彼はずっと私に対して距離を置いて話していたように思う。そう感じる要因は、彼が私の名を極力呼ばないようにしていると気付いたからだ。
私と二人きりになることを避け、常に二人以上の空間をキープしていたように思う。けれどやむを得なく二人きりになったとして、彼の態度に焦りや困惑が見られても、嫌悪感は感じられなかった。他の人以上に名前を呼ばれないだけで、決して嫌われているわけでないような気がした。
私が彼に何かをした記憶はないけれど、知らず知らずのうちにしてしまっていたのなら謝りたいし、それがどういうものであったのかを知りたいと思っていた。一度そのことを高木君にそれとなく聞いてみたところ、彼とプライベートでも付き合いのある高木君は笑って否定したのだ。

「あいつは佐藤さんのこと嫌ってなんかいませんよ。むしろ本当に良い先輩だって言ってましたし!」

にわかに信じられないが、高木君はこんなに嘘がうまくないし、第一私に嘘をつくような人間ではない。だから本当に彼がそう言っていたのだろうと思う。
続けて高木君は「それに比べて僕だって先輩なのに敬う気配が微塵も感じられないんですけど!」と、急に彼の愚痴にシフトチェンジしていった。私はどちらかというと、それは愚痴というより自慢のように聞こえたが、最早口を出すことではないと自分の中で終わらせた。
高木君から聞かされた私の印象にますます疑問が浮かび、それどころではなかったという理由もある。

また別の日に由美に聞いてみたところ、首を傾げて「どこかで聞いた話…」と言った。
私が彼のことで由美に相談するのはその日が初めてで、高木君経由で由美にその話がいったとも考えにくかった。しばらく由美はうんうんと唸っていたが「思い出した!」と声を上げた。

「サイバー対策課にいる田中君が美和子と全く同じようなことを言っていたわ!」
「田中君?誰それ?」
「………」

顔の広い由美だからこそ知り得た話だったんだろう。
兎に角そのサイバー対策課の田中君とやらも私と同じ扱いを受け、同じ対応をされていたのだ。名前は滅多に呼ばれないし、妙に距離を置かれているけれど、心から嫌われている感じではない、と。
ちなみにその田中君は彼と警察学校からの同期らしく、決して仲が悪いわけではなかったのだ。ただ必要最低限以上に名を呼ばれることがなかっただけなのだ。

”佐藤”と”田中”。
彼の中でこの名前に何かトラウマでもあるのだろうか。と、そこまで考えてもう踏み込むことをやめた。考えることもやめた。
彼が私に対してマイナスな印象を持っているのが名前だけなんだとわかれば、後の自分の身の振り方は理解できたからだ。きっと田中君もそうして彼と今まで付き合ってきたのだろう。
彼がどうしてその名前にトラウマを持つようになったのか。佐藤と田中なんてありふれた名字、この日本に住んでると私たち以外にもたくさんいるのだ。その理由を聞くことはしないと決めたけれど、まさか彼を事情聴取しているときにその理由が明かされるとは思いもしなかった。

彼が死んで生き返ったあとの手術室で起きたあの一件は、警視庁内部でもごくわずかの人間しか知ることの許されない事実だった。
死んだはずの彼に、覚えている限りのことを聞き、知っていること全てを話してもらうためだけに設けられたこの場所で、その理由が明かされたのだ。

「亜人という人種がいるんです」

力なく下を向き、項垂れるようにしてぽつりぽつりと話し始めた彼を中心に、今は使われていない資料倉庫であの時のメンバーが集結していた。

「死んでから生き返る。それが亜人です。自分が亜人かどうかは、死んでみないとわかりません」

彼の話す言葉を一字一句聞き逃さないために、ボイスレコーダーとビデオ撮影を同時で行い、尚且つ千葉君が隣でパソコンを用いて文字起こしをする。

「ただ、今おれがいるこの世界に、亜人はきっと存在しません。亜人であるのはおれだけだと思います」

非現実的なことには慣れたと思っていたけれど、彼の話を聞いているとやはり現実が恋しくなる。彼の口から語られる彼の知っていることは全て、私たちの理解の範疇をゆうに超えていたのだ。

「パラレルワールドと言えばいいのか、生まれ変わりといえばいいのか、きっと世界軸が違うんです。こことあっちじゃ。だってここでは学校で亜人について習ったりしないでしょう?亜人っていう人種がいることも、警部たちは今日初めて知ったでしょう?もうそれが答えなんですよ」

そう言った彼の声色は、とても寂しそうだった。
亜人は死なないと亜人かどうかわからないと彼は言った。ならば今彼がこうして生きているのは、彼が亜人だと決定付けているわけで、つまり本当に、彼は一度死んだのだ。
あの時感じた喪失感は確かに本物で、そこに嘘偽りはなく、あのぽっかりと穴が開いたような感覚こそが『絆を亡くした』時にできる虚しさなのだと痛感した。

「亜人は人間じゃないのかね?」

亜人という人種、と言って彼はカテゴリーをつけた。だからだろう、警部がそれを聞いたのは。
彼はたっぷり間を置いて返事をした。

「……………、死んで生き返る人間を、警部は自分と同じ人間だと思いますか?おれは思わない。いくら姿形が人間そのものでも、騙されないでください。普通ならば一人一個の命なんです。亜人は違う。死んで生き返るんです。同じ人間のはずがない」

そうじゃない。そう言わせたかったんじゃない。
だけど弁明ができないほど、彼の言った言葉は的を得ていたのだ。

「亜人に人権はありません。人間じゃないからです」

下を向いたまま、一度も彼は顔を上げることなく話す。
亜人という人種は、私たちが考えているよりもはるかに難しい存在なのだろう。あんなにも明るく人懐っこい彼の面影が、今はどこにも見受けられなかった。
かける言葉が何一つ見つからない。もどかしい気持ちがぐるぐると渦を巻いて、”大丈夫だよ”とすら言えないでいる。
だけど高木君だけは違った。一歩彼に近づいた高木君は、項垂れる彼の後頭部を見下ろし、今にも無理矢理立ち上がらせんばかりの眼力だった。そんな高木君の表情を、私は初めて見たような気がした。

「お前の説明だと亜人ってのは、死ぬまでは僕らと変わらない人間で、痛みがあって、血が流れて、死に近づく恐怖も同じように感じて死んでいく。それは人間と何が変わらないんだ?口では分け隔てろ、区別をしろって言ってるようだけど、一番人間でありたいと思ってるのはお前自身じゃないのか?名字」

高木君の言葉は、私の心の中にストンと落ちてきた。ならばきっと、彼の心の中にも真っ直ぐに落ちたはずだ。
今まで覇気のない表情で何かを諦めたかのように話していた彼が、ようやく顔を上げて真っ直ぐ高木君の目を見つめて、やがてくしゃりと顔を歪めた。それから下を向いて、声を押し殺して涙を流した彼に、思わず皆が手を差し伸べようとしたはずだ。

「高木先輩…あんたの言う通りだよ…。体から温もりが消えて、意識が遠くなって、痛みが鈍くなって、光りが差し込まなくなって、死が訪れる恐怖を、死ねば死ぬほど味わうことになる。その瞬間はいつだって慣れないし、寂しくて、寒くて、嫌なんだ。できることならばもう死にたくない。ここは亜人がいる世界じゃないから、もしかしたらおれも普通の人間みたいに死ねるんじゃないかって期待したんだ。あの時、一生に一度、一人一回の死を迎えることができるんだって思ったんだ。二度と目覚めることのない”死”を受け入れることで、これほど安心して眠れる日はないと思ったんだ。嬉しかった。後悔はいっぱいあったけど、死ねることが嬉しかったんだ。だけど、おれの中の亜人はそれを許さなかった」

時折嗚咽を交えながら、線が切れたかのように彼は押し殺していた感情をさらけ出して、さながら愚図る子供のようにため込んでいたものを吐き出し始めた。

「自分が亜人だとわかった奴はみんな、亜人であることを隠し、周りの目を気にして恐れを抱きながら生きるんです。何故だかわかりますか?さっきも言ったように、亜人に人権はありません。死んで生き返るのは人間じゃないからです。世間にバレたらそこで人生は終了です。保護という名の監禁生活が幕を開けます。寝ても覚めても苦痛と死を味わって生きていくしかないんです」

彼の言葉を聞いて想像する世界が、私が今いる世界となんら変わりなくて、そのことが急に怖くなった。
彼が亜人である事実が世間に露見してしまえば、きっと彼は私たちの元からいなくなってしまう。それは彼の意思ではなく、強制的に引き離されるのだろう。

「死んで生き返る存在がいることを知ってる人間は、おれたちを人として見ちゃいない。時には毒を、時には衝撃を、時には圧迫をかけられて、人間がより良い世界で生きれるようにと生み出される物の裏には、おれたち亜人が死んで生き返るを繰り返した結果が伴っているんだ。死ぬために生き返る日々は地獄そのものさ。何度嘆いても何度足掻いても意識が戻ったら秒で死んで。普通の人間で同じことをすれば何人死んだかわからない日数を、亜人一人いればまかなえるんだ。いっそのこと殺してくれって悲願したところで、どう頑張っても生き返る自分に嫌気がさす。亜人を知る人間は、悪魔より恐ろしい考えを持つ人間だなんて、誰が信じると思う?」

だから今、正直ものすごく怖いんだ。
そう言った彼の言葉の意味は、噛み砕かずとも誰もが理解できた。私たちは、彼にとって恐怖の対象であり、彼を地獄に突き落とす悪魔となんら変わらない人間だと思われているのだ。冗談じゃない。

「怒ってくれてかまわない。あなたたちは違うと、信じたいおれもいる。だけど…!だけどっ…!」

沁み付いた恐怖には誰も勝てないだろ?と申し訳なさそうに彼は言った。

「中には自分が亜人であることを武器とし、世界を乗っ取ろうとした人がいました。あの人は亜人がいかに素晴らしい体質であるかを理解し、死なないことを逆手にとり、テロを起こしたんです。そんな過激派の連中を止めるには、止める側にも亜人が必要だった。おれはテロとして世間を混乱に陥れた奴らと戦うために、亜人でありながらも平穏に生きることができる世の中を手に入れるために、おれも亜人であることを武器にして戦いました。あっちでどういう終わりを迎えてこっちに来たのかは覚えていませんが、テロを起こした張本人と、それに加担した奴の名前はきっちり覚えています。主犯格の名は………」

そこまで言って、言いにくそうに言葉を詰まらせた彼は、一度だけ私を見て、すぐに逸らした。

「"佐藤"と"田中"です」

鳥の巣のようにぐしゃぐしゃに絡まっていた糸がするりと解けて、ピンと一本の糸になったような、そんな気持ちだった。
一瞬にして今まで私が見てきた彼の言動、行動、仕草、距離感、それらが全部繋がったのだ。由美から聞いたサイバー対策課の田中君の話も、私への対応もすべて、彼が記憶する向こうの世界での延長線上だったのだ。
この両者の名前はやはり、彼にトラウマを与えているのだと全て理解できた私の脳は、霧が晴れたようにすっきりしていたのだ。そんな私の心情を、彼は知る由もないけれど。

「おれの処遇は全部警部にお任せます。どんな結果になったとして、文句はいいません。”人並み”を望むことはもうできませんから」

そう言ってまた下を向いて私たちから目を逸らし、何もかもを諦めたように投げ出した彼を見て、警部は一度口を開き、けれど一言も発することなくまた口を閉じた。
彼が見ていないことをいいことに、私たち一人一人の顔を見た。そうして最後に高木君を見た警部は、そのまま高木君を見つめたまま動かなかった。
高木君の視線はずっと、首を垂れる彼へと注がれていたのだ。高木君だけが、警部と目を合わすことなく、彼を見下ろしていたのだ。私はその様子を、うまく言葉にできない異様な光景だと思えたのだ。
ふいに警部は高木君から視線を外し、目の前の彼へと意識を戻した。

「名字。あの病院で私が言ったことを、覚えているか?」
「………なにかおっしゃってましたか?」
「君はまごうことなき私の部下で、名字名前という人間だと、私は言ったんだ」
「………あぁ、それなら聞いていたかもしれません…」
「君の話を聞いたうえで、もう一度言おう。君は私の部下であり、名字名前という人間だ。訂正も撤回もせん。これが私の言葉だ。名字」

張りつめていた空気が、少し緩んだように見えた。少なからず緊張していたのか、彼の肩から力が抜けていくのがわかった。

「後悔しても知りませんよ?こんな厄介者を手元に置くなんて。気でもふれましたか?」
「そうかもしれんな。だが生憎、厄介事には慣れている。私だけじゃない。ここにいる奴ら全員だ」
「………そこまで言うなら、おれが信じれる唯一の人間になってください」
「望むところだ。だが名字も、人間であることを忘れて行動してはいかん。亜人だからと言って、特別扱いはせんからな」
「ちょっとはしてください」
「…どっちだね」

まるでさっきまでの重い空気が嘘のように、徐々にいつもの彼に戻りつつある様子に、ようやく一息がつける程度に肩の荷が下りた。
今の彼がそのように演技をしているのかそうでないのかはもうどちらでもいい。それは彼が死んだと聞かされたあとに生きているとわかったときから、彼が何者であるかなんてことはどうでもよかったのだ。
亡くしたはずの絆が再び繋がれることが、何よりも嬉しいことだと思えたのだから。
例えその事実のために私たちが隠蔽しようと動いたことが、己の掲げる正義と正反対のことだったとしても、”受け入れ難い死”よりも”彼が生きている今”を選んだ時点で、私たちは共犯者なのだ。

他の誰かに渡すつもりなど毛頭ない。私たちの元から離れていくことを許すはずもない。
それぞれ思惑は違えど、警部の下した判断に異を唱える者などここにはいない。

亜人である彼が死を受け入れたあの瞬間の、抗うことのしない素直さを見て、少しだけ羨ましいと感じた私もまた、気がふれた得体のしれないモノなのだろうと思った。

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