高校二年生の一学期に入って早々、工藤新一は自宅で不機嫌全開だった。
その理由となる元凶は新一の前に鎮座し苦笑いをこぼしている。その様子を少し離れた場所で呆れながらにも見守るのは工藤の幼馴染の毛利蘭であった。

「認めねェ」
「………」
「絶ッ対!認めねェ!」
「と、言われましても…」

頑なな猛反対に愕然を肩を落とす少年は、ソファーで腕を組みふんぞり返る新一の真正面で正座を強いられていた。

少年は真新しい学ランとシャツのボタンを開け既に着崩してはいるが、それについて怒られているわけではない。
さらさらと手触りの良さそうな薄茶色の髪を揺らしながら、少年は新一が座るソファーの後ろに控えているであろう人物にこっそりと目を向ける。少年の視線に気づいた蘭は、困ったように笑うだけで助けてくれる気配はなかった。
こればっかりは自分で解決しなければならないのだと認識した少年は、深いため息をつきそうになるのをぐっと我慢した。

「ごめんね?」
「…それ、何に対しての謝罪だ?」
「言わなかったこと、です」
「へぇ?何を?」

少年には新一に対して秘密にしていたことが三つあった。それを今日、この時まで知らされることのなかった新一が大人げなく憤慨しているだけの話であって何も少年に全面的に非があるわけではなかった。
これには深いワケがあった。

「一つは高校を別にしたこと。もう一つは名字が変わったこと。それを新一くんに秘密にしていたことに対しての謝罪です」

観念したように項垂れる少年の頭を見下ろす新一の眉間には深いシワが刻まれていた。
少年の弁解を聞き勢いよくソファーから立ち上がった新一は、そのまま仁王立ちしながら「大!正!解!」と叫んだ。新一の後ろで蘭が思わず耳を塞いだ。

「俺はお前が後輩になるのをものすごく楽しみにしていた!なのに!入学式で一向にお前の名前が呼ばれない事実に震えあがったぞ!?」
「う、うん…」
「蘭に問い詰めたら?帝丹じゃないとか言い出すし!?なんだよ江古田って!どこだそれ!」
「あー…」
「しかも!名字まで変わってどうなってんだ!?妃ってお前…、なんで今!そうなるんだ!?」
「ぅーん…」
「新一、そのことについては私も言えなかったから同罪よ。名前だけ責めないで」
「そうだけど!」

そう。少年、もとい名前と蘭はれっきとした姉弟であり、名前が高校に入学するまでは『毛利』を名乗っていたのだ。そのうえ名前は帝丹を受験しちゃんと合格までしていて、新一と同じ学校に通うのは秒読みだった。それがまさか、入学一週間前になって事態は急変した。

「英理ちゃ、お母さんが倒れたんだ。仕事ばっかりしてちゃんとした食事をとってなかったから栄養失調だったみたいで」
「え?おばさんが?」
「うん。実のところお母さんが栄養失調で倒れるのって今回が初めてじゃないんだ。そこでおれは1年くらい前に家族と話し合ってある約束を取り付けたんだ。もし今度こんなことがあったらおれはお母さんのところへ行くって」
「は!?」

今まで下を向いていた名前が、真実を語るために新一を見上げた。と、同時に突拍子のない話を聞かされた新一の体から力が抜け、ぼふん…と座り心地の良さそうなソファーへ逆戻りした。

「お父さんは蘭ちゃんが、瑛理ちゃ、お母さんのことはおれが面倒見るって決まったんだ」
「いやいやいや、でもお前高校生でそんな…」
「新一くんも知ってるだろ!?瑛理ちゃんが壊滅的に料理できないのを!!」
「うっ…」

急に噛み付かんばかりに声を張り上げた名前は、自分の母親の不器用な面を惜しげもなく露見させた。
長い付き合いである彼らの中で、それは改めて説明されなくても熟知していることだった。だからこそ、名前の神妙な顔つきに何も言い返せなくなる新一だった。

「そりゃ弁護士してるから忙しいのはわかるよ?でもそれで食事が疎かになって倒れられると色んな面で支障がでるだろ?弁護士っていう立場なのに、倒れて弁護人を守れないとか本末転倒だよ。おれは瑛理ちゃんが弁護士として活躍してるのを誇りに思ってるし尊敬もしてる。だからこそお父さんのことで手一杯な蘭ちゃんに代わっておれが瑛理ちゃんを支えたいんだ。だから瑛理ちゃんの仕事先と自宅が近い江古田高校を特別に受験しなおしたんだ」
「いや、その…それはわかったけどさ…何も名字まで変えなくても…」
「おれにとってそこは別に重要でもなんでもない。名字が変わったからといっておれ自身が変わるわけじゃない」
「じゃあ尚更変えなくても…」
「受験しなおすのに、学校側に少しでも有利に見てもらえるようにってだけだよ。無理難題を瑛理ちゃんが吹っ掛けたから学校側にもちょっと迷惑かけちゃったから本当に申し訳なく思ってるんだけどね」

照れくさそうに笑う名前とは違い蘭の目は明後日を見つめていた。
名前が言った学校側に押し付けた無理難題というワードに、あの時の母の迫力は凄かったなぁ、と他人事のようにその時のことを思い出していた。
妃瑛理と言えば敏腕弁護士で名を馳せているため学校側も知らない者はおらず、下手に事を荒立てない処置がとられたのだろう。そんなこんな、あれよあれよと言う間に様々な手続きが済まされ名前の名字、その他諸々が凄まじいスピードで変更されたのであった。

「なんで俺へ相談もなしに…」
「いやだってこればっかりは新一くんに言ってもねぇ?」
「それはそうだけどさぁ…」

自分だけ知らされなかった事実への疎外感が強かったのか、珍しく弱々しい姿を見せる新一に蘭は苦笑いを送る。

幼い頃から新一は名前のことを一等可愛がっていた。まるで世間に自分の弟ですが何か?と公言しかねない勢いでそれはもう溺愛していた。いやもうどこかで公言していた気もするので既に手遅れだとも思うが。
そしてそれは誰が見ても明らかで思わず工藤夫妻が幼い新一に正真正銘の弟を作ろうか?と問いかけたこともあったとか。

「名前じゃない弟なんていらない」

子供ながらにそう言い切った姿を見て重症だ、と感じたそうだがそこは工藤夫妻。まぁいっかで終わらせてしまった。

そんな溺愛している弟と同じ高校に通い青春を送れると踏んでいた新一は突然投下された真実にそれはもう立ち直れないほどのショックを受けていた。
目の前で申し訳なさそうにいまだに正座している可愛い弟を見て、自分と違う制服を着ている事実に受け入れたくない現実を目の当たりにしていた。悲しいかな名前にその制服が似合っていたとしてもだ。

「学校が違っても名字が変わってもおれたちの関係は変わらないんだから。そんなに悲観しないでよ」

それは暗に『本人が気にしていないんだからいつまでもウジウジしてんな』と言っているのと同じだった。
そんなこと言ってのけてしまうのは名前と新一とでお互いに向ける熱量に大きな差があったからだ。つまり矢印の多さでいえば明らかに新一のほうが多かったのだ。

「そうだ!俺も江古田に転校すれば万事解決じゃねぇか!?」

キラキラした目で『名案を思い付いた!』とばかりに後ろにいた蘭に振り返って笑顔を向けた新一に、蘭にしては珍しい酷く冷めた目でじっと見つめ返した。そのおかげもあり割りと早い段階でいつもの冷静さを取り戻した新一はバツが悪そうにソファーに座り直し頬をかく。

「まぁなんだ。俺も大人だからな。高校が違うくらいのハンデくれてやらぁ!」

新一の意味不明な強がりを敢えて掘り下げることもせず、むしろ(やっと)納得してくれてよかったと安堵の息をつく名前。
放課後電話するからどこかで落ち合って遊べばいいしな!と豪語していた新一の言葉に小さなひっかかりを覚えた蘭だったが、この場が丸くおさまった今、新たな火種を生むことはやめようと思いとどまった。その判断は本当に素晴らしい。

春からはじまった世界

「蘭ー−−!!名前に電話したら繋がらないんだが!?この番号は現在使われてませんってどういうことだ!?番号教えろ!今すぐッ!!!」

あの時自分が感じたひっかかりはコレだったんだ、と隣で新一が喚き散らすのをなだめることもせず一人納得していた。
その傍らで二人のもう一人の幼馴染である鈴木園子が「うわ出た!名前狂愛者!あの子もアンタも大変ねぇ」と同情されていたことを名前は知る由もない。出来ることならもうしばらくバレなければ弟の平穏が続いたのに…とたった一人の姉が残念がったのはここだけのお話。

ALICE+