柏木翼
今や涼しくなりつつある秋じみた空を見上げてため息をつく。
別に何があったというわけでもないのだが、秋というのはどうも気候の変化に体がついていかないのか気だるさが体を支配し、そしてなんとなく憂鬱な気分にさせるのだ。
巷では低気圧がどうのやら、気温の変化がどうのやらと騒がれているのだが、結局体がだるく憂鬱になるという観点では変わりようが無いので特に気にすることも無い。
頬を撫でる風は少し前まで感じていたねっとりとした雰囲気は欠片も無く、今にも顔を切りつけそうな冷えたものに変わっていた。
「…………」
街ゆく人もいつのかにか晒していた腕や足を仕舞い、綺麗に巻いた髪をたなびかせていた。
その綺麗な女の子の隣には当たり前のように背の高いすらっとした男の子が並んでおり、それを私は妬ましく眺めるしかなかった。
冒頭でなんだかんだ言ったものの、一番切迫しているのはつまりこの人肌の恋しさだった。
もう少ししたらマフラーだの、スヌードだのを首に巻いて顔を相対的に小さく見せた女の子たちはキンキンに冷えた指先を恋人に包んでもらうのだろう。
実際そういう場面は、特にクリスマスの駅前なんかで散見されたし、ドラマや漫画などでも使い古されたシチュエーションではあるのだが、それだけ王道になるということはつまり人と人とのちょっとした触れ合いに心をときめかせる男女が多いという事に他ならない。
実際、夏の真っ盛りの中事務所に届いたドラマ原稿の草稿にもそのような場面があった。
暑さに辟易していた私は勘弁してくれよと思いながらそれに目を通していたのだった。
そういえばあのドラマの一話オンエアもそろそろだったろうか。
初めて俳優として主演を任された彼は、それはもう見てられないくらい緊張していたのをよく覚えている。
撮影も後半となった今では堂々と演技をしている。クランクアップの頃には彼も一つステップアップをしていることだろう。
ヒロイン役の女優はかなりの売れっ子だったのもあって、彼も沢山技術を吸収しようと意気込んでいた。
「…………」
今日は長丁場になりそうだ。
サブの新人俳優がリテイクを出すのに加えて、彼……柏木翼も何度かリテイクを出していた。
慣れてきたとはいえ彼の本業はアイドルなのだから、俳優に比べて演技の幅が狭いのは言わずもがななのではあるが、それ以上にただ坂を下るシーンでも足をもつれさせる。
現場に入る直前に実は体調が良く無いと漏らしていた。
しかしこれは仕事なのだから、ここまで来ると自らの体調管理を怠った事を悔いる事しか許されない。
シャンとしなさいという言葉は今の彼には厳しい言葉なのだろう。
「はいカット!今日はこれで終わりです、お疲れ様でした!」
監督の声が現場に響く。
翼は周りの人やスタッフに頭を下げ感謝を述べながら小走りでこちらへ来て、苦く笑った。
「プロデューサーもお疲れ様でした。すみません俺、結構リテイク出しちゃって」
「うん、全部見てたよ」
たはー、ですよね。と笑う翼の額には汗が滲んでいる。
先ほどの撮影では必死に堪えてたのだろうか。しかし現場を出るまでがアイドル柏木翼だと言わんばかりに今も瀬戸際で弱音を堪えているのだろう。
「すみません、柏木はこれから別の仕事があるので早々ですが失礼します。本日はお世話になりました」
「あ、お、お世話になりましたっ!」
私の後に続いて体を折った翼は、そのままの体勢で私の様子を伺っている。
現場はすでにバラされてはいたのだが、まだ少し営業とだべりとが混じった雰囲気に包まれていた。
行くよ、と翼に小さく声を掛けて歩くと、後ろを翼がついて来る。
お疲れ様、次の仕事も頑張ってねと口々に共演者が声をかけてくれるたびに、はい、こちらこそ、と挨拶をしながらついて来る翼は本当に根っからのお人好しなのだと分かる。
それを分かっているからこそ恨み言一つなく、みんなが翼を送り出してくれるのだろう。
「大丈夫?」
「あんまり……」
実のところ、翼の次の仕事は明日の雑誌撮影だった。
つまり、今日はまだ次に仕事があるからという嘘八百を並べて翼を現場から連れ出したのだ。
私が運転する車で、翼は助手席のリクライニングを少し倒してぐったりとしていた。
「もしかして吐きそう?」
「……」
翼は私が嘔吐恐怖症だと知っている数少ない人間だ。
というか、ドラスタの三人くらいにしかこの話をしていない。
というのも、人に私は人の嘔吐がとても怖いんだと話すとそんなの誰でもそうだよと返されてしまうので、それ以降人に言うのを辞めたのだ。
共感してくれという強要をするつもりがないが、理解さえもしてもらえない事をわざわざ人に話す必要は無いだろう。少なくとも私はそう思う。
ドラスタには桜庭さんという元医者の、少しでも知識があるだろう人間がいたので飲み会で打ち明けた。
ちなみにそのきっかけは天道くんが飲みすぎてぐったりしていたのを見た私が顔を真っ青にしていたからだ。はじめにそれに気がついた桜庭さんのかけてくれた言葉がきっかけで私はぽつぽつと打ち明けた。
私の話を聞いた桜庭さんが、恐怖症というものの解説を他の二人にもしてくれたのもあって、彼ら三人はその話をちゃんと聞いてくれたのだった。
「吐きそうなら、近くのお店とか公園とかに車停めるから。私は付き添えないけど……」
「いや、大丈夫です。そんな、吐くなんてほどでは無いですよ」
車を止めないのであれば、早く彼を家に送り届けなければ。
いや、その前に医者だろうか?
言葉の端々にあるブレスは浅く、直ぐにでも横になる必要がある事をひしひしと感じさせる。
「嘘をついています」
「嘘じゃないですよ。名前さんにそんな嘘吐いたら、多分俺もうあなたと仕事も出来ない」
「……ごめんなさい」
「謝られるような事じゃ無いです」
「ええ、ありがとう……」
本当ならここですぐに車を止めてコンビニで薬を買ったり、どこかで休ませるのが人道というものなのだろうが、私の頭は翼をどこかに送り届けることしか考えられなかった。
私は彼の病状が悪化してもきっと面倒を見ることが出来ない。既にハンドルを握る手は小刻みに震えているのだから。
「病院か翼の家、どっちに送ればいい?」
多分翼は私の手が震えてることをわかっている。
わかった上で、私に負担をかけないのはどちらか考えているに違いない。
彼の息遣いが、私に悟られないようにひそめられていることを気がつかないふりをする。浅い息遣いが私をパニックに陥らせるのではと翼は考えているのだろうから。
「家がいいです。多分……薬の買い置きがあったはずなので」
「うん、わかった」
彼の家はひっそりとしたアパートだ。2LDKで内装はしっかりとしているのだが、なにぶん立地が若干悪い。
西日が強く差し込む室内は生活感丸出しで、なんだか私が見てはいけないものを見ているような気がしてくる。
秋風が窓を揺らし、ベランダに落ちた木の葉が落ちる。
翼を寝かせてすぐにコンビニに走って色々買い込んだのはいいが、戻ってきたら翼は若干寝苦しそうに寝息を立てていた。
放り出された手を握るといつもより熱く感じたし、翼が咳き込む度にこの場から逃げたくなる自分を責めた。
加湿器しか稼働していない室内は少し肌寒くて、つないだ手を強く握りしめた。
私がここで翼にキスしたら、風邪は私に感染るだろうか。
明日の雑誌の撮影はキャンセルした方がいいのだろうか。
乾いた唇に軽く指を触れると、翼は唸って口をもごもごさせたけどそれもちょっと可愛い。
自らの浅ましさを感じつつ部屋を後にする事に決めた。
明日の仕事はキャンセルだ。彼のことを考えるのならば。
彼のことを考えるのならば、私もこの部屋から去るべきだった。
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