あの時の潮風だけが記憶にしっかりと焼きついている。
あの時の彼女の表情は、感情に焼き付いて離れない。
じわじわと焼き付ける日差しはコンクリートを反射して地獄の様相を見せている。
今年もどこかの地域では常識はずれの気温が叩き出される事だろう。
隣に立つ彼女も、帽子で顔に落ちた影の奥でじっとりと汗を流しているようで、前髪が何本かが額にへばりついていた。
「どこか喫茶店にでも入ろう」
「へぁ、…あ、はいそうですね。そうしましょう。」
意識さえ朦朧としているのか、ぼんやりと返される返答に内心ため息をつく。
彼女にではなく、それだけ彼女が消耗していたのだと気が付かなかった自分にだ。
影を作るように彼女のそばに立っていたのだが、それだけの配慮では不足だった。自らの計算不足を恥じるばかりだ。
あの日、気がついた。
彼女にはもっと輝かしい未来があるのではないかと。
久しぶりの土砂降りに呆然とするしかなかった。
ガラスを撫でる水滴は、最早水滴とは呼べない量と勢いになっている。
偶然私たちが家に居たからよかったものの、これが屋外だったら大惨事になっていた所だろう。
曇った空を何の気無しに眺めている名前は、彼女専用に買ったクッションを抱えて顎ののせ、ソファに横になっている。
先ほどまでの熱を冷ましているつもりなのか、扇風機に直接当たっていた。
「腹を冷やすぞ」
「うんんー。…ねえ、硲センセはさ、雨好きですか?」
「そうだな、嫌いではない。雨がないと食物は育たないからな」
「そういうことかよお」
「不満か?」
「不満っていうか、うん、やっぱいーや。いいです」
「なんだそれは……」
ふふ、と笑った名前は眠たそうだったので追求はしないでおく。
きっと寝るまでの暇つぶしだったのだろう。
名前は雨が好きなのだろうか。
あの日、彼女の首筋を撫でた汗は。
風が涼しくなってきた。そう感じるのは今が夕暮れ時だからだろうか。
それとも夏の終わりが近づいているのか。気象予報士でもない私には伺い知れない所だ。
夏の初めに暑いからと切っていた彼女の髪は今ではひとつにまとめられる程度には伸びていたらしい。
キャップの隙間からぴょこりと出たしっぽのようなそれが歩くたびに揺れ動いていた。
彼女は今楽しんでいるだろうか。鍔に隠れた顔には濃い影がかかっていた。
そして決意したのだ。
「海を見に行かないか」
「海ですか?どうしてまた。もうお盆も過ぎましたよ?」
「もう『夏休み』も最後だからな」
「え?ああ、もう八月も末か。うん、いいですよ、行きましょうか」
足を取られそうなくらいきめの細かい砂浜に足を鎮める。
とても綺麗に保たれた砂浜は鳴き砂と言って、摩擦によって音を鳴らすらしいが、この砂浜はそこまれ綺麗にされている様子は無い。
そこらじゅうに打ち上げられたクラゲは一見ビニール袋のようにさえ見える。
手頃な棒を手にそれらをつついたり、ひっくり返したりしている名前は夕日に照らされ、行動さえ無視すれば一種の絵画のようにさえ思えた。
海水に足首まで浸らせて、流石に夕方になると冷えますねと苦笑する名前に私も薄く笑う。
うまく笑えたかどうかはわからないが。
押しては引く海水を見ていた名前が不意に顔を上げてこちらを見る。
「そういえば硲さん、今日は全然喋りませんね。」
普段からそんなに喋る方ではないですけど、と付け加えて怪訝そうにこちらを覗き込む。
足が砂まみれになるのを構わず海から出てこちらに駆ける。
「足を洗って、ちゃんとサンダルを履きなさい」
「どえ!?今そんなところ気にするんですか?」
風が強く吹いている。
名前を足が浮く程度に抱いて、すぐそばの防波堤へ腰掛けさせる。
そして名前がなぜか持ってきたがったバケツに海水を汲んで足を綺麗に洗ってやる。
きっと潮干狩りをしたくて持ってきたのだろうが、あいにくこの時間、この時期に潮干狩りは無理だと言ってやれなかった。
「ほら」
「ええ…ありがとうございます…?」
不思議そうにお礼を言う名前の隣に腰掛けて、海越しの夕焼けを見る。
真っ赤に燃え上がったような夕焼けは私たちの顔を照らして、長い影を落とさせる。
強く吹く風も絶え絶えとなり、しかし時折吹く風は先ほどよりも強いものになった。
それは至近距離にいる私たちの会話さえも時折断ち切るほどの。
先ほどまで洗った海水に濡れて居た名前の足はいつの間にかしっかりと乾いている。
「名前」
「はい?」
言うか言うまいか、悩むものではないのだろうがどうしてもその一言が咄嗟に出て来ずにお互いの顔を見合う形になって一瞬。
口を開こうとした途端に強く風が吹いた。
「すみません、なんですか?」
「いや、まだ何も言っていない」
「あれ、そうですか」
「よく聞いてくれ。風に流れる前に。」
「はえ、はい…?」
惚けた顔の名前にこちらの力も抜ける。
だからこそしっかりと言える。
「別れようか」
この選択に後悔は無い。
ただ、頬を撫ぜる潮風と、彼女の表情だけは絶対に忘れる事はないのだろうと強く思った。
back /
top