同族嫌悪ではない。
俺と彼は同族ではない。
でもあの顔を見るとたまらなく吐き気がする。
何がどう嫌いなのかわからない。嫌いなのか苦手なのかそこらへんも曖昧でわからない。馬が合わない。多分、今、その言い表し方が一番しっくりくるものだと思った。
「尾浜」
名を呼ばれた瞬間、声だけで誰かわかるなんてそろそろ俺も末期だと思う。
表に出しているつもりはなかったけれど、振り返った時の俺の顔を見て、彼があからさまだねぇ、と笑った。失敬、こちとら無意識なもんで。
「なに?」
「久々知から伝言。今日は遅くなるから先にご飯食べといてーだってさ」
「ふーん、わかった」
「じゃ、確かに伝えたからな」
久々知もなんでおれを使うかな、とボヤキながら足早にこの場を去ろうとする姿を睨みながら、俺も全く同じことを思った。
俺と彼がこういう関係だってことは他の五年生や先輩、先生方、もしかしたら下級生ですら知ってるというのに。何を思ってか、俺の級友は何かと彼との間を持ちたがる。
別にそれに対して怒りはしないけれど、嫌な気持ちになるのは俺と彼の当事者だ。放っておいてくれてもいいのに、と心で思っていても、なんとかお互いの印象を良くさせようと必死に動く兵助を見ると強く言えないのも事実で。それはきっと彼も同じだ。
そういえば俺はいつから彼に対してこういう感情を持ち始めたのだろう?第一印象は覚えていないけれど、まだ下級生だったときは好印象だったはずなのに。いつからだ?いつから俺は冷たい目で彼を見るようになって、声をかけられただけでも嫌気を感じるようになったんだろうか。
そんなことを悶々と考えていたらいつの間にか残りの授業も委員会も終わっていた。さっきまで何をしていたのか、あんまり記憶に残っていないほど目の前の出来事に全然集中できていなかった。しかもその理由が彼のことを考えていたからと気付いた瞬間、全身に鳥肌がたった。あー気持ち悪い。
「また名前関連か?」
一年生が帰った今、委員会が行われていた部屋には俺と鉢屋しかいない。何かの本を読みながら興味なさそうに告げられた言葉に、俺はただ無言を肯定として返させてもらった。
すると今度は小さな溜め息が聞こえてきて、飽きないねぇ、と嫌味を言われる始末だ。
「鉢屋はさぁ、覚えてる?俺がこんなふうになった時のこと」
「そんなもん私が知るか」
「俺、なんでこうなったか理由が全然思い出せないんだ。いつからだっけなぁ…」
「お前、ずっとそのことばっかり考えてて今日一日心此処にあらずだったのか?」
「んー…」
「恋するおなごかよ」
恋するおなご。
あぁ、なるほど。そういうことか。
なるほど。今わかった。なるほどね。
「思い出した」
「は?」
「今ので思い出した」
「恋するおなごでか?」
ゆっくりと頷いた俺は、開かずの扉が開いたかのように、その時の記憶が鮮明に掘り起こされていくのを感じた。
「四年生になったばかりの時だった。夕方、私服に着替えて門へ向かう彼を見たんだ。俺は普通に気になったから出かけるのかって聞いたら、そうだと彼が答えたんだ。でも行先を聞くと秘密って言われて。もう日が暮れて遅かったから月が出たら帰ってこいよって言ったんだ。そしたら少しだけ考えて、困った顔をした彼が、曖昧に笑いながら善処するって言ったんだよ。俺はそれを咄嗟に嘘だって思った。何で嘘までついて外に出るんだろうって思った。その日はあまり眠れなくて結構遅くまで起きていたんだけど、彼が帰ってきた気配はなかった。起きてるのに疲れていつの間にか寝てしまって、兵助に遅刻しちゃうって怒られるまで起きれなかったことを良く覚えてる。食堂に朝ごはんを食べに行くと、彼がいたんだ。何食わぬ顔で席に座って同室の子と楽しそうにご飯を食べていたんだ。俺は彼を見ていたのに、彼はちっとも俺を見ようとはしなかった。そのまま彼は友達と話しながら食堂を出たんだけど、その時入口の近くで座ってた俺の横を通って行ったんだ。そしたらさ、彼が俺の隣を通った後、微かに変な匂いがふわりと漂ったんだ。その時は嗅いだことはあるけどそれが何の匂いなのか全然わからなかった。でもすぐにわかった。あれは遊女がつける匂い袋のそれだって。吐き気がした。気持ち悪くなった。頭がおかしくなりそうだった。あの時の彼の言葉の意味を理解した瞬間、どうしようもない気持ちになった。そういうことをした後で、彼は何事もなかったかのように振る舞って、あんな顔で笑って、いつも通り過ごして。彼のような人でもそういう行為に興味があるんだとか、してしまったんだとか、慣れているんだとか、考えると…もう前のように接することができなくなってしまったんだ。それがきっかけ。この関係の始まりだったんだ」
俺の長い長い独り言を、片肘をついて聞く鉢屋は話の途中で一切の口を挟まなかった。否、挟む隙がなかったのか、敢えてそうしたのかは知らないけれど、自分の記憶の断片を語るのに夢中で鉢屋のことなんて考えてる余裕なんてなかった。
ようやく話し終えた俺は、何故だか少しすっきりとした気持ちになっていた。忘れていた、いや、蓋をしていた記憶を誰か他の人に話すことで、抱えていたものが減った気がした。
「っていうか、お前も夜伽は経験済みだろうが」
「そうだけど…それは五年にあがってからの授業でやっただろう?」
「その時には名前だけじゃなく他の連中も何人かは先に済ませていたぞ?もちろん私もな」
「へぇ」
「………、なんだその反応は」
「別に?」
「聞くがお前、今私に対して嫌悪感持ったか?」
「鉢屋に?なんで?」
「授業でやるより先に筆下ろしをしたのが汚らわしいと思っていたのなら、私にそういう感情を持ってもおかしくはないだろう?」
「え?鉢屋だからなんとも思わない」
「それ酷くないか?」
「あー、違う違う、そうじゃなくて。鉢屋が先にしていたどうこうについては、鉢屋だしな、で終われるからなんとも思わないって意味だよ」
「それもどうなんだ」
「ただ…彼はさ…、違うじゃん」
「なにが」
「そういう行為をしたいって思ってしに行ったわけでしょ?」
「私が知るか。でもまぁそうだろうな」
「あんな…、あんな綺麗な顔で女を抱いて、いつも俺たちに向けてた柔らかい笑みで遊女を見るんだって思うと、なんか気持ち悪い」
「はぁ?」
「なんか、変」
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。彼が女を組み敷くなんて想像できない。本来なら逆でもおかしくないのに。そうだよ。逆でもおかしくないんだ。っていうかむしろ彼がされる側なら納得がいくんだ。
あぁでも彼がそういう場でそういうのを好む大人の餌にされるって考えると、やっぱり気持ち悪いけれど、女で想像するよりは全然ましだった。
「彼が不細工ならよかったのに。彼の相手が女じゃなかったらよかったのに。相手が男でもそれはそれでなんか嫌だけど、でもきっとあの独特な甘い匂いは残らなかったはず。あれやだったなぁ…思い出すだけで本当に吐き気がする」
授業で筆下ろしをしたときはどんなだったっけ。あんまりよく覚えてないや。ただなんとなく、その時も彼のことを考えながらただ動いていた気がする。
「勘右衛門…。お前さ、気付いてないだろうから言うけどさ…」
「なに?」
「それって嫉妬だろ?」
「嫉妬?なにに?誰に?」
「誰って…、名前が夜伽した相手に。嫉妬したんだろう?名前が通り過ぎたときに漂ってきた匂いの元凶に。自分が積み上げてきた名前への期待と羨望と独占欲が、見ず知らずの女にたった一晩でぶち壊されたことに。同時にそれを気にすることなく日常を送る名前に腹が立った。本当は自分が名前を組み敷きたかったんじゃないのか?自分の初めても名前の初めても、与え、奪うことができずに悔しいと思った気持ちが、名前に対しての嫌悪感となって今に至る。違うか?勘右衛門」
息が、詰まりそうになった。長く続けば死ぬんじゃないかって思った。
それくらい、鉢屋のはいた言葉に間違いを指摘する場所がなかった。その通りだった。一字一句、その通りだった。
「嫉妬をするってことはつまり、お前は「待って」おい、往生際が悪いぞ勘右衛門」
「皆まで言わなくていい。ちゃんと全部、理解したから」
「本当か?」
「…うん」
「………」
「そうか、俺…」
「ま、このご時世別に珍しくもなんともない話だ。お前がそうだと知って離れていく周りではない」
「いや、うん…それは…、うん…」
「問題は名前だ。あいつはお前と正反対の人間だ。かなりの女好き、と言えば語弊があるな。なんていうか、そう、誰よりも欲に忠実な男なんだと思う。その欲を吐き出せるのなら女であろうが男であろうがどっちでもいいんだろう。でもまだ喜ぶな勘右衛門。あいつは組み敷く側だ。組み敷かれる側ではない。あんなお綺麗な顔をしていても、だ」
「………、うん。彼になら、組み敷かれてもいいかもなぁ」
「まじか」
鉢屋の話を聞きながら頭の中で想像してみた彼は、あの授業のときに思い浮かべていた俺の下で喘ぐ彼ではなくて。俺を組み敷いて柔らかい笑みで見下ろしてくる、貪欲な獣の顔をした彼だった。
なるほど。あの顔で迫られて落ちない人間はいない。ぞくぞくと言いようのない感覚が体の奥底から湧き上がってくる。
今まで嫉妬していた女に更に嫉妬した。そういう顔をした彼を見てきた目を、記憶してる脳を、感じた体を、灰にしてやりたいと思った。あ、やばい。興奮が収まらない。
「ごめん鉢屋、ちょっと厠行ってくる」
「もう絶句だわ」
今までのあれはなんだったんだ。
呆れた声色でそう呟いた鉢屋の言葉を拾いながら、厠に行くまでに任務でも出したことないくらい本気で気配を消して行った。
明日から、彼とどう接していけばいいのだろうか。今以上に悪化しそうになることを鉢屋は想定内だろうか。
世界が喚いた意味を知る