彼女の指先からはうっすらと薬剤のにおいがした。
「もうそろそろ学校で勉強すると帰りは冷えてやだね」
名前の中指に出来たペンだこは今まで無かったもの。
それを覆い隠すように彼女は手を擦り合わせて白い息を吐く。
夜空に浮かぶ白い指と白い息のコントラストに目が眩みそうだった。
「ああ、そうだな。明日からどっちかの家でやるかあ」
「家でやると勉強出来なさそう」
「確かに」
俺たちは昔からの幼馴染で、家も近いし小中高と同じ学校だったせいもあり付き合いが長い。
どちらがどちらの部屋に居ようが自然な程なのだが、それはそれで悔しいと思うのが思春期男子の難しいところだった。
受験。それは逃れられない学生の宿命。
中学の終わりにもこうやって名前と必死になって勉強した事を覚えている。
二人とも志望校は一番近くしかもバレー部が名を挙げた事のある烏野で、偏差値的には何の問題にもならなかったのだが万が一が無いようにと頑張ったものだ。
「今私の部屋散らかってるんだよね。大地の部屋は?」
「んー……」
そういえばこの間スガがうちに来た時に置いていった漫画雑誌の表紙がグラビアだったから、それは隠しておこうかな、とか他愛も無い事が頭をよぎる。
かといって散らかっているわけでもない。本が数冊床に落ちていたがそれだけだ。
部活を引退した今、部屋を片付ける余裕も出来たのだ。出来るようになってしまった。
それは彼女も同じだろう。
「まあ、今日片付ければ別に」
「じゃあ明日は大地の部屋にしよ。それで次は私の部屋で、かわりばんこにしよっか」
当たり前のように男を部屋に招くのは止めたほうがいいぞと助言しかけた言葉を喉元で飲み込む。
それで俺が名前の部屋に上がれなくなるというのもそれはそれで複雑なのだ。
依然寒そうに手を擦り合わせている名前は無防備にも生足を短いスカートからのばしていて、手よりもそっちのほうが寒いんじゃないだろうかと考えてしまう。
「じゃあ、教科書持って帰らないとな」
ん、と伸ばした手を名前は一瞬不思議そうに眺めて俺の顔を見る。その後犬のように手をポンと乗せてからまた俺の顔を覗き込んだ。
触れた手は氷のように冷たくて、そういえば末端冷え性なのだと愚痴を零していたのを思い出した。
「そうだね」
乗せられた、俺よりもひとまわりもふたまわりも小さく思える手を握りこんで両手で擦り合わせてやると、段々と手に熱がこもる。
「ね、ねえ大地。あの…は、恥ずかしいんだけど……」
「は」
冷えて真っ赤になった手から視線を外して名前の瞳を覗き込むと切なそうに目を地面に落とし、耳までも真っ赤にしていた。
今までそんな顔をした名前を見た事がなくて、しかもとても色っぽく見えて喉の奥が鳴るのを感じた。なんだか獣にでもなったような気分がする。
握った手がずっと暖かいのは彼女がそれだけ照れているという事で。
「あ、うん、ごめん」
「あゃ、えっと……いいの、だから…」
しどろもどろになっている俺たちの周りに誰もいなくてよかったと心から思う。
もしスガや東峰が居たら冷やかされたりなんだりしていたことだろう。
いや、そもそもその二人が居たら名前も照れる事は無かったのかもしれないし、俺が手を握る事も無かったかもしれない。
離そうとして空いた手と手の隙間に吹く風はさっきよりも冷たく感じた。
…のだがいつの間にかその隙間は埋まっていて、またさっきの暖かさが戻ってくる。
「離さないで…いいから……」
「名前」
「な、なに」
絡んだ手の甲にキスをすると、彼女の指先からはほんのり薬剤のにおいがした。
その時初めて名前が半透明でナチュラルなピンクのマニキュアを塗っていると知って、ああ、こいつもちゃんと女なんだと知ったのだ。
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