ここ数日、学園で奇妙な出来事が多発していた。
任務や実習で学園にいないはずの人間が、あたかも初めから学園にいたかのように振舞って日常を過ごす。違和感に気付いたときにはもういない。それの繰り返しだった。そんないるはずのない人間が目撃される、という不可解な事件は、瞬く間に学園中に広がりその話題で持ち切りとなった。
いつもなら仲のいい奴らと集まってその話題にあれやこれやと言い合うことができていたというのに、俺たち五年生の内輪に流れる微妙な空気がそうさせなかった。
その元凶が目の前にいる彼だということは、俺もなんとなくわかっていた。もくもくと本を読み続ける姿に、暇を持て余した俺が絡まないはずもなく。
「なぁ名前〜最近学園で流行ってる噂ってさ〜なんだろうな〜?」
「………」
「なぁ〜名前〜!」
「んー…」
「名前ってば!聞いてる!?」
「んー…」
「それなんの本?面白い?」
「普通」
「聞こえてんじゃん!」
「ちょっとうるさい。俺が本読んでるのが見えないの?」
「見えてるけど俺が暇なんだもん」
三郎は学園長のお使いでいないし、雷蔵と兵助は委員会だし、八は木下先生と出かけちゃうし。今現在、俺の暇に付き合ってくれるのが彼しか残されていないわけで。
構ってはくれないけれど、こうして近くにいてくれてるだけでも感謝しないとなんだけど、なんか、いつもと雰囲気が違うっていうか。八が言っていたように、唐突に境界線が引かれたような、物寂しい気持ちを覚えた。
「名前さ、なんかあった?」
「………」
「三郎も雷蔵も兵助も八も、みんな変だよ。もちろん、名前も変。なんで?」
「逆に聞くけど、なんで自分だけは変じゃないって言いきれるんだよ」
「え?俺も変?どこらへんが?」
「てか変ってなに?いつもと変わらないじゃん。下手に勘ぐったりするからそう思うだけでしょ」
「なにそれ。だって変じゃん!勘ぐらなくても、それくらいわかる!伊達に忍者してないし!」
「………」
「なぁ、黙んのやめようよ。何考えてるかわかんなくなるから嫌なんだけど」
「それこそ読み取れよ。忍者だろ?」
「…なんか、名前冷たい…」
どうしていつものように楽しく話すことができないんだろう。どうしていつものように冗談を言い合えないんだろう。どうしていつものように笑いあうことができないんだろう。
こんな時間を一緒に過ごしたいわけじゃない。実のない話で笑いあって、たまに喧嘩をしても明日には元通りになって、昼ごはんの内容にわくわくしたり、座学の授業で居眠りして怒られたり、委員会での面白い話を教え合ったり。
普段何気なくしていたことが急にできなくなった。それは彼の態度が変わったからだ。先に変になったのは彼なのに、いつもと変わらないって嘘をつくその口が嫌いだ。
こんなの、どこがいつもと変わらないんだよ。こんなのおかしい。全然いつも通りじゃない。
睨むように彼を見つめる視線が少しだけ俺と重なったと思えば、すぐに逸らされた。
球蹴りをしていて彼に渡したボールが、受け止められることなく転がっていくような。それを振り返りもせず、追うこともせず、ましてや渡し返してくれることもしてくれない今の彼を、どうして変じゃないって言いきれる?
「いつも通りって…なんだろな…」
「え?」
「いつも通りしてるつもりなんだ。でもそれができてない。そう思うんだろう?」
「…うん」
「それっていつもの俺じゃないから?」
「うん」
「じゃあ、いつもの"俺"ってなに?」
「え?」
「お前らが見て認識してる"俺"って、どういう"俺"?」
本へと伏せられていた目が、だんだん俺の目と合わさって視線が一直線に交わった瞬間、気持ち悪いほどの鳥肌がたった。彼の言っている意味がなんとなく理解できる頭と、それ以上理解したくないという感情がぐるぐるぐるぐる混ざり合って、今にも吐きそうだ。
何か次の言葉を一つでもいいから声に出さなと、と必死に考えていたら、彼の両手が目の前でパン!と大きな音を鳴らした。咄嗟のことに驚いてぎゅっと目を閉じた俺は、慌てて閉じた目を開けて一瞬息が止まった。
「………っ、えっ!?名前…、なのか…?」
ついさっきまで彼がいたであろう場所に、全然知らない顔をした五年生がいた。学園で生活をしていて、何度も合同練習をしたりして、同学年で知らない顔はなかった。
話したことすらなかったとしても、見たことない顔なんてありえなかった。俺の記憶にある五年生の誰にも当てはまらない顔をした彼が、そこで場にそぐわないほどの柔らかな笑みを携えていた。
「そうだよ」
それは肯定の台詞だった。俺がした質問に対しての、確かな返事だった。
「…はは…なにその冗談。難易度高すぎ…」
「?、どうして冗談だと思うんだ?」
「だって、そんなの…」
「自分が知ってる顔と違うから?でもそれっておかしくないか?」
「は」
「お前、三郎の素顔知ってるか?知らないだろ?もちろん俺も知らないし、誰が知ってるのかすらも知らない。でも三郎が普段雷蔵の顔を借りていて、突然誰も知らない顔になってこれが素顔だって言ったら信じるだろ?それは何故か、三郎が雷蔵の顔で通っていて誰も素顔を知らないからだ」
「…名前、何言ってんの?」
「素顔を隠して生きてるのはなにも三郎だけじゃない。このご時世だ。そんな奴腐るほどいて当たり前だろう?」
「で、でも…」
「それに、認識してる顔が違うからって全否定はよくない。さっきまで確かにお前が認識していた俺がここにいて、顔が変わったら別人っておかしいだろ。単に顔が違うだけで、中身は名字名前に変わりないじゃん。俺、今までそういう考え方ってできてなかったんだ。だから不破雷蔵を見ても鉢屋三郎の名前は出てこなかった。でもようやく、お前たちの言いたいことがわかったんだ」
「ちょ、ちょっと待って名前!」
「なに?」
「もう、やめよう…」
「なにを?」
「頭がおかしくなりそうだ。もうこの会話やめよう」
「………」
視線を逸らした俺を、彼はじっと見続けていた。微かに震えて彼の目を見ないようにしていた俺の姿は酷く滑稽に映っていたと思う。どう思われたっていい。この会話がこれ以上続かないようにするためには、どんな終わり方だっていいと思えた。
彼は一つだけ深いため息を吐いた。そうして今まで見せていた誰かもわからない顔をやめて、いつもの彼の顔へと戻していたのが視界の端でわかった。
その手際の良さに、変装の技術のうまさがあることを知った。そこでようやく気付く。学園の奇妙な噂の正体が、もしかしたら彼なんじゃないかって。けれどそれに気付いたところで何故そんなことをする必要があるのか、その理由が到底思いつかないようじゃ質問を投げかけることもできない。
「勘ちゃん、この顔が俺の本当の素顔だと本気で思ってる?」
「え…?」
「俺に素顔を隠して生きる理由なんてない。これが本当の自分だって思ってる。けどさ、ここにいるとさ、疑うことを覚えていくじゃん?俺、何が正しくて何が間違ってるのか全然わかんなくて、雷蔵と三郎の見わけもつかなくて、でもそれでいいと思ってた。そう思ってた自分が間違ってた。忍術学園に入ってもう五年も経つんだぜ?今更さぁ、そんなこと言うなよ…」
「………っ、名前…」
「なぁ、勘ちゃん…そんなこと言わないでよ…」
彼が流した涙が、音もなく俺の制服の上に落ちて小さなシミを作った。それはすぐに乾いて消えたけれど、また別の場所に落ちては乾いて、そのまた別の場所に落ちては乾いてを繰り返し、結局のところずっとあり続けた。
何も言わずに俺を置いて部屋を去った彼を、引き止める言葉も浮かばず、繋ぎ止める腕も動かず、俺はただただ見送ることしかできなかった。
誰かに助けてほしいくらい息がうまくできなくて、心臓が異常に早くなって、こらえきれずに俺も泣いたりして。心臓を刀で一突きにされたほうがよっぽどマシだと思えるくらい、彼の泣き顔が頭から離れないでいた。
勘右衛門はいつも通りなのに、どうして俺はいつも通りができないんだろうって。泣いたって現状は変わらないし、疑うことを知らない俺にはもう戻れない。
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