警察組織に属し、中でも捜査一課に身を置いていれば嫌でも誰かの血を見るし、死体だって見る。最初の頃はこみあげてくる嘔吐感や惨殺死体のフラッシュバックで悩まされた日々もあったが、人間慣れてしまえばその対処法を身に着けるものだった。慣れって怖い。そう思ってはいても決して軽視しているわけではなかった。
けれど心のどこかで自分とは関係のない人たちだと割り切ることで、警察に身を置く人間も自分の心を守っていた。
だけど。
自分の目の前で、自分の同僚が二度刺され、おびただしい血を流して倒れる姿を見て、気が狂わない人間などいないのだ。
決して外してはならないストッパーが一瞬で外れてしまったような、そんな音を耳の奥で聞いた。自分が銃を構え狙いを定めるよりも先に、後方から聞こえた銃声が犯人にぶち当たった。容赦のない一撃のように、我々が込めてはならない殺意に似たものを感じた。
「名字!!」
先輩方が倒れた同僚にわっと近づく。一方は救急車を手配し、一方は上へ連絡を取り、一方は犯人を取り押さえて手錠をかけている。
いつもスマートに着こなしている紺色のスーツにらしくないシワが入り、いつもピシッと決めている白いワイシャツは自身の血で赤く染め上げられていた。同僚が父からもらったものだから、と大切につけていた臙脂色のネクタイから染料が溶けたのかと思うほど、胸部は赤く広がっていた。
かろうじて意識があるのだろう。みなが同僚に声をかけ続ける。「死ぬな!」「死んじゃだめ!」「もうすぐ救急車がくる!」「目を閉じるな!」と、罵声の如く言葉を浴びているにも関わらず、同僚はぼんやりとうつろな視線で遠くを見つめていた。
「××××、×××…」
そう言って静かに瞼を下ろした同僚は、とても安心したように眠った。
同僚は自分の命を諦めたのだろうか。生きることをやめたのだろうか。足掻くこともせず、抗うこともせず、ただ己の身に迫りくる「死」を甘んじて受け入れたように思えた。
だが、同僚が受け入れても周りは決してそれを受け入れることなどしなかった。何が何でも生かそうと、全員があらゆる手を尽くしていた。救急車が来て、タンカーで運ばれた彼はここから一番近い病院へとすぐに搬送されていった。
なにもかもが慌ただしく目まぐるしく事が進み、いつの間にか現場に残されていたのは自分と何人かの先輩方と、鑑識の人たちだけだった。「お前は行かないのか?」と誰かに声をかけられた気がするが、困ったことにどこにも行けなかった。
足が地面に縫い付けられてしまったからだ。針と糸とでがっちりと、一歩も動けないように縫い付けられているのだから、動きたくても動けなかったのだ。だからしょうがない。そう思っていた時だった。
背中に力強い衝撃が走り、前のめりになって顔面から落ちる寸前でなんとか踏ん張り姿勢を整えた。驚いて後ろを振り向き、更に驚く。そこには先輩の一人である佐藤美和子刑事が、目に涙を浮かべながらキッと睨みを利かせていた。
「何ボサッとしてるの!あなたも行くのっ!!」
そう言って走り出した佐藤さんに引っ張られるように一歩を踏み出した時、あれほどまでに頑丈に縫い付けられていた足が、いとも容易く開放されたのだ。あまりの呆気なさに足がもつれそうになったが、今自分が転倒しては佐藤さんも道連れにしてしまうと考え、それだけは阻止せねば!と慎重に走った。
もつれこむように、はたまた転がるようにして乗り込んだ佐藤さんの車は、佐藤さん自らの焦りを具現化したように走り出す。時折鼻をすする右隣を見ることはできなかった。
膝の上に置いた自分の手に無意識の内に力が入ってることに気付き、すぐに力を抜く。また無意識に力が入った手に気付き、また力を抜く。何故だかずっとその繰り返しだった。
病院についてすぐ、入り口で待っていた千葉に案内され、同僚が治療を受けている手術室の前へやってきた。そこには目暮警部と白鳥さんが緊迫した表情で赤く光る『手術中』のランプを睨んでいた。佐藤さんはすぐに目暮警部へ同僚の容体を聞いていたが、警部が小さく首を横に振った。
この扉の向こうで、生きることを諦めた同僚を、死にもの狂いで助けようとする人たちがいる。こちら側では、生きてくれ、助かってくれと願う人たちがいる。
その中で自分は一体、同僚にどうなってもらいたいのか、いまいちよくわからなかった。
ふっと、仄暗くついていたランプが消えた。緑色の手術服に身を包んだ医師とその助手が二人、厳しい面もちで出てきたのだ。いの一番に駆けだした佐藤さんは、真ん中に立つ医師に縋りつくように「名字は!?」と声を荒げた。
医師は一瞬口を噤み、目線を彷徨わせ、目を閉じる。ゆっくりと瞼を起こし、一度呼吸したのち、力なく首を横に振った。
「全力を尽くしましたが………、残念ながら………」
その場で力なく座り込む佐藤さんに、苦虫をかみつぶしたような顔で床を睨む目暮警部、苛立ちと混乱を隠せない白鳥さん、意気消沈と茫然と立ち尽くす千葉。今いる場所が一気に悲壮感で埋め尽くされ、酸素はあるはずなのに酷く息がし辛いと感じた。
やはり同僚自身が諦めた命を、なんとか繋ごうと努力したところで、急速に遠ざかっていく同僚の鼓動に追いつくはずもなく、振り切られてしまった。
だけど今、何故かこの瞬間、思い出したことがあった。
「そういえば僕、名字に貸した本があるんだった…」
独り言のように呟いた言葉は、この静寂の中では一際大きい音として周りに反響した。全員の視線が、一斉に集中したのを感じた。
「活字は嫌いだから本なんか読まないって言ったから、お前みたいなバカでも読める本だっつって貸したんだっけ。絶対一度も開けたことなんかないだろうけど、ならば尚の事、いい加減返してもらわないと」
「…高木君?」
「非番を交代してやった礼に晩飯おごるって言われて、まだおごってもらってないし…」
「………」
「前に家に泊まりにきたときに忘れていった物も、取りに来るっつってそのままだし…」
「………ッ…」
同僚がいい加減な人間だってわかったのは、お互いの距離が近づいてからだった。
こちらのほうが先輩だと言うのに敬う態度が見て取れないことに憤慨していると、屈託なく笑って誤魔化すのだ。
捜査一課に初めて赴任したとき、同僚はみんなの前でこう言った。
「誰もが平等に死を受け入れられるこの世界で、敢えて自ら死を選ぼうとする奴らに、報復という名の救いを与えたいのです」
何を言ってるのか、何が言いたいのかさっぱりだった。そもそも捜査一課に来た奴が言うようなセリフではなかった。第一その信念を掲げるのならば、今の同僚はまさにそれなんじゃないかと思った。
自ら死を受け入れた同僚の死に方は自殺と何が変わらないのだろうか。自ら死を選ぶ同僚には、報復と言う名の救いが与えられてもおかしくはないんじゃないか、と、そう思った時だった。
静まり返った手術室の中から、ガシャン!と器具が落ちる音がして、刹那そこにいる人たちの悲鳴が重なり合った。最初に動き出したのは医師だった。それにつられて二人の助手も踵を返し手術室へと戻っていく。
「何事だ!?…ッ……なっ!?」
声を荒げて入った医師も、二人の助手も、ある一点を見て固まったまま何も言わないのだ。
その尋常じゃない様子を不思議に思い、お互い顔を見合わせて頷くと目暮警部を筆頭に手術室の中に入る。心なしか、全員の表情が緊張で強張っていた。
中の様子を見て、誰一人言葉を発することができなかった。先ほどまでの理解し難い情報を一生懸命噛み砕いていた脳が、視覚から送られてくる情報と一致しないため、極度の混乱を脳内で巻き起こしていたのだ。
全員の視線の先には、虚ろな表情で何もまとっていない上半身だけを起こした同僚の姿があった。ストレッチャーの上には同僚の血がまだ乾いておらず、どれだけ出血していたのかを物語っていた。
今まで同僚を生かすために手を尽くしていた医師たちの、驚愕と恐怖が混ざりあった反応は正しいものだと思う。だけど何故か、この光景こそが正しいような気がしてならなかった。自分が投げ入れた同僚への報復が、こういう形で広がるとは予想もしなかったけれど。
「名字…」
思わずこぼした声に、同僚の耳がピクリと動いた。ゆっくりと声がしたほうへ顔を動かす同僚の姿は人間じゃない何かだった。
先程医師から聞かされた言葉は、直接的な単語がなかったにせよ明らかに『死』を意味する言葉だった。全員は必死に同僚が死んだという事実を受け止めようとしていたのだ。それなのに、今目の前で体を起こしている同僚は生きている。医師が判断を間違うはずがないのだが、どこからどう見ても同僚は死んでなんかいないのだ。
同僚は生気のない瞳で周りをぐるりと確認した。機械的に、見定めるように、一人一人の表情を読み取るように、ぐるり、ぐるりと顔を動かした。そんな同僚の姿を見て、医師が一歩距離をとった。
「なっ、なんだ君は!?わ、私は確かに!君の死を見届けたんだ!それなのに何故起き上がって!?いやそれもだが!何故さっきまであったものがなくなっているんだ!?わ、私は…!夢でも見ているのかっ!?こんなことが現実でっ!起こり得るのかっ!?」
混乱した脳内をそのまま言葉として口に出した医師を見て、回りにいた看護師たちも同僚から少しずつ距離をとった。
医師の言葉を聞いた同僚は刺されたであろう自分の胸部をじっと見てはぺたぺたと触り傷がないことを確かめているようだった。
確かに本来あるべき二ヶ所の刺し傷が綺麗さっぱりなくなっていたのだ。まるで最初から刺されていなかったかのように傷一つない素肌がそこにはあった。それに関しては目暮警部たちも驚きを隠せないでいた。
けれど、次に起こすであろう医師たちの行動を先読みしていたのか、目暮警部は佐藤さんと白鳥さんの名を呼んで手術室唯一の出入口を封じさせた。
混乱よりも恐怖が勝った瞬間、人はその対象から一刻も早く離れたがる。そのために医師たちがこの場から立ち去ろうと扉に駆け寄るが、二人の刑事がそれを許さない。
佐藤さんも白鳥さんも、目暮警部の言わんとすることを理解したのだろう。だからこそ異議を唱えることなく命令に従順であった。咄嗟の判断とはいえ、目暮警部の指示は的確であった。
「今この場にいる全員、彼に関してのすべてのことを口外することは許さん。特に先生方、あなたたちに言っています」
「隠蔽すると!?この得体のしれないモノを!?」
「得体のしれないモノだと?彼はまごうことなき私の部下であり、名字名前という人間ですぞ」
そう力強く言い切った目暮警部を、当事者である同僚はぼんやりと見ていた。
「私は確かに確認した!彼の心拍数がゼロになるのを!停止して動かなくなったところを!電気ショックで何度も蘇生を行ったがその事実は変わらなかった!それはここにいる看護師たちが証人になるんだ!有り得ないことが起きてる!一度死んだ人間が!生き返るなんてことは有り得ないんだっ!!それをガッ!?ッ………!?」
「なっ!?」
「キャァァァァアアア!!」
「ひぃぃぃぃい!?」
目暮警部に反論するようにまくし立てていた医師が、突然口から血を吐き、腹から血を流し始めた。スローモーションのように、突然の痛みに襲われた医師の驚きに満ちた顔に、何かで引っ掻いているような傷跡が生まれる。今、何が起こっているのか。ここにいる誰もわからない。
医師の体がふわりと宙に浮き、それだけでもあり得ない光景なのに、医師の体は誰かに投げ捨てられたかのように、壁へと吹き飛ばされた。鈍い音を立てて壁に打たれた体は、力なくドサリと倒れ、二度と起き上がることはなかった。
一瞬でパニックになった看護師たちが悲鳴をあげながらガタガタと怯えている中、一人、また一人と、先ほどの医師のように何かに襲われて死んでいく。
グロテスクなホラー映画を鑑賞しているような気分だった。人の死には慣れたとはいえ、目の前で起こる何の仕業かわからない惨殺現場に、誰も声が出ない。もしかしたら、医師たちだけでなく自分たちにも魔の手が降りかかるのかもしれない。底知れない恐怖に足が竦み、喉の奥がカラカラになって急激に水分が飛ばされていく。
さっきまで耳に届いていた悲鳴も、発するものがいなくなっただけで不気味な静寂が訪れる。自分たち以外に”何か”がいるこの空間は、むせかえる血液の匂いで通常の人間の精神状態を麻痺させるには容易かった。そこにいるのかいないのかわからない”何か”は、我々に手を出すことはないのか、ただただ嵐が過ぎ去ったあとの静けさだけが広がっていた。
証拠はないが確信はあった。同僚がやったんだと。そうでなければこの場の説明がつかないと思った。
医師を、看護師たちを、”何か”が殺した。目暮警部が隠そうとした事実が露見しないためには、何らかの形で彼ら医師たちの口を封じるか、それこそ最初からいなかった存在になってもらうほかなかったのだ。
まるで”そうしたほうが早い”とでも言うように、医師たちはただの肉塊に成り果てた。それが同僚の仕業だとなんとなくわかってはいても、何一つ証明できない現状の中、この状況をどう処理するべきなのか、問題はそこだった。
この部屋の四隅にある監視カメラに映る映像に、その”何が”が映っていたとして、上層部がそれを素直に認めるとは思わない。できれば何も映っていないことを願いたい。
素肌を晒したまま血だらけのストレッチャーの上でこちらに背を向ける同僚の傍らに、先ほどの”何か”がまだいるような、そんな感覚だった。
同僚は生きている。たったそれだけの事実が今の自分たちの足を立たせているのだと思った。
例え同僚の目が絶望に満ち溢れていたとしても。例え同僚が罪のない人を殺したんだとしても。例え同僚が人間じゃなかったとしても。同僚を死なせないために動いた我々の行動がこの未来につながったのならば、それは同僚一人に罪があるのではないのだ。
”ようやく、死ねる…”
あの時確かにそう呟いて瞼を閉じた同僚の言葉に、違和感を覚えていた。まるで死ねることが嬉しいと、そう言ってるように聞こえたのだ。
人の一生を100とするならば、まだ半分も生きてないくせに「ようやく」だなんて言葉、ますます人間味を感じられないその姿は、やはり医師の言った”得体のしれないモノ”という表現は間違っちゃいないのかもしれない。
例え本当に”得体のしれないモノ”だったとしても、彼が生きているのならば、今まで通り同僚として何も変わらない関係を続けることができる。それはほぼ歓喜を元に作られた呪いだった。
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