まず家に入ったときに何かがおかしいと思った。その何かとは家具の配置だとか部屋の散らかりようだとか匂いだとか、そういうものではない。直感的に、自然体のようで不自然なそれは、意気揚々と帰ってきた自分の気分を酷く害させるものだった。
仮にそれが泥棒の仕業だったとして、この家の高度なセキュリティをかいくぐって俺の部屋に来たっていうなら是非顔を見てみたいと思った。そして盛大に褒め称えようではないか。
なんて、波江さんがいない空間で一人盛り上がっても切ないだけなので、早々に終わるとしよう。

そこでようやく波江さんがいないという事実に気付く。
家を出る前には確かにいた存在が、まだ帰る時間ではないというのにいないとは。彼女もある意味自由人だからいないことにさして問題はないけれど。
連絡くらい欲しかったと少しの落胆を背負いながら自室へと足を運べば、そこには先ほどの違和感の正体が逃げも隠れもせずに堂々と存在していた。

「は!?名前!?」

土足のままベッドで気持ちよさそうに寝ている人物に、心当たりは大いにある。
一年ぶりに見た兄の姿に妙な興奮を覚えたけれど、いけないいけない。寝ている彼に近寄ったが最後、隠しナイフでズタズタにされるから安易に起こしにはいけないのだ。
それならば自然と起きてくるのを待つしかないということを体に刻み込まれているので、深いため息をついた後静かに寝室のドアを閉めた。

彼が起きてくるまで仕事でもするか、と始めてから三時間くらい経っただろうか、寝室のドアが開きおぼつかない足取りでリビングまでやってきた彼の第一声は360日、だった。

「なにその数字」
「ボクが休みなしで働いていた日数さ」
「そこまできたら一年間頑張りなよ」
「過労死しちゃう」
「殺しても死なないくせによく言うよ」
「臨也酷くない?久しぶりに会ったっていうのになにその冷たさ。お兄ちゃん悲しい。泣く」

今にも泣きそうな顔をで言ってはいるが、実際この兄が涙を流しているところを見たことがない。故に泣くだなんて口では言っているが実際に涙なんか一滴も流れやしない。

「連絡の一つも寄越さないで人ん家に不法侵入した人が言う?」
「ピンポン鳴らしたよ?奥さんが出たけど」
「奥さんじゃないし。助手だし」
「え?違うの?姉さん女房かと思って喜んだのに」

何をどう捉えたら奥さんになるのか。いつまでたってもその思考回路は理解できない。
いやでもそんな勘違いを引き起こした兄と、そんな風に思われているなんて微塵も想像してない波江さんのやり取りは心底見たかったので、後で玄関先の監視カメラを確認しておこうと思う。

「っていか土足で入るのは百歩譲っていいとして、寝るときくらい脱いでくれない?汚れるじゃん」
「いやぁ眠気限界で」
「靴くらい脱げたでしょ」
「臨也冷たくない?」
「冷たくない。ここは日本なんだから靴脱ぐのが常識でしょ」
「っていうかあの人奥さんじゃないのかぁ。じゃあ殺しとけばよかったなぁ。勿体ないことしたー」
「ちょっと。話すり替えないでよ」
「だって身内じゃないなら殺さないと」
「…俺の部屋で血なまぐさいこと禁止だから」

折原名前は正真正銘俺の兄だ。
顔の作りは俺に似て美しく出来上がっている。いや、違うな。美しく出来上がっている兄に俺が似たんだ。髪の長さや年齢以外はほぼ俺と同じ作りをしている彼だけれど、その中身は残念なほど似なかった。

彼は俺と違って人間が嫌いだ。故に殺し屋として働いていて、その仕事ぶりは日本だけに留まらず海外でも活躍するくらいだ。360日休みなしで仕事をしていたというのも嘘ではない。彼は360日間ずっと人間を殺し続けていたのだ。

あまりにも彼の人間嫌いが深刻すぎて手あたり次第殺しまくるもんだから、俺は彼に一つの提案をした。毎日人間を殺すのはいいけれど、一日に50人しか殺しちゃダメという決まりを作った。
もちろん彼がそれをすんなりと飲み込むとは思わなかったので、ある条件をつけると気持ちが良いくらい素直に頷いた。あの時の豹変ぶりは少し可愛いものがあった。完全に贔屓目だ。

「っていうかそれ仕事着なわけ?」
「これ?うん、今はそうしてる」
「その恰好で昨日まで仕事してたの?」
「そうだよ。おかしい?似合ってない?」
「まさか、憎たらしいくらい似合ってるよ」
「でしょ?」
「いやに綺麗だなって思って。ホントに仕事してきたのか疑わしくなってね」
「えー?」

白いワイシャツに細いストライプが入った上下ベージュのスーツを身に纏ってはいるものの、どこにも汚れた形跡はない。むしろあるのはさっきまでそのまま寝ていたせいでついてしまったシワくらいだ。

「もうずっとこの仕事してるから返り血を浴びなくても殺せるようになったよ。凄いでしょ?」
「それは凄いけどさ…名前のおかげでいまやこの世界の人口がここ数年で急激に減ってるんだけど…」
「それって全部ボクのせい?」
「8割方名前のせい」
「すごーい!この調子でガンガンいこー!俄然ヤル気出てきたぁー!」

喜ぶ兄。最高に可愛い。完全に贔屓目だ。
だけど内容が内容だけに素直に褒めてあげることができないのが残念でならない。

「やめてくんない?俺の楽しみが減る!」
「臨也も一緒に減らしていこうよ!あの息の根を止める瞬間サイコーに気持ちいいよ?」
「名前はバカだなぁ。じわじわと息の根を止める過程が良いのに。あの今にも死にそうな絶望的な表情たまんないね!でもそこからが人間の面白いところで何がなんでも足掻いて生きようとする様は滑稽で愛おしいよ。それを手あたり次第殺して減らしちゃうのは勿体ないんだってば」
「良さが全然わかんない。まぁ臨也がそうやって楽しむために東京の人間にはあまり手をつけてないのがお兄ちゃんの愛ですよ」
「そこは感謝してるよ」
「でもなぁ、東京やっぱり人多すぎると思うんだよね。残りの5日で半分くらい減らしてもいい?」
「それ俺が許すと思ってんの?」
「だよねぇ」

そういってソファーでぐだぐだする姿に、せめてスーツくらい脱ぎなよ、と声をかけるも、聞き入れる気配は全くない。っていうかいつまで土足なの?いい加減脱いでほしい。ソファーが汚れる。
目の前のパソコンで今まで名前がやってきた仕事の数々を目で流しながら、東京でやられたらたまんないと思った。

「はぁ〜、臨也の最期早く来ないかなぁ〜」
「縁起でもないこと言わないでよ」
「だって約束したじゃんか?あれ早く果たしたくてうずうずしてるんだよね」
「もっと先の話のつもりだったんだけど?」
「えーーー!それっていつ?もっと先って具体的にどれくらい?」
「名前が死んだ後の話かな」
「え?それおかしくない?ボクが臨也を殺す約束がボクが死んだ後の話って…え?それおかしくない?」
「おかしくないけど?」
「え?え?じゃあボクなんのために一日50人って約束守ってんの?臨也がボクの手で死にたいって言ったから守ってんだけど?ん?おかしくない?」
「ぜーんぜん」
「え?えぇ?」
「ふふ、愛してるよ名前。俺の愛すべき人間であり、愛すべき身内、愛すべきお兄様」

人間を殺すこと以外、頭の悪い兄がなによりも愛しい存在だと自覚している。

「ボクも臨也のこと愛してるけど…臨也も人間だからなぁ…いずれは殺さなきゃだし。でも身内だしなぁ」
「思ってたんだけどさ、人間嫌いの名前も人間だよね?」
「そうだよ。でもその辺は大丈夫。ボクの死に方はもう決めてるから」
「そうなの?どんな?」
「まだ内緒〜」

にこにこにこにこ、虫も殺さないような柔らかい笑みをしながら、その口から出る言葉は物騒で狂気で鋭利だ。そうやって甘いマスクで騙して近づき痛みを感じとる暇を与えることなく人間を殺していく。
身内というか細い糸で繋がっている人間は、かろうじて彼の殺傷領域に入らないのだ。そこをうまく使って彼という人間を愛でる俺は、やはり最期は彼によって終わるのだろう。

今もなお世界のどこかで新しい生命が誕生し世界人口の数字が一つ二つと増えていく一方で、5日後その数字がガクンと急降下する様をこの一室で見届けようじゃないか。


5日後、彼が旅立った日の夜のニュースでは、東京だけでも死者30人を超える連続殺人の猟奇的な行動が報道されていて早速すぎて笑ってしまった。
どんだけ我慢できなかったのかって話。


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