あの夏の日はやけにじめじめしているように思えた。
「花火大会ですか?」
「ん、まあ」
いつものような表情でさらりと言ってのけたこの男、山下次郎。
昔は教師をしていて、私はその教え子だった。
教師と教え子、絶対に想いあってはいけないと思われていたその関係が崩壊する直前に想いのたけを吐き出したら、なんと「んじゃあ付き合ってみる?」と軽く返事をもらったのだ。
彼と付き合ってわかったことは、思った以上にお金に意地汚いところと、思った以上に付き合いが良いところ、思った以上に世話焼きなところ。
それから、思いの外達観しているところ。
時折彼が見せる遠くを見るような、慈しむような表情は私を不安にさせた。
「珍しいですね。山下先……次郎さんがそんなところに連れて行ってくれるなんて」
「ま、たまにはね」
ほら、またその表情。
何を考えているの?私のこと?お金のこと?この短い夏休みが終わった後、アイドルとしてデビューするらしいし、そのことかな。
ちょっとは私に吐露してくれたっていいのに。
「花火って、なんであんなに色とりどりなんですか?」
「あれは炎色反応つって、銅を燃やせば緑の火が……」
得意げに話す次郎さんが一番安心できる。自分の得意な分野の話をするのはやっぱり楽しいのだろうか。
ずっと、そうやって私の隣で笑ってくれるのだろうか。いや、多分、きっと
「似合いますか?浴衣」
「気合入ってんねー、うん、かわいーよ。隣に並ぶのがおじさんってのが見栄えしないかもしれないけど」
「やだな、私は先生の隣が良いんですよ」
「そ?」
いつもよりかなり人の多い、きらびやかな河川敷はとても賑わっている。
さらさらと流れる川も、幾分かいつもより輝いている。
「花火、何時からです?」
「そろそろよー」
その声を号令にしたかのように打ち上がる花火。
ぼんやり見上げる私たちの瞳も色とりどりになっていたことだろう。
私たちは本当の意味で結ばれることは無い。わかっていたことだ。
彼はもうほんの少ししたら手の届かない存在になってしまうことだろう。
それに、私だってずっと先生にくっついてはいられない。
わかっているのだ。
その事実から目をそらし続けてはいけない。わかっていたことだ。
河原だけあって風がごおごおと吹き付ける。
時折止むことはあるのだが、それもつかの間ですぐにまた風が吹く。
その隙間を狙って、かき消されないように。
ああ、きっと今日は、この時間は終わるのだろう。
察していた。分かっていた。私は子供ではいられなかったし、次郎さんは先生ではいられなかった。
一筋流れた涙は悲しさから来るものだったのか、諦めから来るものだったか、そうじゃなければ
自然に、先生から口づけをされる。ほんの一瞬触れるだけの可愛いキス。
別れを告げるような、そんな…
「別れようか」
何か踏ん切りをつけるような、複雑な表情。
そんな顔をする先生を私は初めて見たんだと思う。
彼なりの葛藤や心境の変化があったことは容易に見て取れた。
その言葉からどれだけ時間がたったのか、私はいつの間にか河川敷を離れた住宅街の道のど真ん中に立っていた。
先生にはなんと言っただろうか。離れていく手のぬくもりだけを覚えている。
ちゃんと、先生に今日までありがとうと言えることは出来ていただろうか。
きっとこれから先、先生と一緒になることは無いのだろう。どれだけ先になろうとも。
見上げた夜空に花火の面影もなく、ただただ暗く、私を見下ろしていた。
首筋に感じる冷えた空気に、夏の終わりを感じた。
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