倒れ落ちて奴の腹に顔を埋めると、微かに心臓の動く音と共に、内臓がきゅうきゅうと鳴っていた。
奴の部屋に初めからいたであろう存在のことを考えてやれるほどの余裕は、残念ながら持ち合わせていない。ほぼ強制的に退室させたことを詫びる気持ちはあっても、悪いとは思わなかった。
「三郎」
奴の声で呼ばれた名前に、びくりと反応してしまう。息をするたびに上下する肺の動きが、なんともいえない生臭さを感じさせた。
「俺、友達と本読んでたんやけど?」
「………」
「あいつのことやから空気読んで帰ってくれたやん。しかも貸し一つやって。でかいわぁ」
「………」
「何返そ?なぁ、何がええと思う?」
「………」
「三郎、ええ加減にしぃや。返事くらいせえ」
「………、怒ったか?」
「はぁ?…、怒ったっちゅーか、呆れてんねん」
「………」
「それともなんや?三郎は俺に怒られたいんか?」
「違う」
ぺらり、と本を読む音が聞こえる。私が此処にいるのに、まだ本を手放さないなんて、こういうところが嫌いだ。
私がなんで此処にいるのか、私が何をしてほしいのか、私が何を言ってほしいのか、全部知っているくせに知らない振りをしやがる。
「嫌いだ」
「ん?」
「嫌いだ嫌いだ嫌いだ」
「………」
「お前なんか嫌いだ」
嫌悪を丸出しにして奴の様子を探るも、いつもと何一つ変わらない。それが悔しい。それが憎い。それが気に食わない。だからお前は嫌いなんだ。
「ふーん、そーけ。三郎は俺が嫌いかぁ。奇遇やな。俺も三郎のこと嫌いやでぇ」
「っ!」
「今みたいな、素直じゃない三郎は特に嫌いや」
「………」
「折角あいつを帰らせて二人になったっちゅーのに、まだ意地張るんか?頑固なやっちゃなぁ」
「…なら、お前も素直になればいいだろう」
「俺はお前よりずっとずっと素直やで?」
「御託はいい。早くその面を取れって言ってるんだ」
「ん?それはお前もやで、三郎」
「………」
「三郎」
名を呼ばれただけなのに、その声には威圧が込められていて。抵抗も反抗もできなくなるそれを、私は知らない。昔は、こんなんじゃなかったんだ。あの頃は、こんな奴じゃなかったんだ。
諦めともとれる溜め息を吐き、ゆっくりと顔をあげる。ようやく視線を交らせて、私は小さく舌打ちをした。
「おい、まだそいつの面なのか」
「そんなん三郎もやん」
「…お前まで面を被る必要ないだろ」
「えー?素顔晒してもええん?困るんは三郎ちゃうん?」
「別に私は困りはしない。お前と私の間柄が表にされていないのだからな」
「あかんなぁ、そんな軽率な考えじゃあかんで三郎。念には念を、や。味方をも欺くつもりやないと」
「此処ではその必要はない」
「甘いで三郎。そない簡単に他人を信じたらあかんよ。素顔も、晒したらあかん。気付かれたらあかん。間柄も、何重にも蓋をせなあかん。自分から暴く真似は死んでもするな。父の言葉を忘れたとは言わさないよ。私たちは闇に生きる影、此処での気の抜けた生活がこの先ずっと続くわけがないこと、賢いお前ならわかっているだろう?」
「っ…!」
「頼むから、間違いだけは起こさないでくれよ?私はまだ、自分の手をお前の血で染めたくはないのだから」
いつものふざけた口調ではなく、本来のものへと戻っていく奴の傾向として一つ。あきらかに奴は怒っている。
躊躇いなく私を殺したくはないと言い放った奴の真意はわかっている。その気になれば、いつでも私を殺せるんだと、隠れた言葉が顔を出す。
ニコリと笑った顔は、先程の級友の面ではなく。あの頃の面影を少しだけ残した、私の顔がそこにはあって。綺麗な弧を描く口元や、細められた目、艶のある長い黒髪。そのすべてが、私たちを形作る本来の"姿"だった。
「(あぁ…どうしてこうも、恋しく感じるんだろうか)」
不破雷蔵としての鉢屋三郎の私ではなく、本当の、何者にも化けていない鉢屋三郎が目の前に鎮座していて。言い表せないほどの何かが、私の背筋を一目散に走り抜けた。
す、と伸びてきた手は私の顔をゆっくりと撫で、そのまま上にいき頭も撫でる。か弱いものを扱うかのように、優しく、丁寧に、慎重に。
「なんやかんや言うても、俺はまだお前のことが必要やし、お前がどんだけ俺を嫌いや言うても俺は好きや」
「私は…」
「この話はもう終いや。はよ俺の見慣れた三郎に戻ってんか」
「(勝手に終わらせてんじゃねぇよ)…わかったよ」
「俺かて三郎がいっつも不破の面つけてんのおもろないんやから」
「うるせぇ」
同じ顔が二つ。一人は腹の内を探るようにその顔を見つめ、もう一人はその顔を見て心底嬉しそうに笑う。
どちらともなく両手を伸ばし、お互いの存在を確かめるように抱き締め合う。心臓の音が二つ、重なって動き始めた。
「出来ることなら一生、私と繋ぎ留めておきたいものだよ」
「(また口調が戻った…)ふん、そう易々とお前から離れられるわけないだろう。わかってるくせに口に出すのは卑怯だぞ」
「知らないのかい?三郎。家族の縁というのは鉄の鎖のように頑丈そうに見えるけれど、絶対でも不変でも永遠でもない。時が経つにつれて錆びて脆くなり、切ろうと思えばそれはそれは簡単に切れてしまうものなんだ」
「………」
「錆びきった鎖を切ろうが切らまいが、全ては三郎、お前次第だよ」
私と同じ素顔を持ちながらも、私と同じ考えを持たない目の前の奴は、私と同じ血を分け合うものであり、私の本当の意味での分身である。
「お前と言う弟を持って私は本当に恐ろしいぞ。名前」
「いややわぁ兄さん、今んなってやっと名前呼んでくれたん?ほんまに素直になるまで時間かかる人なんやからぁ。あーめんどくさ」
「おい、その口調やめないか。違和感ありありだ」
「いらん。俺これ気に入ってんねんもーん」
「…私の顔でもんとか使うな気色悪い」
「俺の顔でそんな不細工な顔しやんとってくれる?」
これが、私の双子の弟にして同級生である、屋本金(やとがね)名前の真の姿だ。この学園の誰一人として、その事実を知る者はいないけれど。
双子
紛うこと無き真実の秘話
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