「そういうもんですかねえ」
電話を片手に口を開く私は、他から見れば不機嫌な顔をしながら朗らかな声を出すなんだかあべこべな人という印象を受ける事だろう。
スマートフォンのスピーカーからは延々と上司の声が流されており、それもとどまるところというものを知らないようだ。
話の筋が見えず、話題も行ったり来たりと忙しい。そうだ、元来彼は何かとちょこまか動く人だった。
げっそりした顔を隠す事も隠す相手も居ない街中。すみません、電車が来ましたのでこれで。と嘘八百をつらりと述べ、ベルを鳴らしながらドアノブを捻る。
木製の扉で、シックなイメージを受けるこのお店は、多分隠れた名店というものなのだろう。
間接照明に照らされた店内は落ち着いた雰囲気が漂う。
席に着いているヒューマーや異界人は皆一様に本やパソコン、携帯をぼんやりと眺めている。
少なくとも近くのジャンクフード店で見かけるような喧噪はココには無い。
「おじさん、エスプレッソお願いします。」
最早顔見知りと化したマスターに注文を一つすると、荷物を肩からするりと下ろしカウンターに座る。
隣に座る女のヒューマーは気取った様子でパソコンをカタカタと慣れた手つきで弾いてはため息を零している。
反対側に座る異界人は携帯に写る友人(だろうか?)の写真を眺めては少し笑って、それから慌てるようにして残り少ないコーヒーを啜っていた。
私はというと、ここでは静かに本を読もうといつも決めていた。
あの物語の続きはどうだったろうか。子供向けなのだろうが、異様に分厚く真っ赤な布貼りの表紙がなんとも目を引く小説を思い浮かべ鞄に手を伸ばす。
…。鞄の中で虚しくも空を掴む手はなんとも哀愁が漂っている。
そういえば今日の鞄はとても軽くて楽に思えたような気もする。
ベッドで小説を読んでいたら早くに寝付けたものだから、てっきりいつもより調子が良いからそう感じるだけだと思っていた。
きっと逆に私は疲れていたのだろう。判断能力が著しく低下していたようだ。
「おじさん、シフォンケーキってまだあります?追加でそれもお願いしたいのですが。」
タイミング良く私の前に置かれたエスプレッソに反射する私の顔はなんとも情けなかったが、こうなれば意地だと言うようにいつもは頼まないが遠目から見ていたケーキを奮発していただくことにする。
「ああ、ごめんよ名前さん。丁度今日の分は終わってしまったんだ。」
冷蔵庫を見せるように開くマスター。中には厳選されたコーヒー豆とこれまた厳選されたのであろう天然水が所狭しと並んでいる。
そこにはにつかわないぽっかりした空間は、いつもケーキが見え隠れしている場所だ。
そうですか。とあからさまに肩を落とすと、マスターは明日なら言ってくれればとっておくよ。と気を使ってくれる。
「じゃあ、それでお願いします。楽しみにしておきます。」
苦し紛れににやりと笑ってマスターにサムズアップすると、マスターもにやりと笑ってそれを返してくる。
静かなのに実はマスターはお調子者で、そういう所も私は気に入ってたりする。
とは言ってもこんなに静かな空間に水を差す訳にもいかず、マスターは引き続き仕事へ。私は空気に呑まれるように無言でコーヒーを胃におさめていた。
少しクセのある濃いめのコーヒーは、苦々しい記憶を全て飲み込むような気がしてすっきりと気分が良かった。
添えられたミルクも市販のものよりも少し濃い。私は半分飲んだところで、ミルクを贅沢に使うという事が大好きだった。
いつの間にか隣の女の人はお会計をしていて、反対側の人(半魚人、と言った方が正しいのかもしれない)は、静かに少し古めかしい本を水かきのついている指で器用にめくっていた。
姿勢正しく、真剣に読みふけっている様子の彼(彼女?)に少し興味が沸いて、本の中身を覗き見る。
本来そういう事をするのはマナー違反なのだろうが、異界人が読書をしているという風景が少し珍しいもののように思えたのだ。
実際のところ本を読んでいる異界人は多くいるのだろうが、私はあまり見かける事が無かった。
つらつらと字を追う。なんだか読んだ事のある分の運びだと気がつくのはそう遅くなかった。
ああ、しかしなんだったか。タイトルがてんで思い出せない。こんなにもやもやするのは久しい。
『「うん、それが、じつのところは」とサムが言った。「ここでもてなすことは、めったにないんだ。この家の本当の良さがわかるものは、あまり多くないんでね」』
読んだ事がある。しかし、その一文でさえなんだか新鮮に思える。そう言えばこの一文はなんだかこのカフェと似ているような気がした。
もてなすのは数回訪れた人間だけ。マスターと言葉を交わすことによってその良さをやっと知る事が出来るような気がする。マスターの話はそのお茶目な話し言葉に似合わずとても奥が深く、それこそ文学のようだった。
だからと言って皆が口々にマスターと話す事は無く、来る時に二、三言葉を交わすのみだ。
それでも、その二、三の言葉を重ねる事で、何か大切な物に気付かされる。
『「それじゃ、きみたちは、この家そのものが好きになったんだな」』
ああ、そうだ、きっとそう。
「ゲイルズバーグの春を愛す、ですよ」
無闇矢鱈に思考を混ぜこぜにしていた脳内に、水が跳ねるように言葉が沈み込む。
しかし何故その思考を読み取るようにタイトルを言ったのか。その言葉が、隣の彼から発せられたものだと気がつくのにほんの少し時間がかかったのは、それが原因だろう。
しかしすっきりと雲が晴れたかのような適切な答えに、私は一気に晴れやかな気持ちになったことは否定出来ない。
「ああ、そう、そうでした。なんだったかなってずっと思ってたんです。」
「口に出ていましたよ。」
だからだろうか、ほんの少し細められたように見える彼の瞳がとても素敵だと思ったのだ。
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文中引用『ゲイルズバーグの春を探す』-P88 より
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