深く落ちた瞼をまるで糸で引かれたように急に持ち上げる。
目の前の景色はえらく明度が低く、彩度がすこぶる高かった。
例えるならばそう、まるで海底の青のような。
すう、と鼻から息を吸う。すると、今まで自分の顔を覆っていたガラスのようなものが急激に縮み始めた。
「っ!?」
え、と声を上げる暇もなく、名前の目の前はぼやけていく。
大きく開かれた口からは残り少なくなった二酸化炭素が漏れる。
二酸化炭素と引き換えに流れ込んで来たものが舌に触れる。とても塩辛く、飲むに飲めたものではない。
(やだ、息が…)
パニックで急激に酸素を欲する肺が恨めしい。最後のあがきの如く漏れた二酸化炭素を睨みつけてあたりを見回す。
といっても、ぼやけた視界で物が見えるのかと聞かれれば答えは微妙である。
ピントがあっていないカメラのような視界では物は大まかにしか把握出来ない。
しかし彼女にはそれで良かったようだ。彼女の下から、まるで先ほど聞いた自分の口から二酸化炭素が吐き出されるような音が聞こえた。
その音を聞いた途端、目が覚めた時のように顔が透明な膜に覆われ、息が少しだけ出来るようになる。
「っはー…はあ…」
しかしその膜も、ほんの少しの息でその大きさを縮めていく。
だが彼女も少しは学習をする。肺に溜め込んだ息を極力出さないようにし、次の膜を待つ。
膜と共に海の上へと行ってしまおう、そう思った。
(きた!)
地面から吐き出される膜をちらりと見やり、肺の中の空気を適度に放出する。

だがその努力虚しく、海上へ上がる事は叶わなかった。
水圧の事もあるが、何しろ呼吸が持たないのだ。海面が見える前に膜の中の空気を全て取り込んでしまう。
多少、ここに順応しなければ。彼女は少しだけ自分の目から出た水で海水を満たした。



ついに彼女は日の光を見た。ここまでかなりの試練があった。
水圧に耐えるには、慣れるためにゆっくりと浮上する必要があった。
彼女は段々と上へ上がる術を見いだしていった。それが本能だったのか、それとも他の何かなのかは今となっては分からない。
指の間の皮膚が少しだけ発達もしたし、ふやける事も無くなったように思う。
食べられる物も学んだし、呼吸も上手く出来るようになってきた。しかし、意識が朦朧としているために何がどうあって呼吸が上手くなっているのか。その過程を知る由も無い。
水をまき散らして、数ヶ月振りであろう海上へと顔を出す。
しかしどこを見ても海面で、このまま海上に顔を出してどこかのニュースに取り上げられるのはとても気が引ける。
しかし海面を見つけたのだ。少しだけもぐって、海面と平行して泳げばいつかは陸につくだろう。


真珠のようなしぶきを上げてもう一度顔を出した。
陸が段々上がって来ていて、このままいけばきっと陸に着く。
名前の心は弾んでいる。
ふと横を見ると大きな岩が孤独に生えていた。
なんでこんな所に、と思ったがこれ幸いと疲れた足を休める事にした。

数ヶ月使わなかった喉はとても劣化していた。
母国語である日本語さえも口に出来ないのは涙が出そうなくらい悲しかった。
自分がここに現れる前聞いていた歌を口ずさむ。
お世辞にも上手いとは言えない歌だが、段々と喉も使えるようになってきた事が嬉しくて少し大きな声で歌ってしまった。
そこを彼に聞かれたのだ。

「な……」
蚊の鳴くような声だった。
天敵が来る事を聞くために増した聴力が無ければきっと聞き逃していただろう。
「っ誰…」
振り向くとそこには日本の所謂学ランを身にまとった青年だった。
星や月が輝いているとはいえ周りは暗い。目をこらさないと見えなくなってしまいそうだった。
「日本語…?人魚は日本語を話すのか。しかもセーラー服だ。」
彼はおもむろにどこからかメモ帳を取り出してしきりにメモを始める。
「にっ」
人魚ですって!?私が人間に見えないとでも!?
名前は沸き上がる怒りに最近自分の足なんて視野に入れる事も無かったな、と思いながら自分の足を見る。
彼女の足には、今まで見た事も無かった青く大きな鱗がはりついている。
それも一枚や二枚ではない。足全体を覆うように、規則正しくはりついていた。つま先にはご丁寧にヒレまでもある。
「なっ!なに、これ…ッ」
名前が混乱と恐怖に打ち震えているというのに、彼はメモを続けている。
「今日は用事がある。また明日話をしよう。俺はお前に興味がある。」
めまいがした。
面識もない人間に興味があると言われ、自分の身には知らない何かがある。
海の中で目覚めた時と同じような感覚だ。
「俺は空条承太郎。お前は。」
今にも倒れてしまいそうな時にそんな事を聞くなんて、なんて図太い…いや、自分の興味のあるものに一筋な人なんだろうか。
「名前です!空条承太郎サン!!」
名前は未だにイライラする気持ちをそのままに、叩き付けるように言い捨てて海にもぐる。
フルネームを言わなかったのはせめてもの抵抗だ。
すいすいと少し泳いで気付く。この鱗やヒレがあると格段に泳ぐのが楽になっている。呼吸も出来る。もしかしたらどこか呼吸をする鰓があるのかもしれない。
きっと深く考えるものではないのだろう、この数ヶ月でえらく楽観的になった名前は考えるのを一時停止した。
もしかしたら彼が、空条承太郎が何か知っているかもしれない。そんな淡い期待を持って。

   
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