見てあなたを好きになりました!!友達からでも構いません、僕と付き合ってください!!!!!」

「ええっと、そういうのはちょっと...ごめんなさい。」


入学式後に起こったそれは鮮烈な思い出としてよく覚えている。体育館の外、人が集まるその中心、頭を下げて手を真っ直ぐに相手へと伸ばしている男の子、それを向けられている女の子はやや引き気味の、困った顔で彼を見ていた。

それが僕が初めて見た沢田さんだった。

同じクラス、しかも名字が近いから僕達の席は近い。だからあの日からの出来事を僕は近くで見ていた。

あの後から色々あって、今では誰も彼女に関わろうとしない。彼女が歩けば道は開く。モーセの海割れのように。そして真しやかに彼女の悪い噂が囁かれる。
その中を彼女はなんでもないような顔で歩く。聞こえるように放たれた陰口も、聞こえているはずなのに気にも止めない。その姿が僕には眩しくて...カルマ君と同じように彼女にも憧れた。

・ ・ ・

その彼女が目の前にいる。それなのにあんな風になりたいと思った気持ちはどこかへといった。
彼女の姿が僕にはどうしても何かに怯えているようにしか見えない。栞を受け取ろうと伸ばす手は微かに震えていて、僕達の周りを、違う、僕自身も、全てに恐怖しているようだ。

どうしてそんな顔をするんだろう。学校と全く正反対の姿に驚くよりも先に抱いたのはそんな疑問だった。

◆  ◇  ◆

「ねー渚君。渚君って沢田さんと話したことある?」

それからしばらくして僕はカルマ君とつるむようになった。そんなある日、カルマ君とワックで話していると突然彼はそう切り出した。

「え?うん。一度だけならあるよ。」

「それってさ、椚ヶ丘駅の近く?それと、その後しばらく話してた?」

「うん。確か沢田さんが外国語の本持ってて、それで何読んでるのか少し話したかな?でも会話したって言ってもそれだけだよ。」

ふーんと頬杖をつくカルマ君の意図はわからない。質問に答えると彼はその答えに満足そうに頷きトレーを片付けに行った。戻って来た彼とカバンを持って外へ出る。

「俺、ある人達から人を探せって言われてるんだよね。」

人を?と首を傾げる僕にカルマ君は話を続ける。

「前に道で聞かれたんだよね。沢田奈々緒って人を知ってるか?ってそれで同じクラスだし知ってるって答えたら...その人達は人を探してるって言ったんだ。」

僕を見る目に嫌な予感を感じつつも静かに彼の話を聞いた。

「その人はこの前沢田さんと駅前で仲良さそーに話してたんだって。背が小さくて...髪が長い男の子。」

「それって、」

僕だよね。そう話そうとする前にカルマ君はごめんねと渚君と言った。

「俺沢田さんに興味あるんだよね。沢田さんのこと知りたいから、だから大人しくあいつらの言うこと聞いてんの。身の安全は保証するからさ、ちょっとそこの人達に着いてってよ。」

彼が指差す方は道の先、そこに制服を着崩した大柄の男が二人立っていた。
抵抗できるわけもなく、隣町の並盛町にある人気のない空き地へと連行される。そこに僕を連れてきた不良達の仲間が何人も待っていて、僕は為す術もなく拘束された。

「沢田奈々緒はいつ来るんだ?」

「さっき呼びに行かせたからもうすぐ来るんじゃねーか?」

今日こそあいつをぶっ飛ばすぞと彼らは意気込んでいた。その内の一際大きいリーダーと思しき男が僕の隣に胡座をかいた。

「まあなんだ。てめぇには恨みはないが大人しくしとけよ。用がすんだら離してやる。」

ボリボリと頭を掻く彼は体格に似合わない繊細さを持っているようだと、人質みたいな状況に置かれているのに呑気にそんなことを考えた。

それから数十分が経ち、いつまでたっても現れない沢田さんに彼らはだんだんと苛立ちはじめていた。
リーダー格の男は舌打ちをすると立ち上がってあいつのところに行くぞと大声を出した、その時だった。

「頭討ち取ったりーってね。」

彼女は突然上から降ってきた。地面に着地するのと同じタイミングでリーダー格の男は倒れる。

「沢田さん...?」

「ごめんね潮田君。私と話したせいで変なやつらに目を付けられたね。......すぐ終わるから待ってて。」

その時沢田さんがどんな顔をしていたのかわからない。
ただ僕は沢田さんが一人で彼らを相手にできるとは思えなくて、必死に止めようとした。でも沢田さんは大丈夫だからと一言言って彼らに向かっていった。

そこからはあっという間だ。沢田さんはほぼ一撃で不良達を倒していく。一方的な制圧。それが終わるのに数分もかからなかった。

「怪我はない?」

「うん。縛られただけだから大丈夫。」

そっかなら良かったと破顔する。学校で見たものと違う表情、それは僕が初めて見る沢田さんの本当の笑顔だった。

・ ・ ・

「......私、前から人に恨まれるようなことしててさ、と言っても人に迷惑かけるやつらにだけだからね?...まあ、なんだろ。その、それでたまーに呼び出されるの。」

地面に倒れる彼らを冷ややかな目で見つめながら、沢田さんはポツリポツリと話しはじめた。

「本当はこういうのやりたくないんだよね。人を殴るのって気持ち良いもんじゃないし、あんな学校でもさ、迷惑かけたくない...だから喧嘩売られても手出さないでいたんだ。今日のやつらはずっと無視されて我慢できなかったんだろうね。それでこの前私が潮田君と一緒にいるところを見て...潮田君を餌に私を呼び出した。」

淡々と話すその瞳は暗い闇を伴っていた。一寸先も見えないような真っ暗闇だ。その目にとてつもない不安に襲われる。まるで沢田さんがどこかに消えてしまうような漠然とした不安。
ごめんなさいと頭を下げて、それが上がるときにはその闇は鳴りを潜めていた。まるでそんなものなどなかったと言うように。けれど不安は消えなくて、何か話さなければと必死で言葉を探す。

「潮田君をこんなことに合わせてしまってごめんなさい。気をつけてはいたんだ。私と関わるとろくでもないことに巻き込まれるから...あの時、栞を落としたのがいけなかったね...自分の持ち物には気をつけないと...もし、もしね、私が何かを落としてそれを潮田君が拾っても私に届けなくていいよ。落としてしまうってことはそんなに大切な物じゃないってことだから...だから何か拾ってもすぐゴミ箱に捨ててね。もうこんなことに巻き込まれたくないでしょ?」

嘘だ。と言いそうになった。それを堪えて違う言葉を捻り出す。
あの時、栞を見た沢田さんはそんなまさかって顔をしていた。落とすなんてあり得ないってそんな顔だ。栞を受け取った時だって無くさなくて良かったってホッと安堵するものだった。そんな顔をさせる物が大切じゃないはずがないんだ。
それに、

「沢田さんのせいじゃないよ。最初に話しかけたのは僕で、悪いのはそれを利用した彼らだ。沢田さんが責任を感じる必要はないんだよ。それに目の前にいる人が何かを落としたら...僕以外の誰かもきっと同じことをするよ?それで今日みたいなことに巻き込まれたら...それはきっと運が悪かっただけなんだ。」

「ありがとう...潮田君って優しいんだね。」

ゆるりと力なく笑う彼女に無性に遣る瀬ない気持ちになって、気づいたら僕は、

「何か僕にできることないかな?僕が力になれるかはわからないけど僕で良かったら話してみてよ。」

と咄嗟に言っていた。
僕ができることなんて大したことはないだろう。こんなこと言っても沢田さんを困らせるだけなんじゃないか。
でも沢田さんを放っておけなくて、僕にできる何かで彼女に手を差しのべたいと思った。

沢田さんの顔は今にも泣き出しそうで、何か話そうと口を開こうとするけどそれをグッと喉の奥に押し込めているようだった。
誰かに話したい、体の奥に閉まった何かをぶちまけたい、でもそんなことを人に話せない。
胸元で手を握って苦しげに顔を歪めて...そうやってしばらく葛藤しているとだらんと手を下ろして僕を見た。

「そんなに大したことないんだよ。本当に、私より弟の方が大変なんだ。私よりもっと辛い思いをする。それをわかってて私はなんにもできないから...せめて私にできることをしたいって思ったんだ。」

弟がいたんだって見当違いなことを考えた。そんな僕に沢田さんは彼女の家のことを話してくれた。
お父さんがある会社の重役で弟がその会社の後継者であること。それが原因で弟は危険な目に合うこと。それは弟だけの話じゃなくて沢田さんやお母さんもいつ同じ目に合うのかわからないこと。

「実は私は、誰かに命を狙われているらしいんだ。」

明るい口調で冗談めかしい言葉を言う彼女は悪戯っ子のような笑みで笑っているつもりだろうか。眉は八の字を書いていて、細められて見えづらい瞳には寂しさを抱き込んでいた。

「だから強くありたいって思ったんだ。弟をお母さんを守れるように、けどそのせいで今日みたいなことが起こる。去年は私の友達が巻き込まれた。私が巻き込んだ。...助かったけどさ、あの時は本当に死んじゃうんじゃないかって怖かった。医者が言うには本当に危ないところまでいってたんだって、助かったのが奇跡だって。あいつの腕はその時の怪我で駄目になった...親の店を継ぐのが夢なのに、私がその夢を潰したんだ。」

どういう言葉をかければいいんだろう。全然大したことないんじゃない。沢田さんのせいじゃないよって言いたいのにそれだけじゃ足りないんだ。もっと別の、違う言葉をかけないと。

そうやって言葉を探している内に沢田さんはまた口を開いた。

「...私が椚ヶ丘に来たのはさ、そんな誰かを巻き込まないようになんだ。落ちこぼれのクラス三年E組。そんなシステムを作る理事長にそれを当然のように受け入れる生徒。そんな人達がいるってわかったから、誰とも関わらずにすむって思ったんだ。だっておかしいでしょ?間違ってるでしょ?なんで誰もそれを止めようとしないんだって...私にだって止められないけどさ。」

「沢田さんが学校での噂を気にしないのって、もしかして...」

誰とも関わらないためになんじゃないか。絶対そうだ。あの噂で沢田さんと関わろうとする人はいなくなった。今沢田さんが望んでいることが実際に起きている。
潮田君が考えた通りだと思うよと彼女は微笑んだ。

駅まで送るよと言って歩き出す彼女の背中は寂しそうだ。なんとかしたいって思ったのにその背中にかける気の利いた言葉なんて一言も出てこなくて、ただ黙って後を追うことしかできない。

◆  ◇  ◆

駅までの道すがら、沢田さんは親友について話してくれた。
友達と同じように危険な目に合わせてしまって、それから片親の出身国であるイタリアに引っ越してしまったそうだ。それから一度も会ったことはなく、中学を卒業したらイタリアの高校に通って会いに行くと。

「今日話したこと、誰にも言わないでほしい。全部秘密にしてくれないかな?」

別れ際の言葉に二つ返事で頷くと彼女はまた微笑む。バイバイと手を振る彼女にまた明日と返せばぽかんと口を開けて動かなくなった。

「また明日、か............うん、そうだね。潮田君また明日。」

花が綻ぶような、そんな笑顔を浮かべる沢田さんに見惚れていた。すると誰かに肩を叩かれて、振り向くとカルマ君がいた。沢田さんはいつの間にかいなくなっていてカルマ君はごめんねと悪びれた様子のない顔で言う。
今度何か奢ってもらうことで話は落ち着き、家に帰った僕は今までのことをもう一度思い返してみた。

知ってしまった彼女の秘密。だからあんな風に振る舞っていたのかと、そう思えば今までの彼女の行動に不思議なことなんてなかった。それでも何かが引っ掛かる。

ふと思い出したのは栞を渡した時の様子。僕を含めた周りを恐怖する顔。家の話を聞いた後だと警戒しているように取ることもできるけどあれは警戒じゃなくて恐れている顔だった。

あの時感じた疑問の答えはそれじゃない。じゃあなんであんな顔をしたんだろう。

次に思い出したのは沢田さんが堀田君を背負い投げしたあの時の表情。誰もが側に倒れた彼を見ていたけれど僕はその顔から目を離すことができなかった。
あの時の沢田さんは明らかに怯えていた。確かに怖いけど沢田さんみたいな人がそれくらいで動じるとは思えない。

心がモヤモヤする。その答えを探そうにも答えが出てくることはない。結局その答えを知ったのはもっとずっと先のことだった。